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「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

百嶋由一郎氏の神社考古学研究が齎した、猿田彦の正体。卑弥呼の正体。その1

2016-02-25 | 古代史

わたくしの説では、崇神天皇(神武天皇)が、久留米市大善寺玉垂宮にて『下照比賣命』と福岡県春日市須久近くに居られた『開花天皇』(若倭根子日子大毘毘命)の間で生まれた事になっておりますが、記・紀・日本神話との整合を考えますと此の時期は倭国大乱(大國主命=神産巣日神派と高木神派の権力争い)の真っ最中でもあり、此の時期の登場人(神)物(大國主命・市来嶋比賣命・ニニギ・木之花開耶姫・火照命(海幸彦)・彦火火出見尊(山幸彦)・豊玉姫・玉依姫・ウガヤフキアエズ・等)がどの様な関係を持っていたのかが、気に為りますが、記・紀では神話的に表現され、如何も真実が伏せられています様に感じ、記・紀には頼れません。高良神社下宮で祀られています『孝元天皇』は早世したと考えられ、記・紀ではスサノオ・天照大神・月読命がイザナギ(男神)の目と鼻から生じた事になっていますが、月読命の事跡は殆んど述べられていません。『大善寺玉垂宮』近くの『月読神社』(貝塚古墳)でひっそりと祀られています。

孝元・開花の時期は激動の部族間の政権争いが続いていた。と考えられます。わたくしの説の考えでは『宇那比媛=卑弥呼』や其の甥であります『建諸隅命』とその子であります『竹野姫』・『開花』の誕生年を推察、編年して、大國主命は西暦140年頃に生まれた事になっています。

『多祁里比賣命=市来嶋比賣命』が『豊玉比賣命』・『龍神比賣命』と同一人物であり、『下照比賣命』が『玉依姫』・『水神=水波能女命』と同一人物に想え、『開花天皇』が『彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウカヤフキアエズノミコト)=住吉大神』で、同一人物ではなかろうか?。「苅田市に在ります石塚山古墳(3世紀後半造築)が春日市から苅田に移動した鸕鷀草葺不合尊=開花(若倭根子日子大毘毘命)の墳墓であろう。」との自分勝手な思いの念が以前よりありましたが、記・紀ではそれ以上の情報は得られませんでした。

久留米地名研究会の編集員を為さっておられます古川清久さまよりの紹介で、平成27年10月の百嶋由一郎神社古代史研究勉強会に参加させて貰い、神社古代史研究の第一人者で有られました故百嶋由一郎さまの講演資料とCDを別けて戴き、検討させて頂きました。

講演資料からは、並外れた直感力と洞察で世界史・中国史・中国語の豊富な知識を以ってして日本古代史の解明に生涯をかけられたお方と感じられました。

神社史伝承研究の内容は驚くほど正確で間違いが少ないと思われ、わたくしの知識を超えた、豊富な六十数年のフィールドワークの経験と聡明な頭脳を駆使され、世界史観から大局的に日本史を捉えられ、首を促されます事だらけで大変勉強になりました。

百嶋さま(熊本県玉名市出身で黒木氏の末裔の一之瀬氏=今村氏=元は福岡県太刀洗町高橋区今邑の出身と考えられる由。)の最大の功績は、

記・紀には述べていない天之御中主命以後の五柱の神、高御産巣日(タカミムスヒ)神・神産巣日(カムムスヒ)神・宇摩志阿斯訶備比古遅(ウマシアシカビヒコヂ)神・天之常立(アメノトコタチ)神の人的関係と、それ以前の神々の人(神)的関係を含めて系図作成に挑まれた事に尽きるでしょう。

