皆様御承知の通り大蔵は都幾川の南に位し、学校橋の管理をして居ります。毎年村の補助を戴いて居りますが、大字は約百戸近い戸数で、これが、上(かみ)、下(しも)、堀(ほり。掘ノ内)、の三組に分かれ嵐の日には組に当たった人達は学校橋の心配で皆苦労して居るのです。悪日は河原に出動し、昼夜の別なく焚火(たきび)をして警備につくのです。
万一流出の場合には係に当った組は弁当を腰に付け、一日中河の両岸を二組に別れて探すのですが組の者で見付からなかった場合は二日目は字中総出で見付けるのです。遠くは川越近在の釘奈司【現・川島町釘無】といふ約六里もある所まで行った事もありました。
又橋を上げた方には多少の謝礼を致して居ります。村の補助を一万五千円戴いても字からも又相当なかかりがします。橋板一枚作るにも約二千円の金がかかります。橋板は二十数枚の準備がしてあります。以上は橋についてのあらましですが、村の皆様に当字の苦難をおしらせした次第です。
『菅谷村報道』19号 1952年(昭和27)2月5日
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