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時戻素

昔の跡,やがてなくなる予定のもの,変化していくもの,自身の旅の跡など・・・

(242) 時間教

2009年12月05日 20時18分00秒 | Weblog
災害並みの死傷者数を出してしまった脱線事故が起こった場所。

(2009年11月25日撮影)

 事故車両とほぼ同じ型の快速電車がかなりスピードを落として通過していった。
 脱線した電車が入り込んだマンション1階の駐車場には・・・

(2009年11月25日撮影)

 今もその跡が残る。
 近くの踏切脇に・・・

(2009年11月25日撮影)

 写真では確認できないが,踏み切りの柵の隣に見える祠のようなところに供え物と思われるものが置かれていた。
 この事故が起きた当時は関西の地理はほとんど分からなかったので,福知山線や宝塚線という名称から都市部から離れた場所で起こっていたのかと思っていた。実際は,大阪駅まで20分かかるかかからないかの尼崎市で起こっている。しかも,事故を起こした快速電車は大阪市を経由して京都奈良大阪の境界付近の学研都市の方まで乗り入れる電車だった。このようなことを知ってから,この事故に対する見方がだいぶ変わった。
 この事故の原因は,他社との競合で生まれた過密ダイヤや会社の教育や罰則体制の問題などが挙げられていた。
 事故を起こした会社の別の路線に乗った際,車掌がマニュアル(?)を徹底しており,指差歓呼を客席にも聞こえるぐらいの大きな声でしていた。ある駅を出たときに「○○(駅名),○時○分○秒発・・・よし」といって時計とタイムテーブルを指差しで確認していた。この車掌の勤務態度の真面目さにも驚いたのだが,もっと驚いたのは読み上げた時間が秒単位だったことだ。別の日に先頭車両に乗った際,運転席の辺りに立っていると運転士が確認しているタイムテーブルが見えた。駅名の横に書かれた時間は5秒単位になっていた。これはこの会社に限ったことではなかった。ほぼ毎日のように使用している私鉄会社のタイムテーブルが見えた際も5秒単位で書かれていた。2,3分の遅延が結構起こっている会社でもタイムテーブルはこのぐらい小刻みなんだと驚いた。
 この小刻みな運行ダイヤこそが日本の鉄道が定刻どおりに運行しているという事態が起こっているのだなと思う。定刻どおりにつくことは予定を組み立てる上ではありがたい。しかし,そのことによって時間に対しての寛容さが奪われているように感じる。大事な時には数本前の電車を使うのは常識ではあるのだが,遅延証明書を示しても遅刻が認められないケースもある。時間に余裕をもって移動した場合にももしものことを考えたら早く着いたほうがいいと思ってしまう。急いでいない時でも移動はできるだけ早い方が他のことに時間を割けるのではと思う。こうして移動に早さを求めてしまう。やたら速いスピードに恐怖を感じながらも速いから仕方ないかと思ってしまうときもある。
 時間に対する厳しさ,早さを求めすぎてしまう感覚等がこの事故の原因の背景にあるのかもしれない。

(241) 責任教

2009年12月04日 02時16分16秒 | Weblog
 事故やトラブルが起こった場合,その原因が追求され,その原因に関わったとされる組織や個人は責任を求められる。そのことからか,組織内での責任はその所在を明らかにすることが推進されている。当然のことだとは思う。マスコミをはじめとする周囲も「責任の所在はどこにあるのか」「どのように責任を取るのか」を問いつめる。これも事故の被害者やその関係者などにとってはやりきれない気持ちがあり,当然と言えば当然だと思う。しかし,いつまでその責任を問い続けるのか,それをやめるのはいつかというタイミングは難しい。
 逆に責任の取り方というのもよく分からない。責任の所在となる役職者の解任や降格というのが一般的に思えるが,何となく形として分かりやすい責任のとり方ではあるけれど,それが本当に責任を取っていることになるのか,改善につながるのか疑問に思うこともある。
 「責任を取れ」「責任の所在はどこだ」「責任者は誰だ」責任を求める動きが宗教的に見えることもある。確かに行動には責任が伴う。しかし,責任の取り方,責任の求め方には良く考えるとそれで意味があるのかなと思ってしまうこともある。慣習と感情の絡んだややこしい問題だ。

