団地夫婦の日々

常盤平団地夫婦の54年、団地内で気付いた事を時々に、妻の料理、私の買い物等

常盤平団地の54年 7 私とラーメン 1

2019-01-22 21:29:35 | 食いしん坊

朝ドラでは今朝から即席ラーメンを思い付く映像が流れています。

小さいときから食いしん坊の私には発明など縁も有りませんが・・

ラーメンの関する思い出なら幾つか・・

今から70年余り戦前の事、あれは私が国民学校(現在の小学校)1年生か2年生の頃の話です。

戦争の影が忍び寄って来てはいたのでしょうが、戸塚町3丁目(今の高田馬場4丁目の辺り)の大通りから横町に入ったこの路地の中程左右には銭湯青山湯、遠山理髪店が向き合って昼夜近辺の人で賑わっていたのですよ・・

 今残っているのは米屋さんだけです。 戦前からの老舗に挟まれて大通りは右も左も国際色豊かな学生さんが行き来する繁華商店街です。

その他この横町には、入り口角に熊田畳屋、松田米屋、守屋魚屋に・・他に神田川に近いこの地域では以前から染物屋、染み抜きや、織物の卸店も・・夜になると、灯りが付いて、どこかギヤマン?異国情緒のカフェも有ったのですよ・・私の家は数年前下谷(上野の近く)から家族で引っ越して来た町工場でしたのでお客の出入りは有りませんでしたが・・騒音だけは酷かったようですが当時は「煩い!」なんて苦情も無く・・でも当時は軍需で父は工員さんを数人雇って・・話が長く横道に逸れそうなので、そんな話はさて置いて・・・

煙突の聳える銭湯青山湯の横丁の角っこに、店主オヤジ一人の小さなチャンポンそば屋があって・・夕方になると赤っぽい灯りが付いて・・お風呂上がりのお客などがカウンターだけの店内でイッパイ引っ掛けて帰る寸法です・・

昼間、この辺りで蝋石で路上に丸い土俵を描いてお相撲遊びや缶蹴りしたり、入り組んだ横町でカクレンボしたりで遊び疲れた五、六人子供達・・夕食前のひと時、チャンポンやの前の道路脇の縁に並び、しゃがみ込んで何と無く灯りが点いた提灯と店内の灯りが照らす曇りガラスに目が行きます・・

ボ~っと薄明るい店の窓に、やがてカウンターのお客らしいの人の横顔が映りだして・・・

お客はお酒を呑み出したのでしょうか・・コップでしょうか持ち上げてグイっと一杯・・旨そうです・・

待ってましたとばかり私達ガキ一同は「イッパ~イ!・・・」飲み終わると人影は静かに動きません・・ガキどももジッとして、固唾を飲んで次のお客の動きを見つめます・・次の瞬間「二~は~い!・・」・・暫らくの間、路地は静寂と沈黙が重なります・・・その時「君ちゃーん・・ご飯よ~・・」子供達今日も仲良く元気に遊びました・・辺りは暗くなって夫々が直ぐ近くのお家に散っていきます・・

大通りから高田馬場駅方面は当時も賑やかな商店街でしたがラーメン屋はおろか中華そば屋も存在してた記憶は無く、子供の足で動ける範囲では、この居酒屋風のチャンポンそばが唯一の戦前の中華蕎麦屋だったように思います。

そう、今思い出しました・・下谷稲荷さんの脇、父が一人の町工場の隣で小さな煎餅屋を営んでいた母、高田馬場に引っ越してからでも、私を連れて高田馬場駅向こうの早稲田通りのお店にお煎餅を買いに一緒に付いて行ったことが何度か有りました。

お煎餅屋さんの隣のお店の決して綺麗とは言えないショウケースの一番下に大きな鯉の丸揚げ(今思えば蝋細工の商品見本だったと思いますが)が一匹飾られていたのです。ホコリを被って黒っぽい鯉の丸揚げでしたが、値段は書いて無かったか?或いは時価の表示だったかも知れません。

「こんな大きな鯉の丸揚げが・・」と見つめる私に母親はお店には興味なかったみたいで・・或は私に鯉を食わせろとねだられるのが怖かったのかも知れませんが・・

何度か母とお煎餅屋へは行ったのですが鯉の姿はいつも変わりなく魅力的で、どんなお店だったかは覚えていないのです。若しかして中華料理のお店だってかも知れませんが・・そして中華そばが有ったかも知れませんね・・

朝晩血圧を計り始めてから、お煎餅は口にしていません。中華そばも、カップ麺も残ったおつゆは胃袋迄運ばない昨今の私です。

 野菜中心で具が沢山入った酒粕入りのけんちん汁を作って呉れました、これならおつゆも飲み干しても大丈夫と・・ゴチソウサマ

ウインドウズが如何のときな臭いメッセージが出て来てます。今夜はこれで・・シャットダウンします。

 


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