goo blog サービス終了のお知らせ 

時戻素

昔の跡,やがてなくなる予定のもの,変化していくもの,自身の旅の跡など・・・

(No.147) 進化の犠牲

2009年06月25日 21時45分39秒 | Weblog
 新しいものは古いものの問題点が改善されていることもあって,機能や内容も充実している。しかし,目新しさや単純さなど古い物の方が勝っていることもある。
 以前から感じていたことであり,他にも同じようなことを感じている方も少なくはないように思う。特にこれを感じさせてくれたのが,某パソコンのOSやソフトであったり,ゲームソフトだった。前者については余計な機能をとか重たくなったとか言われているように思う。後者については,互換機によって使い道がなくなりつつも,捨てきれずにいた元祖○ァミコンが最近使えるようになったことで感じている。シリーズの多いものは後のものほど似たような内容が使用されていることもある。

 携帯なんかも読み込みが遅くなったり,電池の消耗が早くなったりと高機能化の問題点もでている。技術の進化によって不便さが強くなる例はよく考えてみると多い気がする。

(No.146) 【国内海外旅行(1)】 外国の雰囲気のあふれる町

2009年06月24日 23時59分23秒 | Weblog
【国内海外旅行】の記事一覧

1 (146) 外国の雰囲気のあふれる町
2 (168) 入国ゲート ~地上編~
3 (209) スタミナスープ
4 (272) 入国ゲート~地下編~
5 (364) アリラン食堂


※ 2010年5月31日。誤解を招きかねない表現が含まれていたので内容を改変しました。

 以前から「大阪の文化は独特」ということを耳にすることは多かった。いわゆる「関西人」の(マスコミなどによって作られたり,地元の人々が演じていたりする)強烈なイメージが他の地域とは違っていて,一つの国であるように見えることからこのように呼ばれているのだろうと思っていた。

 確かに,プロ野球は大阪に本拠地のあるチームOをさしおいて,トラが圧倒的であり,ナイター中継も全国とは別の試合を放送している。テレビ番組もローカルの番組が多く作られ,東京の局が作った番組は別時間帯に放送されるか放送すらされないこともある。信号の色の解釈も違う。自転車の台数が半端ではなく,駐輪マナーもすばらしい。警察の自転車でのパトロールもよく見かけられる。たまに,右側通行をしているのも驚きだ。○視庁にかかったら逮捕されかねない行為(法律上も刑の規定あり)も問題視すらされなさそうだ。自転車の装備にサスベーがつけるなどの特徴もあり,雨が降っても自転車移動もよくみられる。犯罪(特にひったくり)の発生率も高い。実際に関わったことはないが,「おおさかのおばちゃん」という独特のキャラクターも確立されている。よその出身者が一発で分かってしまうような関西弁イントネーションも独特だ。話にオチを求められることもあるようだ。

 日本の中でも際立った印象のある関西という地区だが,実際のところは転勤などでよそからやってきた人の割合も多い。住民もテレビで見るようないわゆる「コテコテ」な人ばかりではない。テレビで映される独特な「関西」は実際の関西のごく一部に過ぎない。先にあげたような特徴にしても,よく考えてみれば日本のどこに地域にだって独自の文化は存在する。ただ,マスコミによって取り上げられる頻度が多いためにイメージが強くなっているだけだろう。

 大阪は外国人登録者数が多い。平成20年大阪市統計書のデータから計算すると,生野区では人口の約30%が外国人であるようだ。中央,浪速,東成が約10%となっている。(住民基本台帳の総人口に占める外国人登録数の割合)にもかかわらず,そのことが意識されないのは,容姿が日本人と似ているからだろう。統計上もアジアの国々の人の割合が圧倒的に多いのが,さっと見ただけでも分かる。そして,それらの人々が多く住む町もいくつかある。そこの雰囲気はその国そのものといえるほどのものであるそうだ。地元の人を中心にが日常の買い物をする商店街であり,観光地でもある。「共生の街」と書かれた幕が入口にとりつけられているところもある。大阪という場所が,それらの人々にとって暮らしやすい場所であることを示しているのだろう。









 実際にそのような街で商品を見たり,食事をしたり,買い物をしたりということを何度かしているが,楽しくまた興味深い町だと感じた。日本国内において海外旅行の気分を味わえる「異国情緒」あふれる町についての記事をいくつか書いていきたい。