神社考古伝承調査と神紋研究、海外を含めての六十数年に亘ってフィールドワークの観察・考察を行い、1万数千回以上の系図変更をして、記・紀とは全く違った系図を完成されておられ、縄文時代の紀元前3千年頃には中国~朝鮮半島経由のヘブライ人が日本に遣って来ており、『神農さま』や青森県に在ります『八戸市』(第一ヘブライから第九ヘブライが)その痕跡であろう。また、人(イスラエル人・アーリア人・フェニキア人)と文化(鉄・赤砂・青銅・楽器・面・薬・機織・染色・発酵食の技術・言葉や祀り等の風習)の渡来の経路は1、ペルシャ・西アジア・地中海周辺~中国南部雲南省~海南島周辺から黒潮に乗って台湾~沖縄~九州。2、ペルシャ・西アジア・地中海周辺~中国上海周辺から沖縄・九州へ直接。3、ペルシャ・西アジア・地中海周辺~中国~朝鮮半島~九州の、幾つかのルートと考えられておられ、(中国・朝鮮・ミャンマー・ベトナムにも、数多く遣って来ている由。)

九州にて最初の国家的な組織形成が為されたと考えておられ、記・紀が述べています人(神)的・系図的内容は、自分の足と目と頭を使って神社研究考察をしますと実際の古代の流れは大きく違っていると考えられるとの事。

記・紀を始めとする当時の書物は以前の伝承を基にしての記述になっており、当時の権力者である藤原氏(春日氏=多氏=太安万侶)により、歪曲・改竄・捏造が行なわれており、『阿蘇氏の暦』で神武紀元2600年(昭和15年)を勝手に創り、積み上げられた歴史は、間違いだらけで信頼が出来ない。と謂う想いがあるようです。

わたくしも、記・紀に置いては『彦座王』の痕跡が『景行天皇』や『孝霊天皇』として、摺りかえられて消されており、スサノオ~大國主命~崇神時代の考察に於いての、拠り所が無くて困っていましたが、百嶋氏さまの神社研究資料は大変な意味をもっており、古代史研究に大きな前進を齎すものと考えられます。

 

わたくしの特に気に留まったのは次の事項であります。

神武天皇と呼んだ人は二人居て、本当(統)の神武天皇(大白太子)は倭の大乱の時、奴の國(福岡)から南九州(宮崎・鹿児島)へ避難され、その後全国各地へ御巡幸をなされている。もう一人の、後の神武天皇は崇神天皇の事で、勝手に神武天皇を名乗っておられる。記・紀での神武天皇の記述(宮崎神話・奈良県橿原神宮)は、殆んどが嘘であり、混乱を生んでおり、信じてはいけない由。

また、人代最初の天皇と成られたのは開花天皇(若倭根子日子大毘毘命)であり、大宰府の四皇寺山に降臨され、久留米の高羅山で即位された。九州王朝の本体は高羅大社(もう一箇所は佐賀県の久保和泉に在る由)で、大善寺玉垂宮は出張所であろう。神功皇后は最初の夫は仲衷で在ったが、後は開花天皇と夫婦になっていると考えられる。開花はウガヤフキアエズ(=大矢口宿禰)の後を受けて住吉大神に為ったものと考えられる。

と、述べられておられます。

わたくしの考えとは少し違っており(わたくしの説は大善寺玉垂宮が九州王朝の本体で高羅大社が出張所であり、住吉大神はウガヤフキアエズ=開花天皇であろう。四皇寺山に立ったのは神功皇后と思っていました。佐賀県の久保和泉地区から神崎市日隈地区は和邇氏≒秦氏の拠点と考えられ、古代史の秘密が隠されているものと考えられます。)ますが、

『開花天皇は春日四皇寺山(大宰府市北谷)に顕現された』とされ、開花天皇の存在位置がわたくしの春日市須久岡本地区とほぼ一致しており、『崇神天皇(=ツヌガアラシトとされています)が神武天皇を騙っている』も一致し、神社史研究と神紋だけで歴史の本質を看破されており、其の研究考察力に驚きました。