(240) 規則遵守教

2009年11月30日 02時53分39秒 | Weblog
 集団で何かをしようとした場合,秩序を維持するために規則というものは必要になる。 その規則に反する行為をしてしまうと何らかの制裁を受けることもある。規則という形ではないが仕事のやり方を統一するためにマニュアルが作成されることもある。マニュアル自体はそれまでのやり方の集大成として作られることが大半なので,効率やミス防止に貢献できるやり方だといえそうだ。本来,作業のやりやすさは個人によってあう方法に差があるはずで,マニュアルのやり方に慣れてくると完璧なマニュアル通りではなく,自己流が混ざってくる人もいる。それで,万が一ミスが起こった場合はマニュアルに従わなかったことを強く問いつめられるだろう。
 このように規則やマニュアルは守るべきものであり,その内容が守るに値するものなのか吟味することはほとんどない。しかし,規則やマニュアルだってあらゆる場面を想定して作られてはいない。例外というものが存在し,その例外が多ければ多いほど複雑で分かりにくい規則になってしまう。規則どおりにやった結果,悪いほうへ向かってしまうこともある。かなり前の記事だが竜ヶ水の乗客避難指示がその例だろう。規則に反した乗務員の行動は結果的に乗客の命を救い,機転と評され。テレビでも称えられる結果になった。しかし,相手は自然であるのでそのやり方が常にうまくいくわけではないし,この誘導も土砂崩れのタイミングなどによって失敗した可能性だってある。その場合も,車内に残しておくよりは助かる可能性が高められ,落ち度がなかったとしても,その行為は機転どころか規則違反の行為となり,処分が下されただろう。学校や会社の身だしなみ規則にもこれはどうだろうというのも見受けられる。シャツの腕まくりがダメだったり,衛星商品を扱うわけでもないのに中学生でもしないような髪型(耳眉が髪で一切隠れないこと)を大学生のバイトに求めたり・・・会社はあくまで会社であって社長の意見が全ての部分もあるが,あまりにきついと人が集まらなくなるだろう。道路交通法の規定にも,ここまで守ったらその乗り物を使う意味がなくなるよなというものもある。(自転車の通行帯のついていない横断歩道の渡り方など)
 規則があることによって流れがスムースになっている部分も多い。しかし,いつでも使えるような万能なものでもなければ,その存在によって制限しなくてもいい部分が制限されることもある。そして,中には作った人たちの自己満足で存在に意味が感じられないものもある。
 規則だから守るということも大切だが,その規則の意味を少し考え直してみるともたまには必要なのかなと思う。