(No.118)ネット

2009年04月16日 22時22分30秒 | Weblog
家にネット環境がない生活が1週間と少し過ぎた。必要な情報がネットで提供されることも多く、家にいる間にそれらの情報に触れられず不便に感じたが、案外ないならないなりにいけるものだった。20日からはネット環境が整う予定。ネットが情報を得たり、発信したりするために欠かせない手段になっていることを感じた1週間だった。

(No.116) 少し離れていただけなのに・・・

2009年04月04日 16時26分44秒 | Weblog
 3月は鹿児島県外での用事が多く,その往復の片方を18きっぷで色々なところを回ってきたために鹿児島にいる日が少なかった。
 2日の朝,夜行バスで鹿児島に帰りつくと,5日程度鹿児島を離れていただけなのにいろいろな変化があった。

・阿久根市長不信任
・維新ふるさと館近くの甲突川沿いの歴史の道(?)
・近所の閉店になった焼肉屋の店舗を改造したうどん屋が開店。
・テレビ番組
・大阪直通の新幹線の熊本止まり説

他にもまだまだありそうだが,すぐに出てこない。

 また出身大学の方へも足を運んだ。
 出身のゼミ室に行って帰ってた時,某サークルから勧誘を受けた。1年生じゃないんでと言うとすぐに抜けられた。3年生ぐらいまではサークルの勧誘を度々受けていたが,4年生のときは寂しくなるぐらい声をかけられなかったので,もうおっさんになったんだろうなと感じていた。そもそも大学生の学年を見た目で見分けるのは新入生以外は難しいものだが・・・
 新年度が始まり,色々なものが変化しつつある。

(No.96) 鹿児島市の方位の感覚

2009年02月23日 01時44分28秒 | Weblog
鹿児島市の町名,郵便局名,学校名,駅名などで「東西南北」が入っているものは結構あるように思う。それらを見てみるとよく使われているものと使われていないものに分かれるような気がする。

 個人的な印象では「西」がかなり多く,次に「南」,「東」がそこそこ見られて,「北」はほとんど見受けられないように感じる。北が少ないのは日本の中でも南にあるためイメージに合わないなどの理由で片付けられそうな気もする。

 少し気になったので,とりあえず鹿児島市について調べてみた。

【お願い】集計ミスに気付いた場合,指摘をお願いします。

まず,学校編。

小学校
【東】 吉野東・東桜島・東谷山・桜丘東・星峯東・東昌
【西】 西田・西陵・西紫原・西伊敷・西谷山・桜丘西・星峯西
【南】 城南・鹿児島南・南方
【北】 

計 東…6校 西…7校 南…3校 北…0校

 東西がほぼ同数で,南は意外に少ない。

中学校
【東】 吉野東・甲東・東桜島・東谷山
【西】 城西・西陵・西紫原
【南】 鹿児島南・甲南・吉田南
【北】 谷山北・吉田北

計 東…4校 西…3校 南…3校 北…2校
 小学校では見られなかった名前も見られるようになる。北がつく学校があるのも印象的。

高校
【東】 鹿児島東
【西】 鹿児島西
【南】 甲南・鹿児島南
【北】 なし

計 東…1校 西…1校 南…2校 北…0校

 高校までなると数が少ないので,差も小さい。鹿児島北高校だけが東西南北ではない。

学校の部計
東…11校 西…11校 南…7校 北…2校

 南の数が思っていたよりも少なかった。東西の数は西が多いと思っていたが,同数であった。南北よりも東西に地域を分ける傾向があるのかもしれない。

次は郵便局名。名前中の鹿児島は原則省略して表記。
【東】 鹿児島東・東千石・東桜島・東俣
【西】 西郷団地・城西・西陵・鹿児島西・西伊敷三・西田・西桜島
【南】 南林寺・鹿児島南・南郡元
【北】 なし

計 東…4局 西…7局 南…3局 北…0局
 局数は学校よりもかなり多いはずだが,方位が含まれているのは14局のみだった。北を含む局は少なく,西を含むものが多い。

住所に用いられる町名(~○丁目を含む)
【東】東開町・東郡元町・東坂元・東桜島町・東佐多町・東千石町・東谷山・東俣町
【西】桜島西道町・城西・西陵・西伊敷・西坂元町・西佐多町・西千石町・西田・西別府町・西俣町・西紫原町
【南】城南町・南栄・南林寺町・南郡元町・南新町
【北】なし

