「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

夜麻登登母母曾毘賣命は息長大姫大目命と考える事ができます。

2012-02-24 | 古代史

師木県が福岡県の筑後地方に在ったとしたならば、記紀に出てくる地名や人名・系図等の解釈も異なってくる事になります。例えば「春日」や「御井宮」等です。

 

古事記によりますと、

第3代安寧天皇(師木津日子玉手見命しきつひこたまでみみこと)は片塩浮穴宮にて治め、師木県主波延の娘阿久斗比賣(あくとひめ)を娶って、常根津日子伊呂泥命(とこねつひこいろねみこと)、次に大倭日子鋤友命(おほやまとひこすきともみこと)=第4代懿徳天皇、次に師木津日子命(しきつひこみこと)を儲けています。

{安寧天皇が、わたしが比定地とした北九州苅田の浮殿神社に居られたのであれば、嫁に行くには、福岡県みやま市高田町飯江からは丁度善い距離と思われます。}

 

そして、師木津日子命には二人の子がいて、その一人に、和知都美命(わちつみみこと)淡道之御井宮(あはぢのみゐのみや)に居たとされ、その子に二人の娘が居て、姉の名前は蝿伊呂泥(はえいろね)。別名、意富夜麻登久邇阿禮比賣(おほやまとくにあれひめ)で、妹の名前が蝿伊呂杼(はえいろど)が居たとされており、この姉妹二人とも後に第7代孝霊天皇の妃になっておられ、姉である意富夜麻登久邇阿禮比賣(おほやまとくにあれひめ)夜麻登登母母曾毘賣命(やまととももそびめみこと)を産んだと書かれています。孝霊天皇は亦、春日之千千速真若比賣命(かすがのちちはやまわかひめみこと)も娶って、千千速比賣命(ちちはやひめ)を生んだとなっています。

 

仮に、わたくしの論じる師木県の位置が久留米市から大牟田市に至る有明海沿岸であったとすれば、淡道之御井宮(あはぢのみゐのみや)は兵庫県の淡路島である。との解釈には疑問符が付くことになります。「淡道之」を名詞として捉える考え方と、状況を示す形容詞として解釈する考え方もあります。

わたくしには、此処での「淡道之御井宮」は久留米市の御井町から三井郡にかけての地と考えられます。当時の筑後平野の状況は、679年の『筑後大地震』迄は、有明海が久留米地区迄海水が押し寄せて、筑後川の『淡水』と、『海水』が混じった『淡海オウミ=近江』の状況であった。と、考えています。

 

現存する最古の神社一覧である延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)(927年)にて「式内社」を筑後国にて調べますと、筑後国三井郡に高良玉垂命神社と豊比咩神社の二社があります。高良玉垂命神社の比定社は高良大社のみとされ、豊比咩神社の比定社としては、久留米市御井町にある高良大社と久留米市上津町にある天満神社境内内にある豊姫神社、久留米市北野町大城にある豊姫神社が挙げられていました。

この延喜式神名帳より7~8世紀前に存在した「淡道之御井宮」はこの辺に在ったと考えられます。また、春日之千千速真若比賣命も福岡市東区にある香椎宮の近くの「千早」の事と想われます。

 

そして、わたくしが比定地とした第7代孝霊天皇の居られた黒田廬戸宮(くろだのいほとのみや)(福岡県京都郡みやこ町勝山黒田)近くで夜麻登登母母曾毘賣命(やまととももそびめみこと)が生まれたと考えることができます。七曲がり峠(仲哀峠)の西向こうに香春神社があります。此処は、崇神天皇の御代に帰座された息長大姫大目命を祀っています。そして、わたしの心中では、ここ香春()には、第4代懿徳天皇(いとくてんのう)と第8代孝元天皇の宮が在ったと考えています。

 

天皇の在位を10~15年位としても、崇神天皇までは3代、30~45年位になります。時間軸も合います。やっと二人の接点が出来ました。やはりわたしの霊感どおりに関係が認められました。

夜麻登登母母曾毘賣命息長大姫大目命であると考える事が可能になりました。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする