「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

『東院』から導かれる推察。

2012-11-16 | 古代史

古代史において、「院」とは上皇・法皇・女院の御所であると謂う事になっていますが、九州には幾つかの「院」が見受けられます。福岡市には「薬院」、田主丸町には「善院」、大分県には内町・安心町・由布町があります。

「薬院」は春日市に居られたと考えられる第9代開花天皇で説明が出来、田主丸町の「善院」竹野姫とその子である彦湯産隅命(崇道天皇)で説明が出来ます。院内町・安心院町・由布院町は『高天原』にて納得できます。

しかし、大分市にもう一つ「東院(とい)」と謂う「院」があります。位置は南大分に大分大学医学部病院が在りますがその北側です。千代丸古墳・庄の原遺跡・蓬莱山古墳・丑殿古墳が近くにあり、荏隈(えのくま)地区の名前もあり、句呉の豪族の残影を想い起させます。今日はこの「東院」から導かれるものを考えてみたいと思います。

大分市には第2代綏靖天皇高尾・葛木地区に存在を考えられますが、この高尾・葛木地区から南大分の「東院」への方角は「西」になり、「西院」で在らねばなりませんので、このお方ではありません。

後、考えられる天皇は第6代孝安天皇であります。このお方は『室の秋津島宮』におられ、此処は由布院と考えられます。『室』とは固有名称ではなく、四方、若しくは三方を山に囲まれた状態を謂うものと思われ、『盆地』の事を指していると考えます。

此処由布院には義姉である宇奈岐日女命も存在を考えられ、この孝安天皇が由布院から見ると東に当たる位置に「東院」を造ったものとも考えられます。

 

この様に考えますと、やはり、第6代孝安天皇は由布院に存在されたものと考えられ、玉手岡(たまでのおか)の御陵も由布院南大分に在ると考えられます。

 

《追補》2024年3月4日

その後の考察で、

『東院』トイとは、欽明天皇の子第33代『推古天皇』(額田部皇女豊御食炊屋姫尊)が、幼少期に第31代用明天皇(橘豊日天皇・池辺皇子)と一緒に暮らしていた『後宮』の事とも、考えられます。

此処の直ぐ傍に『小墾田宮』オハリダノミヤと考えられます『古国府』フルゴウが『高良神社』と一緒に在ります。

女優の『賀来千香子』さんの先祖が居られた『賀来』の地区が、間に在ります。

『古國府』の傍を流れている『大分川』の向こう岸に『牧』地区が有りますが、北条時政の妻『牧』の方の父親『牧宗親』の出身地は、駿河國ですが、古くは豊後紀氏の『牧氏』と考えています。

藤原不比等の後妻に為ります『県犬養橘三千代』とは、大分『犬飼』地区の『橘氏』の『三千代』と、謂う解釈で、豊後紀氏です。勿論、藤原氏も豊後紀氏(日出町藤原)出身です。

家康に協力した秀吉の正妻の『高台院』(北政所)は、日出藩(木下家)を授かっています。

 

磯城(久留米)斯麻シマ(唐島秋永地区)には、継体と手白香皇女から生まれた『欽明天皇』が、居たと、考えられます。

『欽明天皇』以前は、『武烈天皇』(501年、百済に渡って武寧王に為ったお方)や、百済に渡り『東城王』に為った『牟多』には、衛士500人を付けて送り出しています。此処唐島秋永地区には、他に、蘇我稲目・蘇我馬子(嶋大臣)も居た。と想われます。(蘇我氏の本貫地は奈良県では無く、豊後大分です。お間違えの無いよう注意しておきます。)

蘇我入鹿が殺された場所は、田川(鷹羽)~赤村辺りに在った飛鳥『板葺宮』(浦松遺跡が考慮されます。)です。

第50代『桓武天皇』の生母『高野』の『新笠』の出身地、『高野』タカノとは、『竹野郡』タカノゴオリと、呼ばれていた『唐島秋永地区』を意味しています。

古くは、賀茂建角身命(=八咫烏=玉依姫の父親で崇神の祖父になります。)が、瓊瓊杵尊から賜った『カワイの國』と考えられ、『川会邑』と呼ばれています。(ホツマツタエの叙述に依ります。)

唐島秋永地区から、車で3分位田主丸町へ向かい走らせますと、崇神(八咫烏の孫)の長男の『豊城入彦命』を意味しています『豊城』地区が在ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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