計 東…8 西…11 南…5 北…0
 西がかなり多い。北が一つもないのも意外だった。

最後に駅名。( )内は旧駅名。
【東】なし
【西】(西鹿児島)
【南】南鹿児島
【北】なし

 現役の駅名としては南鹿児島しかなかった。
 駅数は,県規模にしてもそんなにないので,県規模でも試してみた。廃線となった区間は省略。( )内は旧駅名。
【東】東開聞・東市来
【西】(西鹿児島)・西頴娃・西大山・西方・西出水・(霧島西口)
【南】南鹿児島
【北】北永野田・北俣

計 東…2駅 西…6駅 南…1駅 北…2駅
 南が1つしかないとは思わなかった。もっと多く感じたのは宮崎県の影響かもしれない。それにしても西が多い。

 全体として東西の使用率が高いこと,南国だからと言って南はそんなに多くないこと,北はほとんど使われていないことが分かった。

(No.73) 便利で厄介な数

2009年01月31日 21時36分32秒 | Weblog
 数は結構不思議なものだ。
数で表されると分かりやすい。
昨日,県内の公立高校の志願者登録数が発表されたので,高校入試の例で考えてみる。
入試は3月5日に行われるので,「もう直前だ」というよりも,「残り34日」と数字で表されれば期間が具体的に見えてくる。

しかし,そうでもないときがある。
 
 13948人が定員といわれてもよく分からないが,それが「記録が残っている中では過去最低」と説明されると,その数字の持つ意味が見えてくる。

 データなどを示す時も,「茶は,静岡県,鹿児島県,京都府での生産が盛んだ。」と言われるよりも「1位静岡 2位鹿児島 3位京都」と数字を交えると説得力も増すように思える。

 歴史の学習においても,年号を覚えることはあまり本質ではないと言われているが,時代の流れをつかむ上で年号が分かれば分かりやすいし,説明の際にも年号を用いた方が分かりやすい。

 このように数で示されることで,あるいは示した数に説明を加えることで説得的に説明ができるし,説明された側も何となく説得力のある説明を聞いているように思う。
 ただし,数で示されることで見えにくくなってしまうこともあるように思う。

 自転車が関連する交通事故は全事故の2割を占めているそうだ。そのような現状の中で,昨年,改正道路交通法が施行された。自転車の歩道通行に関する記述が特に目立つ。ここまでから判断できることは,「自転車が歩道を無秩序に走っていること」が事故の原因のように思える。
 しかし,自転車の事故の相手を見てみると,自転車の事故は8割以上が自動車相手の事故であり,さらに対二輪車の件数も足すと9割弱になるようである。つまり,今まで法律を知らずに,歩道を走っていた者が,車道を通行するようになればなおさら事故は増えるようにも思えてしまう。もっとも,対歩行者の事故も10年前の約5倍になっているようではあるが,割合では2%未満である。対自動車との関係を改善する方が得られる効果が得やすそうに見える。法律こそ整備されたものの,道路の現状は改善されていない。自転車が車道を通っているがために,自動車が道路の中央へ大きく寄っている交通量の多い道路もある。その場合,歩道通行の例外が適用されるのだが,その場合,自転車は徐行をしなければならず,歩行者がいれば一時停止をする必要もある。少しでも急ぐなら車道のほうがいいだろう。道路の改善無しに,対自動車の事故は増えていくのではないだろうか。
 
 同じ数値であるはずだが,統計表をどこまで細分化してみるかでデータの解釈に差が出てくる。


 数字によって人間が勘違いをすることも多い。
 予備校の合格者数表記に「医学部○○人」という発表がある。
 医者を目指している人がこのデータを活用する場合,この数字だけでは十分に欲しい情報が得られているとは言いがたい。医学部には医学科と看護科など複数の学科が設置されているからだ。
 昨日発表された高校入試の倍率にしても,倍率が高ければ,不合格者数が増えるのは事実だが,実際の倍率は,受験しない者などが出てきてそれよりも若干下がる。自分の受ける学校が他の学校よりも倍率が高かった場合,必要以上のプレッシャーがかかってしまう。そのような場合,緊張が減る分,倍率を知らない(気にしない)方が平常心でいられるかもしれない。