(239) 教職科目の講義の構成員

2009年11月29日 19時29分21秒 | Weblog
 教員免許の更新制が導入されて,若干受講者数が減ったと言う噂もある教員免許取得のための講義。そこでは,教科の内容や教授法などの理論について学ぶほかに,実践例の分析が行われたり,指導案作成の手法の指導を受けたり,模擬授業をしたりなどといういうことが行われている。実際の現場を想定して行われるのだが,やはり現場との差が出てくる。それは,教員免許のための講義の受講生の構成が原因だろう。免許を取ろうとする教科に少しは興味がなければ免許をとろうとすることはほとんどないだろう。そうなると受講生は教科にある程度興味を持ち,その教科が得意だった人が多いということになる。模擬授業では授業後に,講義の参加者で検討会が行われる。そこで出される質疑で「教師が教科書を読んで疑問に思うことや興味をもったことは生徒も疑問に思ったり,興味をもったりするはずだ」という意見を聞いたことがある。確かに,教科書の裏側を追究することは面白いとは思った。しかし,実際の生徒には教科が苦手なだけではなく,興味すら持てない人もいる。まして,話を長時間聞くのが嫌,活字を読むのも嫌という生徒もいる。逆に受験のみが目標になり,受験で使えない知識は聞くに値しないと思っている生徒もいる。受験に特化した塾では,面白おかしく授業ができること,受験に役立つ知識や戦略を与える授業が行われているところもある。
 しかし,大学の教職科目で作られる授業は学問の本質を追究するのには重要な視点を与えてくれるものになっていることが多い。実際の現場でそのまま使うと言うことはなかなか厳しくても部分部分を取り入れることはできそうだ。
 教育が理論だけでは十分とは言えず,実践が重要になる活動であることも講義室と現場の乖離が広がる原因なのかもしれない。好きな人ばかりいる集団では,苦手な人,嫌いな人の視点というのがなかなか意識できない。大人の言う「生徒目線で」という言葉を否定している大学の先生もいたが,子ども以上に知識や経験のある大人が生徒になりきることは不可能なのでその言葉も納得できる。
 模擬授業の形態にも現場と同じようにはいかない。大学生を生徒だと思い込んでもどうしても生徒と同じ対応はできないし,生徒を演じている学生側もわざと間違えたり,分かりませんと答えたりもするが,生徒になりきれているとはいえなさそうだ。
 模擬授業の学級構成は,実際の現場とは違うこと,生徒になりきることには限界があることを頭の片隅に入れておいた方が現場に出たときのギャップを感じずに済むかもしれない。
 さらに,教科の内容に関する科目では,大学生しか相手にしていないような大学の教員と現場とのギャップがある場合もある。

【蛇足】授業検討会で授業者を戸惑わせる質疑。
 ・この授業で生徒に何を伝えたいんですか?
 ・この授業で一番伝えたいことは何ですか?
 ・授業の山場はどこですか?
 あらゆる授業に対して使える。授業者がこれを考えておくことは大切だが,不意打ちで言われると結構戸惑うはず。

(238) テストの世界の言葉

2009年11月28日 19時25分52秒 | Weblog
小中学校ではテスト,高校では考査,大学では試験,入試では学力検査と呼ばれることが多い。呼び方は変わっても,行われる内容はほぼ同じで,口述があるものを除いては,紙に書かれた問題に紙に答えを書いて答えるのが基本だろう。声には出さないが文字を媒体として作問者と解答者の間でやりとりが行われている。そのような点に注目してか,問題文に答える行為を恋人としゃべっているような気分で解くという受験テクニックの存在も聞いたことがある。しかし,もし,恋人がテストの問題文のような言葉遣いでしゃべっているシーンを考えるとかなりわがままで高圧的な恋人のような気もする。そのテストの中における言葉遣いも一通りではない。主に年齢で段階分けがされているように思う。いくつかパターンを見てみたい。年齢層は大体その年代対象の試験で多いと感じたものを使っている。なお内容や漢字は年齢層を意識していない。

1 小学低学年向け
【1】次の問題に答えましょう。
1 花子さんは今6歳です。おとうさんは花子さんよりも28歳年上です。お父さんの年齢は何歳でしょう。
2 花子さんのお母さんは花子さんのお父さんよりも1歳下です。花子さんのお母さんの年齢を求めましょう。

2 小学中学年以上向け
【1】次の問題に答えなさい。
1 花子さんは今6歳です。おとうさんは花子さんよりも28歳年上です。お父さんの年齢は何歳ですか。
2 花子さんのお母さんは花子さんのお父さんよりも1歳下です。花子さんのお母さんの年齢を求めなさい。

3 中学生向け
【1】次の問題に答えなさい。
1 花子さんは今6歳である。おとうさんは花子さんよりも28歳年上である。お父さんの年齢は何歳か。
2 花子さんのお母さんは花子さんのお父さんよりも1歳下である。花子さんのお母さんの年齢を求めよ。

4 高校生向け
【1】次の問題に答えよ。
1 花子さんは今6歳である。おとうさんは花子さんよりも28歳年上である。お父さんの年齢は何歳か。
2 花子さんのお母さんは花子さんのお父さんよりも1歳下である。花子さんのお母さんの年齢を求めよ。

