1943年(昭和18)9月に越畑城跡【大字越畑(おっぱた)字城山(しろやま)】に建てられたが、関越自動車道建設にともない、1979年(昭和54)、城山東側の関越道側道横に移設されている。渡邊金造陸軍中将(1874-1965)は当時、埼玉県翼賛文化会の会長だった。
碑前面
賛助
比企郡翼賛文化協会
大政翼賛会七郷村支部
七郷村越畑青木五三郎
越畑城址之碑
陸軍中将渡邉金造書
碑裏面
越畑城阯の記 埼玉縣史編纂嘱託 稲村担元撰並書
本城は荘山城守秀俊の築く所西鎌倉街道に臨み北高見を経て鉢形深谷に達志
南菅谷を過ぎ松山川越に到るべ志城地高峻にして険阻空湟塁阯歴々として存
し実に北武乃要害たり荘氏は武蔵七黨児玉氏に出で庄權守弘高庄太郎家長等
源義朝頼朝に仕へ功名ある家長五代の孫四郎泰家五郎為久泰家の子太郎弘長
等亦建武中興の際新田義貞に従ひ勲功ありしも南風競はず即ち新座郡槁戸に
退きて郷士となる戦国乃世に及びて弘長三代の裔秀俊山城守と称し永享十年
管領上杉憲實に分倍河原の戦に従比軍功に依り地を比企郡内に賜はり当城を
築いて居住す其子左近将監秀政越畑乃南杉山に支城を営み城阯今尚在り爾後
秀光弘忠等相継いで居を山内上杉北条氏に属し屡戦場に馳す行秀に至って式
部少輔と稱志北條家宰たり太平に及びて子孫橋戸及び足立郡新曾に居り専ら
地を拓きて祖先の祭祀を断たず子曩に嘱により庄家系譜を編纂志今茲建碑乃
擧あるに際し当所青木義夫氏の後援に依り城阯伐踏査し此記を作る
昭和十八年九月 東京板橋 荘寛 同大泉 荘園太 建碑
越畑城址碑.pdf
『嵐山町史』(1983年9月発行)288頁~295頁参照。「越畑城址之略記」(莊寛・莊國太)
※「越畑城阯の記」が誌されたのが1943年9月、写真の除幕式は1944年1月に行われた。
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