長野の善光寺へ行ったことがありますか。
善光寺の本尊は阿弥陀(あみだ)さまです。
阿弥陀さまの両脇に二体の仏さまが立ち、合せて三体を、一般に「善光寺式阿弥陀三尊」と呼んでいます。写真の大蔵向徳寺の阿弥陀三尊は、善光寺の阿弥陀三尊の形式によるものです。(ただ善光寺の阿弥陀様は秘仏になっています。)
この向徳寺の阿弥陀三尊は、形が非常によく整って、美しく立派なもので、更に紀念銘(宝治三年)が刻まれ、国では大切なものとして重要文化財に指定しています。
三尊の中央が阿弥陀さまで、中央にいるので中尊といい、立っている仏像(向徳寺のもの)を立像といい、座っている仏像を座像といいます。
両脇にいる仏を脇侍(わきじ)といい、左が観音菩薩で、右が勢至菩薩です。
中央の阿弥陀様から話します。阿弥陀様の手を見てください。
右の掌を胸のわきで開いて、そとを向けています。
これは施無畏印(せむいいん)という印相(いんぞう)(手の形で)、仏さまで人間のいろいろな恐怖をこの手でとどめ、救うという手の形であります。
左手をさげて小指と無名指(薬指)を曲げています。
昔、飛鳥時代の頃には、この手の形式は釈迦如来(しゃかにょらい)であったのですが、どうもこの手の印相(手の形)を阿弥陀さまの手の形であるとは、はっきりきめられなかったのです。
ところが、鎌倉時代以降に浄土教が発達し、善光寺の仏像のように、中尊を阿弥陀如来とし、両脇に観音と勢至をはべらせて阿弥陀三尊というようになってしまったのです。
この向徳寺の阿弥陀さまの台座は、下の方のハスの花が下を向き、これを反花(はんげ)といい、その上はハスの花のしんの雄しべが細かく刻まれています。
この台の反花に「武州小台奉治鋳檀那父栄尊母西阿息西文、宝治三乙酉二月八日」と刻まれています。
小代とは、今の東松山市の正代(しょうだい)で、この地で宝治三年(1249)に造られたものです。
檀那(檀家または奉納者)は、父、母、息子の三人で、来世のためにこの寺へ奉納したものと思われます。
果して、納めた寺がこの向徳寺であったかどうかわかりません。
ただ、向徳寺内の墓地に板碑(青石塔婆)が何枚もあります。……
青石塔婆は今の板でつくる塔婆(とうば)と同じことで、その青石の塔婆に、梵字で阿弥陀三尊が刻まれ、また「南無阿弥陀仏」の六字が刻まれ、これから考え、この頃から浄土宗の寺が、ここにあったと思われます。
向徳寺は時宗(じしゅう)で、時宗は浄土宗の一派で、六時往生宗などといい、一日ぢゅう(六時)「南無阿弥陀仏」と唱える宗派です。
また、向徳寺は、火災にあったものか、この阿弥陀さまの頭部を見ると、ややとけています。
ですから寺は建物も新しいし、昔のことは殆んどわかりません。
まあ、このようなことから、多分、この阿弥陀三尊は、もともとこの寺にあったものでしょう。
なお、つけ加えますが、左は観音さまで、多くの場合、頭の頂に小さな化仏(けぶつ・仏像)が、ほってあり、右者勢至さまで、これは宝瓶(ほうべい・とつくりのこと)がほってあります。
機会がありましたら、この観音さまと勢至さまのことを書くことにします。
『嵐山町報道』267号 1977年(昭和52)8月1日
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