 中学生については小学生と同様にすべて「~なさい。」の文体のものもある。また,「~なさい」文体であっても文末がです・ます調ではなく,だ・である調になっているものもある。大問の指示文のみ「~なさい」で中問小問の指示が命令形が多い中で,反対に大問の指示文のみ命令形で中問小問の指示が「~なさい」となっているものも見られる。高校入試問題を見ると,公立の場合都道府県により,大問小問ともに「~なさい」のもの,大問は「~なさい」小問は命令形のもの,大問小問ともに命令形のものがある。「~なさい」の部分についてはです・ます調,だ・である調のものの両方がある。割合ではすべて「~なさい」のものが多い。大問のみ「~なさい」だったのが,最近すべて「~なさい」の文体になったところもいくつかあった。(広島・熊本など)中学生の教科書が,最近,だ・である調からです・ます調に変わったことを考えると入試の文体が変わるのも自然な動きなのかもしれない。命令形に慣れるまでは「~書け」「~せよ」と書かれているのに嫌気を感じる人も多い。話し言葉の世界でもここまであからさまな命令口調の連打はなく,「~せよ」の場合,「~しろ」の方がよく使われ,聞きなれないのも原因かなと思う。当時は疑問には思っていなかったが,大問だけ「~なさい」にしてあることの意図はよく分からない。結構,この文体で書かれたものはあるのでどのようにして浸透したのか興味深い。命令形でいいと思いつつも大問だけは丁寧に「~なさい」にしてあることにちょっとした優しさを表現できたのかな?
 高校は「~なさい」という問題文を見る方がまれでセンター試験もすべて命令形だが,大学入試の個別試験では「~なさい」が結構見られる。

 大学の試験や就職試験となると様々な文体が混ざっている。ある程度の大人を相手にしているからか「~してください」という問題指示文も見られる。
 また,小学低学年に限らず発展的な問題や楽しませる意図のある問題の場合は「~しましょう」「~しよう」という指示文も見られる。

 基本的な文体はあっても実際問題を作っているとそのルールに従わない出題をしてしまうことも少なくない。入試問題や副教材の問題集の問題をそのまま打ち出した場合,そちらにつられてしまうことも多いようだ。全体として文体は統一するように申し合わせはしていたが,作った先生の普段の癖が表れてしまう場合もある。

 普通ではないコミュニケーションが行われている試験という場に使われる言葉遣いにも独特な法則がある。どの文体にせよ,こんな口調の恋人がいたらすぐに嫌になりそうだ。

(237) 一人称「先生」

2009年11月27日 05時22分10秒 | Weblog
 学校や塾の先生が使っている独特の一人称に「先生」というものがある。自分の知る限りでは小学校の先生はほぼ全員,中学校でも多数派になると思う。高校や大学ではほとんど聞かなくなった。それ以外の一人称には私,僕,俺などが記憶をたどったところ見受けられた。
 特に意図があって「先生」と言っている先生は少なく,慣例的に「先生」と言っている人が大半であるのではないかと推測している。先生という言葉も人により捉え方は違うだろうが,何か「偉そうな」イメージがある。それを自分で言うと言うことは,自分が先生だと誇示しているのではないかという意味合いで受け取ることもできるように思う。それが原因かは分からないが,自分で自分のことを先生といえない先生もいるそうだ。しかし,普段の授業などでは一人称「先生」を使わない先生が朝礼でのスピーチになると「先生は・・・だと思います。」と言っていたり,塾でアルバイトをしていた知人が教育実習に行った時に「自分で先生といえないタイプだけど,実習中は先生を一人称にしていて,気持ちが悪かった」と言っていたりするのを考えると,先生が自分のことを先生と呼ぶのは,改まった場で私(わたし)とか僕とか俺ではなく,私(わたくし)と呼ぶのと同じで,ちゃんとした場で使える一人称なのかもしれない。年が上になるにつれて使わなくなる点も面白い。昔から年賀状のやり取りをしている先生がいるのだが,以前は「先生は元気です」と書いていたのが,ある時から「私も年をとるはずですね」のように一人称が変化していた。比較的低年齢層に使う一人称なのかもしれない。小・中学生に特に男の先生は「私」はというと堅苦しく聞こえ,「僕」ではくだけていて,少し弱々しいし,「俺」だと高圧的だし,しかも子どもにもあまり使わせたくないと思っているしなどと考えていると低年齢層にあわせる一人称があまりないのもあるかもしれない。

 日本語の一人称の使い分けは,使う方の立場の時は悩まされるところもあるが,人の使い分けなどの基準を考えてみると興味深いことが分かることが結構多い。

(236) 学校間文化の衝突

2009年11月26日 05時08分13秒 | Weblog
 ※自分の体験談を書いている部分では,世代間のギャップにご注意下さい。

 学校にはそれぞれの独自の文化が築かれている。そのことは,学校内では当たり前とされているので,普段は気付くことはほとんどないだろう。そのことに気付くのは,転校の経験がなければ小学校から中学校に進級する時と中学校から高校へ進級する時ではないだろうか。

 小学校と中学校にはおそらくどこの学校に通っていても共通に感じるであろう文化の違いがある。そのギャップが,中学校で子どもが荒れる原因の一つとして挙げられていることもある。
 その例の一つに先輩という制度がある。小学校の時には上級生もお兄さん,お姉さんという感じで「~先輩」「(男子に対して)~さん」とかではなく,「~くん」とか「~ちゃん」と呼べて,敬語で話すこともない。そんな存在だった上級生に中学校に入ってから出会うと,お兄ちゃん,お姉ちゃんではなく先輩という存在に変わっている。時に先生よりも怖い存在になっていることもある。しかも,このことが中学校に入学した時にオリエンテーションなどでは必ずしも告げられない。その場合,周りの様子から先輩という文化を察しないといけない。
 他にも,テストという共通の文化ではあるのだが,その扱われ方が大きく変わってくる。学習内容も定着に差が出てくる。

 ここまでは日本全国どこにでも当てはまるであろう文化の差だが学校別に差があるものもある。自分が体験した例では,ブリーフからトランクスへの移行の差異があった。自分の中学校は基本的に3つの小学校の出身者が進学していた。一つの小学校ではブリーフの男子が多かったが,他の2つの小学校では小学生の内にトランクスへの移行がほぼ終わっていた。いくら一つの小学校でトランクス移行が進んでいなくても,ブリーフはださいというイメージがあった。1学期間ぐらいかけてそのギャップがほぼ埋められていった。
 このことも原因の一つなのかこの中学校には制服の下に体操服を年中着る文化が成立していた。当初は,汚れるための服の上から制服を着るなんてとんでもない都言う意見が先生達の中にあり,禁止事項だった。しばらくすると,禁止ではなくなり,制服の下に着ていいものとして体操服という項目が追加された。朝会でも,生活部の担当者から,「制服の下に着ていいものは,黒・紺のはみ出さないトレーナー,体操服です。」というアナウンスが行われている。転勤で配属になった先生が,「男子も下に短パンはいてるんだ」と驚いていた。自分達のころは体操服を着るか着ないかは半々ぐらいだった。最近は,ほぼ100%に近い男子が制服の下に体操服を着るようになったようだ。パンツを見られることは全裸を見られるのに匹敵するぐらいの恥ずかしさになっている。体操服を下に着ることが禁止されている部活のユニホームに着替えるなどやむを得ない場合はトイレに行って着替えることもあるらしい。高校に進学すると,おそらくこの文化は少数なので,はじめは抵抗を感じつつも,多数の文化に吸収されていくのだろう。
 校則や校風などによって学校の文化が左右されることも多い。高校では,その差が特に現れるのではないだろうか?別の高校に進学した中学校時代の友達同士が,「(白の)スニーカーじゃなくて(黒の)革靴いいな」などと話している場面を見たことがある。

 学校間の文化の差を感じるのは,生徒だけではない。人事異動にあったばかりの教師もほぼ同じ体験をするだろう。その文化によって生徒指導のあり方も変わってくる。


 学校の中にいること,そして進学などにより新しい文化に触れることで軽い異文化理解の体験ができているのかもしれない。その点においては,学校は社会や世界の縮図ということができそうだ。

(235) 正解のある世界

2009年11月25日 02時24分24秒 | Weblog
 義務教育の小中学校はもちろん,高校もほとんどの日本人が経験する世界だろう。授業や各活動を通して社会に出る準備をしていく場所だ。学校を社会の縮図という言い方も珍しくないし,在学中はそのことに疑問も持っていなかった。しかし,最近になって,この学校という世界が極めて特殊な世界のように思えてきた。今回から5回の記事では,学校という社会の不思議さを取り上げてみたい。



 学校という社会の独特な文化の一つが「正解のある世界」ということだろう。(もちろん全てではない。)教科書に書かれていることを学び,テストでその理解度を問われる。テストの答案は○×△で評価され,点数がつく。客観評価がしがたい問題であっても,教師判断で点数がつくこともある。勉強に関することだけでなく,生活面に関しても,「いい」「わるい」の区別は割とはっきりしているように感じる。そして,絶対的な正義というものも存在しているように思う。
 しかし,大学に入ってオリエンテーションで,「大学での勉強は教科書の内容を疑うことから始まる」と言われた。このことを理解できたのは大学に入ってかなり経ってからだった。指導教員の「質問をしても自分も分からない場合がある」という言葉や実習で出された課題について解答を考えられる限り示され,さらに他の考え方もあるかもしれないと付け加えられたことが大きなきっかけだっただろうか。それまでは,いくらやってもすっきりしない感じがして,居心地が悪かった。
 働く場においても一緒だろう。マニュアルというものは存在しているが,それだけでは対応できないことも多い。まして,マニュアルに書かれた内容に反する行動をとることが必要な時もある。マニュアルはそれまでの経験からはベストなやり方のかもしれないが,それを取り組んでいるうちにもっといい別のやり方が見えてくることもある。その場合,マニュアルが覆ることもありえる。「分からなかったら質問しろと言われたので上司に質問したらそんなことも分からないのか,自分で考えれば分かるだろうと言われ,質問せずに間違えたら何故質問をしなかった」というような理不尽ともいえそうな場面で,上司にそのことを問いつめても何の解決にもならないし,むしろ自分の立場を追い込むことになるだろう。
 これらの世界で次のステップに進むために必要な受験という仕組みや,最近話題になっている学力低下などの話題も正解がある世界において成り立っているものではないだろうか。この学力というものを考えてみると,全ての学力が試験で測れるものではないように感じる。特に思考力については,答案として表れないところも多い。「(順序がばらばらになった)次の会話を自然な流れになるように並べ替えなさい」という問題の観点別評価が【話す・聞く力】なんて書いてあると本当かと思ってしまう。おそらく,「学力とは何か」という問に明確な答えというものはないのではないだろうか。いろいろな学力は出てくるが,全てをあげることはできないし,逆にそれらを一括した端的な言葉というものはなかなか出てこない。
 その一方で,就職試験にSPIも取り入れられ,就活にも正解のある世界が導入されつつある。

 卒論で悩んでいた時に,中学生レベルの一問一答の問題を解いてみると本当に気楽だった。明確な答えのある世界は居心地が良かった。
 身の回りは対人関係,子育てなどどのやり方が正解と言いがたいことであふれている。正解が得られないことに悩みながら,生きていくのは必至なのかもしれない。

※ この記事自体も,今のところは雑多な内容の羅列なので完成とはいえないのでしょうが,頭の中がモヤモヤとしていることの表れということでご了承下さい。

(218) 敬語

2009年11月08日 06時56分08秒 | Weblog
 学校で教えてくれる敬語は,尊敬語・謙譲語・丁寧語の3つだ。テストなどでは暗記のようなところもあり,また尊敬語と謙譲語の区別がごちゃごちゃになるなど苦手とする人もいる。しかし,覚えるものではあっても,敬語が分からないまま大人になってしまうと大変なことになるだろう。学校の入学試験等で面接を課すところも多く,敬語に慣らすために家庭でも敬語を使うように努力しようという受験アドバイスも見たことがある。
 だが,実際の敬語は受験の世界の敬語よりもはるかに複雑だ。たとえば,年の近い先輩に使う敬語と会社の重役などに使っている敬語には差があるだろう。
 また,敬語は目上の人に対しては尊敬の意を伝えることになるだろうが,同輩以下の人に使うと変な距離を感じてしまうこともある。同輩以下に限らず,身近な間柄の先輩に対して,あまりに改まった感じの敬語を使う場合も同様のことがいえそうだ。敬語はお互いの距離感を広げてしまう存在でもあるのではないだろうか?
 以下,自分が敬語のややこしさを感じた場面をいくつか挙げたい。(それぞれの事例で書き方が異なるが,ご了承下さい。)