 数字は便利であるが,それによって案外振り回されているところもある。
 数字とのうまく付き合えると,世の中の見え方が変わってくるかもしれない。
 数字だけでなく,その数字の持っている意味まで考えるようにするだけでも,見方はだいぶ変わるのではないだろうか。

(No.69) あぼ

2009年01月27日 02時45分11秒 | Weblog
 昨日の記事である名簿原稿のことを取り上げた。今回はその続きの部分に関連した内容を書きたい。
【   】(←自分にふさわしいと思う一人称を記入)は,昭和【  】年【  】月【  】日生の【   】座で,血液型は【  】型だが,皆はよく【    】型(複数可)と予想する。

 これで冒頭の一文が終わる。
 下線部①の一人称については昨日の記事の中で書いた。
 次に下線部②について,これは2007年4月に大学2年生以上が所属している団体においての名簿だったので,その頃は大学1年生の早生まれで,浪人をしていない場合が「平成」生まれだった。そのため,この名簿の原稿はそのままの状態ではその団体で使うことはできない。大学の場合,浪人生や留年者もそこそこ出てくることや社会人の再入学もあるため,昭和世代の学生が全くいなくなるというのはそう早くは来ないように思える。昭和の生まれに古いイメージがつきそうだが,平成に生まれなくて良かったと思うときの方が多い。

 さて,この記事の本題になる下線部③の血液型についてだ。
 最近は「○型の説明書」という本も出されている。(当てはまるのは半分ぐらいという注意書きがあるらしいが・・・)
 これは,血液型性格判断が信用されているという前提があって出されることになる。日常生活で血液型について聞かれるのも,性格判断の要素が強いのではないだろうか。このような文化があるのは,日本だけであり,外国人が日本で血液型を聞かれると,献血か輸血でもするのかと思ってしまうようだ。
 血液型と性格との因果関係が認められているように思えるが,実際にはそれを疑う意見も多い。この名簿の原稿の作成者も,血液型を聞いておきながら,予想される血液型も聞いていることからある程度は疑っていることが考えられる。

 血液型と性格との関係についての研究が行われたこともあったが,現在では十分な科学的な根拠はないと言われている。
 自分自身も占い師に「あなた最近不幸なことがあったでしょ」と言われ,「何で分かったんですか!」という展開と似ているのではないかと思っている。人間の性格にありがちな要素を4つに分けてみただけと考えている。几帳面=A型というイメージにせよ,人間誰でも自分なりのこだわりというものは持っているはずだからある面においてみんな几帳面と判断できるのではないだろうか。あとは,2次的な性格形成もあるように思う。自分は「A型だから几帳面なんだ」という思い込みから自然と「A型」らしくふるまってしまうこともあるように感じる。

 2年前の自分が血液型性格判断に書いた文章が以下の文章だ。
血液型と性格は、関係があるとよく言われる。試しに、身の周りにいる人の血液型を予想しよう。すると、予想が当たることは案外多い。しかし、本当に血液型と性格が完全に一致すれば、予想が外れるのはおかしいことになる。私は最近「B型」だと言われるが実はA型である。「B型」の性格として一般的に言われる特徴が表れているのだろう。今はそんな行動をとりながらも、かつては「A型」以外の血液型に見られたことはなかった。だが、高校卒業後、自分を取り巻く環境が変わり、いい加減な面が多くなって来たと思う。性格は環境によって変化しないと言い切ることはできない。したがって、血液型と性格との関係は疑わしい面が多いはずだ。

 この文章は血液型について語る目的で作成されたものではなく,限られたスペースに入る長さで,条件を満たされる表現に推敲したために文としては違和感があるところもある。

 そのためにかたくなに血液型を聞かれるのを嫌がる人もいる。血液型だけで絶対的に性格を決められるのを嫌がってのことだろう。確かに,少なからず血液型性格判断に科学的な根拠がなく,外れる場合も多いことから,それを絶対的に信じて,決め付けてしまう状況になればまずいだろう。他方,単なる話題として使われている場合もあるように思う。かたくなに拒む気持ちも分からなくもないが単なるコミュニケーションツール程度に考えられればいいのではないかと思う。科学的ではなくても,話の種として楽しめればそれでいいと思う。B型やAB型に変なイメージが多いことは少し気になるが・・・
 