わたくしは、『本当(統)の神武天皇(神倭伊波礼毘古命)が居られた』と述べられている事に注目しました。わたくしの頭の中では、二人のハツクニシラスの問題は西暦220~258年頃の時間軸で、神武=崇神で決着が付いていたので、別にもう一人の神武天皇(神倭伊波礼毘古命)の存在に驚きました。

 

もう一つの驚きは、系図上にスサノオ(=天日槍とされています)の子として『辛国息長大姫大目命』と『市来嶋比賣命』が腹違いの姉妹として記入されて居た事であります。

『辛国息長大姫大目命』が神大市姫=罔象女ミズハノメとスサノオの間の子で記入され、『市来嶋比賣命』がアカル姫=磐(石)長姫イワナガ姫から生れたと記入されていました。

 

{記紀に於いては、大山祇(百嶋説では、=大國主命の父と考えられています)が糸島に居たと考えられますニニギ尊に磐(石)長姫(姉)と木之花開耶姫(妹)の姉妹を差し出しますが、ニニギ尊は石長姫を娶らなかったので、父であります大山祇はニニギ尊(=高木神)の天下が長くは続かないと予想し祈願します。}

 

百嶋系図に於いては、

大山祇(父はウマシアシカビヒコチ、母は天御中主=白山姫=天常立命=小河大神)と、妻であります草野(カヤノ)姫=埴安(ハニヤス)姫との間に、神大市姫=罔象女(ミズハノメ)(=長女)(西暦136年生)、次に大國主命(後に関東にて『武蔵大國魂』と称されます)(西暦142年誕生)と、妹の木之花開耶(コノハナサクヤ)姫(西暦150年生)が記入され、『木之花開耶姫』と『辛国息長大姫大目命』の関係は叔母(木之花)と姪(息長)の関係と謂う事になります。

 

もう一人の神武天皇と、『辛国息長大姫大目命』と『市来嶋比賣命』の関係を調べる事が必要に為りました。

 

 

百嶋さまの神社史研究に影響を与えた書物に、高良玉垂宮神秘書(高良大社発行)がある事に気付き、購入することにしました。

2015年10月20日(火)快晴の下、標高300m程の筑後平野を見下ろす、眺めの良い『高良大社』へ出向き購入(¥10000円)し、耳納スカイラインを通り、発心山~鷹取山から田主丸へ降り、平原古墳・大塚古墳・石垣神社を見学して帰って来ました。石垣神社の楼門の屋根の棟瓦には、ダビデの星(ユダヤの六星マーク)が認められ、此処田主丸はイスラエル系の人々(和邇氏=秦氏)が集落を形成していたものと考えられます。

 

高良玉垂宮神秘書は、元は13世紀頃の巻物(1巻34章551か条)で、当時の祭祀儀礼の作法を片仮名で、図混じりに克明に記した典籍であります。

高良記之初に天神七代の第一に 國常立尊 男神 とされています。此の 國常立尊 男神 をウィキペディアで見ますと

『日本書紀』本文では、国常立尊を最初に現れた神としており、「純男(陽気のみを受けて生まれた神で、全く陰気を受けない純粋な男性)」の神であると記している。他の一書においても、最初か2番目に現れた神となっている。『古事記』においては神世七代の最初に現れた神で、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)と対を為し、独神(性別のない神)であり、姿を現さなかったと記される。『記紀』ともに、それ以降の具体的な説話はない。

『日本書紀』では最初、『古事記』でも神代七代の最初に現れた神とされることから、始源神、根源神として神道理論家の間で重視されてきた。伊勢神道では天之御中主神、豊受大神とともに根源神とし、その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。その流れを汲む教派神道諸派でも国之常立神を重要な神としている。

