大蔵館跡 通用門を発掘
町道 鎌倉街道裏付け
嵐山町教育委員会は、県指定史跡の大蔵館跡東側約三百平方メートルを発掘、幅四メートルの切れ目がある土塁二か所と堀を発見した。この土塁の部分は、大蔵館の通用門だったと推測できるという。
発掘は、現在ある農道が幅四メートル、長さ百五十メートルの町道に拡幅されることに伴って行われた。
大蔵館は、都幾川沿いの丘陵地にあり、広さ約三・四ヘクタール。木曽義仲の父、源義賢の館と伝えられている。義賢は、平安時代末期の久寿二年(一一五五)に源義平に攻められて滅び、当時二歳だった木曽義仲は、斉藤別当実盛によって木曽へ逃れた。
こうした、貴重な史跡のため、発掘調査して後世に残すことにしたものだが、大蔵館の表玄関の通用門が発見されたことで、同町教委では、国立婦人教育会館わきから鎌倉街道の笛吹峠を通って鳩山町へ抜ける町道が鎌倉街道だった、という見方を固めている。今後、調査を続け、報告書をまとめ裏付けることにしている。
『読売新聞』1984年(昭和59)1月8日
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