 このように血液型性格判断が流行った理由として挙げられていることに,①「血液型も遺伝することの多い,家族の性格も似て来る」②「マスコミや本が取り上げていたから(日本人は本に記載されていることは正しいと思うため)」③「4種類で大雑把過ぎもせず,また覚えやすいから」などがある。
 それぞれの理由から考えさせられることも多い。

① 遺伝の仕組みを考えると,AB型の親からO型の子どもは生まれないし,O型の親がAB型の子どもを生むことができないのもよく知られているし,推理物等で親子関係を見破る際の根拠にも使われている。そう考えると血液型も場合によっては家庭環境が分かる危ない個人情報なのかとも思ったが,親子セットで血液型が出そろうことはそんなにないだろう。子どもの家に友達が遊びに来た時ぐらいかもしれない。

② これに関連した疑似科学などについては別の独立した記事で取り上げたい。

③ ある程度単純であることが大切だと思わされた。最近,自転車の通行に関する交通ルールを考えさせられる機会があったがこれがなかなか複雑である。小学生でも乗るものなのだから,もう少し分かりやすさ,守りやすさがあってもいいように思う。これについても深くはまた別の機会に・・・

 血液型性格判断から派生させるだけも結構色々なことを考えられるものだ。

※タイトルは血液型のABOをローマ字読みしたもの。

(No.36) 作成者像

2008年11月30日 03時30分31秒 | Weblog
 開設から1ヶ月以上が経っていた。
 事務記事を除く記事数が今回も含めて36。記事数もそこそこたまってきた。

 よく犯罪者や変わった言動を起こしている人をマスコミで取り上げる場合,ブログがあればかなり重要な資料になっているように思う。確かにブログの記事の傾向などを見ていくと,その作成者について分かることは多い。しかし,ブログ(ブログに限ったことではなく,小・中学校の卒業文集なども)その人の一面のみを捉えたに過ぎず,その人全てを理解するなんて無理なことだ。近所の人にインタビューは定番だが,近所の人がどれだけ当該者を理解しているのだろうか?あまりにも自信満々でインタビューに応じている人を見ると,思わず「本当に分かってないだろう」などとつっこんでしまう。
 
 
 話は変わるが,自分(作成者)を分析する資料としてこのブログが与えられた場合,どのような人物像が見えるのか分析してみたい。


 記事の話題は,回数の比重を考えなければ,川,鉄道,開発などが多く,制度,開発,離島そして,トイレなどにも触れていて幅が広い。
 
 川が多いのは大学の専攻が影響している部分もあるが,それ以前からも水辺の風景が好きなことの方が大きいかもしれない。
 

 もどかしいのがかなりの頻度で記事に登場する「鉄道」だ。登場の仕方には差があるものの16の記事に登場している。(AMUのツリーなど鉄道の雰囲気があまり感じられないものは除外した)

 こうなると,いわゆる「鉄」とか「鉄ちゃん」ということも推測できる。

 実際どうかと言われれば,鉄道は好きであるし,興味はあるが,その域には達していないし,達そうとも思っていないということになるだろうか。実際今話題になっている「0系新幹線」もどんな新幹線なのかニュースの映像を見るまでは分からなかった。

 旅の手段として用いることもあるので,使わない人よりは知識はあるだろう。
 また記事を書いたり,書くために現地に行くにあたって,その道の方が書かれたHPやウィキも参照しているので,そうした部分からも少しは詳しくなっている。「駅名票」「ホームの数え方」「跨線橋」などの言葉や表現方法の存在にも気付いた。今までの記事では「駅名の看板」とか「上下入れ替えができる駅」とか「歩道橋」とか書いていたはず。専門語はあまり使いたくないので,今後はどうするかは検討中。
 だが,駅の写真を撮りに行く場合の手段は旅行時を除き,原則自転車である。おまけに,駅に着いても入場券が必要な部分への出入りは1回もしていない。
 