と記入されており、

百嶋由一郎さまも久留米市水天宮(全国水天宮総本宮)に祀られています天御中主命(白山比賣命)は伊勢神宮外宮の豊受大神と同一神(天御中主命の子が大山祇=月読命で、その子が罔象女ミズハノメ)と考えるべきである。久留米市より伊勢に移動された。と考えられる。根拠は神紋である、葵と橘と木瓜=門光は関係があり、伊勢神宮外宮と高良大社の神紋は木瓜=門光で、同じである事)と述べられており、宇摩志阿斯訶備日古遅神(金越智=高麗白山経由?のトルコ系人=匈奴で、現在は出雲大社の客人(マロウド)部屋で祀られているのみで、隠された神である)が天之御中主神の夫である由。

 

わたくしには、日本書紀の記述には、藤原氏の捏造の影が付き纏い、余り信頼できないと考えており、天之御中主神、国之常立神、は同一神(女神)と考えています。

と、謂うことは久留米市瀬の下にあります(白山町の傍に水天宮があります)天之御中主神(白山姫)を祀る水天宮と高良大社の高良玉垂宮神秘書に述べられています国之常立神は同一神と考えられ、此処久留米市が古代史上大きな意味を持った地である事が理解できます。

 

記紀に置いては、高天原から天降りされたニニギ尊は、(わたくしの説では木綿の院=由布院から安心院経由で佐田彦=猿田彦が途中まで案内して福岡県糸島市曽根遺跡まで陸路で行った事になっています)笠狭埼(糸島半島)で大山祇の娘である木花之開耶姫と結婚して、火照命(ホデリ)=(海幸彦)・火闌降命(火須勢理命)、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)=(山幸彦)が生れた事に為っていますが、糸島市三雲(曽根遺跡の傍)には『細石サザレイシ神社』が在り、其処では磐長(イワナガ)姫と木花之開耶(コノハナサクヤ)姫を祀っています。

 

神社伝承史研究の大家でありました百嶋由一郎さまの説では、『大山祇』は大國主命の父であり月読命・三夜さんとも呼ばれていて、親は金官伽耶系の金越智(キムオチ)=宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコチ)で在った由。『大山祇』(月読命)の姉に大市(オオチ)の姫・燕脂(エンジ=オシロイの事)姫(後に奈良県御所市柏原の燕神社として勧請された)がいる由。

『大山祇』(月読命)は、白川伯王(西暦90年頃生){元々は中国雲南省昆明に起因して北鮮経由で倭(熊本)に遣って来た白(ペイ)族で、福岡県糸島の正統の神武天皇(神倭伊波礼毘古命)(西暦122年頃生)(その後には、勝手に神武を名乗った崇神=ツヌガアラシトも居た由)の招聘で『奴』の国王になり、姉に白山姫(西暦88年頃生)=天御中主命=天之常立神=小河大神が居た。}の子である草野姫(カヤノヒメ=伽耶のヒメ)=埴安姫と結婚をして、神大市姫(カムオチヒメ)=罔象女(ミズハノメ)=姉と、大國主命、妹に木花之開耶姫が居たとの事。

 

木花之開耶姫はニニギ尊=向山土本毘古王(ムコウヤマトノホヒコオウ)との間でコケムス姫(西暦173年頃)を儲けた後、別れます。その後に、前(埼)玉(サキタマ)比賣命に変名して、鹿児島県溝辺町から関東へ渡ったと考えられる人である。ニニギ尊はその後行方不明なので、金海(韓国)に渡ったのかも知れない。

ニニギを追放したのはウガヤフキアエズ=大矢口宿禰と考えられる由。このウガヤフキアエズ=大矢口宿禰は博多湾~豊前苅田~豊後杵築~豊肥祖母山地区で活躍し、老いて開花に『君長=九州王朝王位=十字剣』を譲った。ウガヤと開花の間を取り持ったのが鴨玉依姫(櫛稲田姫と、大幡主=神皇産霊神の子であります処の豊玉彦=鴨建角身=豊國主=秩父大神との間に儲けた子)である由。

 

