「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

古田武彦さまの『九州王朝説』は基本的に正しかった。と考えられる。

2012-11-08 | 古代史

垂仁天皇が近畿「纏向」に往った後の「倭」はどの様な展開を成したのでしょうか。考えて見たいと思います。

 

天孫族は、狗奴国との戦いの後(西暦250年頃以後)、魏の調停の下、数十年かけて近畿・中国・四国・北陸・中部・関東への移住が始まり、各地への分散を行ったものと想われます。秦氏・尾張氏・海部氏等の本体は、先住民(越の末裔)である出雲勢力の少なく、天孫族であるニギハヤヒの領地であった山代(京都)・奈良・近江に移り、尾張氏の建田背は初期に京都の宮津市へ、後期には纏向に崇神天皇を、近くの周りに葛城氏や息長氏・藤原氏・蘇我氏・物部氏等を、配して、近畿王朝を形成したものと考えられます。

多くの天孫族を残して本体が去った九州は、「句(狗)呉」と「天孫族(秦)」が入り混じった状態のまま、再び太伯末裔である狗奴国の王が支配する「倭」と成り、首都を菊池~玉名~山鹿辺りから豊前の行橋・黒田に変えて、新羅・近畿との交易にて栄えたものと考えられます。

 

狗奴国王の血を受け継ぐと推察される御真津比賣命(みまつひめ)と、天孫族と狗奴国の王の血を受け継いでいると考えられる崇神天皇の間に出来た伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)は崇神の後に「纏向」に佐波遅比賣命(狭穂姫)と一緒に出向き、第11代垂仁天皇と為っています。

ところが、第12代景行天皇の時代には九州の「倭」は纏向の謂う事を聞かなくなり、「熊襲の叛乱」として九州王朝(狗呉の王)は討伐をうける事になります。(その様が記紀では、神武天皇の東征業績として捏造されていると考えられます。)その後、倭建命、第14代仲哀天皇にも「熊襲」征伐を受けますが、「モグラ叩き」と一緒で九州王朝(狗奴国王家)は天孫族との争いを重ね、独自の外交と、経済で近畿纏向王朝を軽視します。

討伐を受ける度に天孫族の九州での残存勢力が増大したものと考えられます。527年には第26代継体天皇から、「磐井の乱」として討伐を受けますが、663年の「白村江の戦い」まで独自の路線を貫いたものと想われます。

 

《わたくしの述べる「九州王朝」は、天孫族の王が第11代垂仁天皇まで九州に居たと謂う事であり、古田武彦さまの狗奴国を含めた九州王朝とは時代的に重なる部分と重ならない部分があって、少し違う事になりますが、古田武彦さまの「九州王朝説」は基本的に正しい解釈と想われ、九州王朝(句呉王朝)は「白村江の戦い」まで在った。と考えられます。》

 

 

 

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