 ただ,駅に対してはマニアの域ではないがある程度興味がある。このブログのテーマに合う部分も多いからだ。ブログを始めたのは最近だが,以前からこのブログに書いているような視線をもっていたからこそ開設する気になったのだろうし。
 2年前に提出したレポートで,駅の看板(駅名票)のイラストから地域の自然とのかかわりを分析したことがある。そのとき,駅や鉄道線路を「鉄道会社は,利潤を追求するために,一定以上の利用者がいると見込んだ地区を通るように線路を設置し,基本的に集落の近くに駅を設置していると考えられる。したがって,駅周辺または鉄道路線の周囲には人々が生活をしている土地があり,そこにはその土地の文化が形成されていると想定できる」とした上で,駅を「外部から鉄道を利用してその地を訪れる人々が,その地で最初に訪れる玄関のような存在の場所」として取り上げていた。実際駅員だけでなく,地域の方々が駅を整備しているところも多くある。(いらなくなった本を持って行ってもかまわないとしていたり,トイレの掃除やちょっとしたスペースに小物を飾っていたりなど)
 またこうした面とは別に,都市問題などと鉄道との結び付きも強い。「開かずの踏切」「高架化」「駅前商店街」「駅による市街地の分断」などがその例だ。都市に限らず,「三セク可」「廃線」「新駅設置」などはどこの地域とも関わりがあることだ。そのため,鉄道は作ったら終わりということはなく,絶えず見直されている。だから,変化も多い。変化を取り上げるこのブログにとって格好の対象だ。


 とりあえず,鉄道マニアか否かの内容はこれぐらいにしておきたい。



 制度に関する記事に法文や議事録の引用があることからも,作成者像に誤解が生じそうだ。確かに法律学を入門程度はかじっている。実際の裁判や議会(委員会)を見たことがある。そうした経験の反映はあるものの,記事のレベルはかなり低いことからも専門ではないことが表れているかな?


 あと,全体して「自然」「たどれるもの」「広く浅く」の傾向があるように思う。

 自然は,一応本業の専攻を更に細かく見ると「自然」という文字が入ってくるので関わりは強い。それを抜きにしても,かつてキャンプやハイキングなどに参加していたことからもそれなりに自然環境の中で過ごしてきた。今も海や森の近くに行くことは多い。たまに意味もなく行くことすらある。「自然」とはいっても本当の意味で純粋な自然はほとんどない。何らかの人間の手が加えられていることが多い。日本三景などにしても,完全な自然ではなく,神社などの建造物が含まれている。そのような自然と人間活動の合わさった風景にも興味を持っているし,そのような風景を撮影するのも好きだ。

 「たどれるもの」には川,線路(廃線含む),国道などが出ているだろうか。どのぐらいまで踏破したか達成具合を確かめられるので,それなりの達成感も生じる。「たどる」という活動も好んでしている。(このブログのタイトル通りだけど。)

 「広く浅く」興味を持つものは結構多い。だが,その道を極めたものはない。
 「広く」に関しては大学の専攻が総合科学に分類される以上,自分の学問分野だけやっていては見えてこない部分が多いことにも拠るだろう。もちろん,そのなかでの専門を深めることも大切だが・・・
 他方「浅く」については浅くしようとは思ってはいないが,「広く」の弊害としてやむを得ないものかとも思う。本当の専門分野が「浅く」なりそうになっているのは危ないけど。
 専門関係以外にも「教育学」も教員免許を取る程度に学んでいるのでこのことも影響しているかな。教科も社会科だし。



 自分自身で書いているから,気付く面もあるのだろうが,このブログから読み取れる(誤解されそうな)作成者像はこんなものかと思う。



 話は変わって,ブログの記事から記事の作成過程に移る。
 ブログに掲載する写真を撮っているとき,何も知らない人が見たらどんな人だと思われているのだろうか。間違いなく「かなりの変わり者」だろう。そんなもののどこが珍しいんだというものの写真も撮っている。川の跡とか市電の電停跡地とかそのことを知らない人にとってはただの道路でしかないだろう。そんなものを取っている人は,理解不能に違いない。

 おまけに史跡なども全て目立つ場所にはないし,普通の人が興味を持たないようなものや意識がないものまで探したりするので(もちろん法に抵触する探し方はしないが),ある意味不審者かもしれない。近くで窃盗とか起きたときには容疑者候補になるんだろうな。犯罪の目撃情報と犯人が一致していることは案外多くない。大幅にはずれていることすらある。「さかきばらせいと」も始めは35歳ぐらいの男だったし,名古屋の通り魔も最初は「男」と考えられていた。物騒な世の中になったなと思う。



※カテゴリーはweblogだが,これまでの記事をたどっているという点では,テーマに沿っているはず・・・