(『大山祇』=『月読命』は久留米市大善寺玉垂宮近くの『月読神社』や田主丸町の『三夜さん』にて祀られており、草野カヤノ=伽耶の姫?は久留米市草野(田主丸の西側)に地名が在り、関係が頷かれます。)

 

『倭』の『奴国王』である『白川伯王(西暦90年頃生)=刺国大神』の2歳上の姉である白山姫=天御中主命=天之常立神は、金越智(キムオチ)(西暦85年頃生)=宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコチ)=金官伽耶系新羅金氏=渡来人と結婚をして『大市(オオチ=越智?)の姫』と『大山祇=大土御祖神』=『月読命』を儲けたと謂う事であり、久留米市の水天宮で祀られ、後に三重県伊勢皇大神宮外宮『豊受大神』であるが、隠された本質神は天御中主命と考えられる由。

 

夫であります『宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコチ)(西暦85年頃生)』は群馬県前橋市富士見町に在ります『赤城神社』で祭られています『赤城大明神』の事であり、金槐和歌集647にあります、源実朝(1192年~1219年)の和歌

『上毛(カミツケ=コウズケ)の勢多(セタ)の赤城のから社(ヤシロ)=加羅=韓、大和(ヤマト)にいかで足(アト)を跡(タ)れけむ』

が、13世紀当時は『宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコチ)』を、上毛国でも大っぴらに祀って居たと考えられ、その後に加羅国の王を祀るのは都合が悪い。と謂う事で

『赤城大明神』に変更された。と述べられており、事情により消された神であり、現在は東京日本橋の『水天宮』の男千木に名残があり、後は大國主命を奉る『出雲大社』の客人(マロウド)部屋にてコッソリと祀ってある。可哀想な相(スガタ)の神と謂う事であります。

 

九州倭、伯方(博多)には、白川伯王(西暦90年頃生れの白族)(西暦88年生れの天御中主命=白山姫=天常立=小河大神の2歳下の弟になります)の子であります、大幡主命(西暦110年頃生)=神皇産霊神=クマノ速玉=大若子と、姉が神玉依姫(西暦107年生)、妹に埴安姫=草野姫(西暦113年頃生)が居て、

大幡主命(白氏)は、金鑚大神(カナサ)(西暦106年頃生れの※モーゼ系嬴イン氏)=金山彦=面足尊(オモタラシ)の4歳妹でありますイザナミ=熊野フスミ(西暦110年頃生れのモーゼ系嬴イン氏)との間に豊玉彦命(西暦132年頃生れの白氏+嬴イン氏)=賀茂建角身命=八咫烏=秩父大神=思兼神=豊国主=天太玉=小若子=豊日別=大耶(弥)彦=弥五郎どん(総べて同一人物で、一般に『山幸彦』と呼ぶ)と、2歳姉に新羅から帰ってきたアカル姫(西暦130年頃生れの白氏+嬴イン氏)=磐長イワナガ姫がいます。

 

※モーゼ系嬴イン氏とは、アレキサンダー王に追われて中国に遣って来たイスラエルのモーゼの親族と、秦国の王嬴イン氏(始皇帝)が姻戚を結び、嬴イン氏を名乗るようになり、秦の滅亡後に、韓国~済州島(瀛洲ヨンジュ)経由で豊前~豊後に遣って来た『秦氏』で、漢族『袁氏』の血が混じっていたものも居た。と考えられます。後に琵琶湖の竹生島の瀛イン神社で弁天様として、天宇受賣命(芸能の神)=猿女=辛(秦?韓?)国息長大姫大目ウズメ命=斎奉る姫(市来島姫)が祀られます。

 

古事記ではニニギが結婚を断った事になっています大山祇の娘となっていますが、木花之開耶姫(西暦150年頃生)とアカル姫=磐長イワナガ姫(西暦130年頃生)の関係は、正確には20歳違いの義理姉妹となります

 

アカル姫=磐長(イワナガ)姫(父は博多の大幡主命)を新羅から追って来た(昔氏の)天日槍(アメノヒボコ)は、スサノオ(西暦127年頃生れ)の事であり(スサノオの父はイザナギ=西暦105年頃生れの新羅系昔氏=脱解王系・母はイザナミ=西暦110年頃生まれのモーゼ系嬴イン氏、イザナミの4歳上の兄が金鑚大神カナサ西暦106年頃生=金山彦=モーゼ系嬴イン氏の元祖)、

天日槍(アメノヒボコ)=スサノオは、兵庫県(丹波)から瀬戸内海を通って豊後国東の姫島に来た後、安心院にてアカル姫=磐長(イワナガ)姫(西暦130年頃生)との間で市杵島姫(西暦147年頃生)を儲けていて、その後中津市の古(胡)要神社・古(胡)表宮に来た。と考えられる由。

胡は、胡人=西アジア系ペルシャ人(胡=瀛=秦)を意味しており、後には滋賀県犬上郡多賀町に『胡宮神社』として移動している。近くに在ります『清瀧山』の清瀧も同様に苅田市『清瀧窟』から移動した由。

スサノオはその後に『金鑚大神(カナサ)=金山彦(西暦106年頃生)』と『埴安姫=草野姫(西暦113年頃生)』との間に出来た『櫛稲田姫(西暦134年頃生)』(熊本県山鹿で生れたと考えられています。スサノオの母の兄の子=姪にあたる)を娶り、『瀛津世襲足オキツヨソタラシ姫(西暦152年頃生)=建内足尼=武内足尼』と、『彦國瀛津ヒコクニオキツ(西暦150年頃生)』を儲けている。と考えられるとの事。

 

 

瀛津世襲足オキツヨソタラシ姫は、日本書紀では磯城県=城島県の葉江ハエ=飯江ハエ出身で、尾張連の祖とされ、第5代孝昭天皇の皇后に成り、天足彦国押人と第6代孝安天皇を生み、天足彦国押人の妻に為ったのが、木綿の院=由布院に居た宇奈岐日女=宇那比姫であります。

 

その後の天日槍(アメノヒボコ)=スサノオは、『大國主命(西暦142年頃生れの金官伽耶系金氏+白氏)』の6歳上の姉『神大市姫(カムオチ)=罔象女(ミズハノメ)?(西暦136年頃生)』との間に『辛国息長大姫大目命(西暦154年頃生れ昔氏+金氏+白氏)』を、儲けた事になっており、

 

つまり、スサノオは『アカル姫=磐長イワナガ姫(西暦130年頃生)』と『櫛稲田姫(クシイナダヒメ)(西暦134年頃生)』・『神大市姫(カムオオチヒメ)=罔象女(ミズハノメ)?(西暦136年頃生)』の三人の女性を娶ったと述べられています。

 

わたくしは、神代は古事記・日本書紀に依って考察をしており、スサノオは西暦80年頃生まれの帥升王年代の登場人物と考えて、帥升王=スサノオと推察をしていましたが、百嶋系図ではスサノオ(西暦127年生)は大国主命(西暦142年生)より15歳年上の年代とされており、『帥升王』はスサノオでは無い事になります。

『帥升王』は、周王朝末裔であります姫氏『委奴の國王』で合ったと考えられます、『委奴』とは(いど・いと)と発音され、『怡土の国王』と解釈されます。西暦90年生まれの(百嶋説では、博多湾を治めていたと考えられます=根拠は博多大博通り=大伯通り=大白通りです。)『白川伯王は、帥升王の依頼で熊本から博多に移動して太政大臣として倭を治めて居て、刺国大神と呼ばれた人』の事と考えられています。

大國主命の母とされています、『刺国若姫』とは白川伯王の子と考えられています。

 

