「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

師木県の波延(はえ)・葉江(はえ)の場所について。

2012-02-18 | 古代史

最近、記紀に出てくる「波延(はえ)(古事記)・「葉江(はえ)(日本書紀)が気になってしようがありません。

 

古事記によりますと、第2代綏靖天皇(すいぜいてんのう)師木県主(しきのあがたぬし)の娘河俣毘賣(かまたびめ)を娶って、師木津日子玉手見命(しきつひこたまでみみこと)=第3代安寧天皇(あんねいてんのう)を儲けています。後に、この安寧天皇は片塩浮穴宮で天下を治めるのですが、母である河俣毘賣の兄の(師木)県主波延の娘阿久斗比賣(あくとひめ)を娶って、順に常根津日子伊呂泥命(とこねつひこいろねみこと)・大倭日子鋤友命(おほやまとひこすきともみこと)=第4代懿徳天皇(いとくてんのう)・師木津日子命(しきつひこみこと)の3人を儲けます。

この第4代懿徳天皇は軽之境岡宮(かるのさかいおかのみや)で天下を治められます。この方も、師木県主の娘、賦登麻和訶比賣(ふとまわかひめ)別名、飯日比賣(いひひひめ)を娶って、御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかえしねみこと)=第5代孝昭天皇を儲けています。

 

この様に、第2代から第4代まで師木県主が大王に嫁がせています。そして、人名以外にも、師木県には波延(はえ)と謂う地名があると考えられる事になります。

波延(はえ)とは何処にあるのでしょうか?

 

振り返ってみますと、解説書にも奈良飛鳥には場所の比定地が無く、辞書では、南風(はえ)とか、海中の暗礁。の事を謂い、用語の使用例としては、はえ縄漁法(水平にした長い幹縄に、釣り針をつけた枝縄を適当な間隔で数十本括り付けて行う漁法。まぐろ・さば・かれい・たらを、この漁法で行う)とか、下関の南風泊港市場(はえどまりこういちば)と謂った、海に関係がある地(近い地域)に感じられます。

 

 

 

わたくしは、『息長氏は秋永氏である。』顚末記。第2部「九州王朝を紐解く垂仁・崇神天皇と欠史8代の王。」で崇神天皇が居られた『師木』(しき)は『城島』(しき)のことである。と論を展開してきましたが、この「波延」(はえ)の場所問題もこの「城島」近くの有明海沿岸ではないかと考えました。暫らくネット地図にて探ってみますと、福岡県みやま市高田町に飯江(はえ)を見つけることが出来ました。柳川市の東にある瀬高の南に位置しております。八女市の方から流れてくる矢部川の支流の飯江川(はえかわ)があり、途中には飯江小学校の名前も見えます。南の熊本県境の南関方面を源流にしています。

 

 

こうして紐解きますと、師木県(しきのあがた)の範囲は久留米市から八女市・柳川市・みやま市迄は在ったと考えることが出来ます。大牟田市まで在ったのかも知れません。

この地域には弥生時代、有力な豪族が居たと考える事が出来ます。

そして、第2部にて、断定できなかった第2代綏靖天皇(すいぜいてんのう)・第3代安寧天皇(あんねいてんのう)・第4代懿徳天皇(いとくてんのう)は北部九州に居られたと考える事ができます。

 

 

 

 

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