この『白川伯王』の子が大幡主=地禄神=神皇産霊神=クマノ速玉=大若子(西暦110年生)で、姉が神カム玉依姫(西暦107年生)、妹に西暦113年生まれの埴安姫=草野カヤノ姫(伽耶の姫とも、とれます。)が居た事に為っています。

埴安姫=草野カヤノ姫は、最初は金鑚大神(西暦106年生)との間に櫛稲田姫(西暦134年)を儲け、次に大山祇=月読命=三夜さん(西暦111年生)の間に神大市姫(=罔象女?)(西暦136年生)大國主命(西暦142年生)木花サクヤ姫=前玉サキタマ姫(西暦150年生)を儲けた事に為っています。

 

『白川伯王』の痕跡は博多で(大博通り=太伯=大白)認められ、大幡主=地禄神=神皇産霊神の痕跡は大野城市白木原周辺から博多湾一帯にて残されており、大山祇=月読命=三夜さんの痕跡は、久留米大善寺城島の『月読命神社内の貝塚古墳』や、田主丸の祭り『三夜さん』にて、埴安姫=草野カヤノ姫は田主丸と久留米の間の『草野地区』にて認められます。天御中主命=白山姫=天常立=小河大神の姿は久留米市の『水天宮』にて、大山祇=月読命=三夜さんの子であります神大市姫(=罔象女?)は久留米市御井町の『御井味水神社』にて認められ、此処では孝霊期(彦坐王)に登場する『朝妻姫』の『朝妻』の地名もあります。彦坐王は田主丸町竹野(草野の隣)で儲けられており、筑後川を挟んで、北側の朝倉市には高木邑があります。高木神やその子であります栲幡千千姫・萬幡豊秋津姫・ニニギ尊が考えられます。高木神=高御産巣日神の正式の名前は『高見』と謂われ、朝倉杷木~千足に『高見』の地名があります。

朝倉甘木には『大己貴神社』にて大國主命の存在が考えられます。

そして、百嶋系図には大國主命を生んだのは、草野姫(=埴安姫)とされ、

日本神話では、神大市姫とスサノオとの間にて、宇迦之御魂神=稲荷神と大年神が儲けられた。と述べられており、宇迦之御魂神=稲荷神は、わたくしの考えでは息長氏(息長水依比賣命?)の事で有り、

(百嶋さまは、宇迦の『ウ』とは熊本弁では『多い』とか『大きい』事を言う。と述べられており、此処では『多氏=阿蘇氏=シナツヒコの御魂神』と解釈を考えられ、『龍神』で有ります息長水依比賣命かその子とされます御井津姫を指す事に為ります。亦、別の解釈としては、宇迦之御魂とはウガヤフキアエズの御魂とも解釈されます。わたくしは、ウガヤは開花天皇と同一神と考えていますので、彦坐王やその妃息長水依姫に繋がり、可能性は有ります)、しかし、『烏ガヤ』と『葺き合えず』で解釈するべきでしょう。

 

百嶋系図でも、神大市姫とスサノオとの間にて、田川(鷹羽)郡香春町の辛(秦?韓?)国息長大姫大目命が儲けられた事になっています。

 

百嶋さまは、辛国息長大姫大目命の『大目』は『ウズメ』と解釈して、天宇受賣命アメノウズメ(古事記)天鈿女(日本書紀)の事であろう。とされています。

天宇受賣命は、『猿女命』とも謂い、古事記では、天照大神の岩戸隠れの場面と、ニニギ尊の天孫降臨の時に登場しています。

 

伊勢神宮外宮の『豊受大神』と、京都伏見稲荷の『宇迦之御魂神』と三重県鈴鹿市の椿大神社の『猿田彦命』の妻『猿女』は豊受姫=豊玉姫=罔象女と、同一人物である。とされ、和歌山県日前神社の鏡は、伊勢神宮外宮の『豊受大神』=『罔象女』が造った。と考えられる。と関連性を述べられています。

 

つづく。

 

 

 

 

 

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