・ この方は同級生。だけど,人生の先輩。
 中学までの同級生はほぼ間違いなく同い年だ。しかし,高校以降になると必ずしもそういうことにはならない。実際の年は違うことは聞かなければ分からないし,同級生なのは事実なんだから敬語は使わないほうが自然だろう。しかし,そうもいかない場合もある。その人の年がかなり離れていたり,かつての組織での先輩だったりする場合もある。自分が敬語で話すことを相手が好んでいないと明言している場合であっても,タメ語で話すのには抵抗を感じてしまう。ある程度,期間が過ぎると抵抗は全くなくなるのだが,周りの同級生がその人に敬語を使っているのを見るとやっぱり見直すべきかと戸惑い,敬語とタメ語がほぼ交互にやってくるような話し方になっている。いくらタメ語で話せるようになったとしても,本当の同い年に言える冗談が言えなかったりということがある。

・ 年齢は同じだけど,ほぼ初対面の方々とグループワーク
 異年齢層の集団だったので,まずは丁寧に自己紹介。グループ全員が同じ学年であることが判明。敬語が話し合いの雰囲気を堅苦しくしてしまうこともあるので,その後はタメ語に切り替えた。しかし,他の班員は敬語が中心。班分けに用いられた名簿の順番の関係で班長になってしまっていて,最初に敬語で話さなくても大丈夫なことを確認していた。話し合いが敬語中心ではなくなるには,だいぶ時間がかかった。

・ 出会って数ヶ月以上経ったクラスメイトとのグループ内発表
 「グループ内で各自が考えたことを発表して下さい。」という指示の後,少人数のグループ内で各自が発表する場合,話す言葉は敬語かタメ語か?

・ 立場によって先輩,同輩,後輩。
 同じ大学のAさんと同じアルバイト先で働いていた。その人と学年は同じだった。ただ,浪人していたので年齢は年上。しかし,アルバイト先への入社は自分の方が先。自分はアルバイト先の人には雰囲気に合わせて,年齢に関係なく「です・ます調」で話していた。逆に自分に対しても,年の離れた社員以外は「です・ます調」だった。Aさんとも基本的にお互い敬語を使っていた。しかし,時と場合により,Aさんは「先輩の命令だぞ」とか「入社はそっちが早いから」(冗談交じりだったと思うが・・・)などと言うこともあった。関係は良かったが,結構複雑な立場。

・ 年上と恋人になった。
 自分自身の経験はないが,他人の場合を見ている限り,年下→年上の場合もタメ語使用の場合が多く感じる。

・ 親との会話
 タメ語が多く感じるが,家庭によっては敬語で話させるところもあるようだ。 

・ 先生より怖いセンパイ
 これは自分の体験というよりも他人(中学生)の行動を見ていて感じたこと。先生達(年齢はほぼ問わず)に対してはほぼタメ口で話していた。ところが,そこへ部活の先輩が現れると,敬語でペコペコとし始めた。先生よりも恐れてしまう先輩の存在。分かるような分からないような・・・

・ 同級生相手のメール。だけど,一斉送信(メーリングリスト)で内容も事務的。
 文章は,初めはタメ口に近かったものが,時間が経つにつれて「です・ます調」になっていった。返信は送信者との間の個人的なものだが,文体は敬語調が多かった。別の送信者の同様の内容のメールを見たが,文体は敬語調でも絵文字で柔らかさを出しているもの,逆に時候の挨拶から始まっているものがあった。

・ 授業中の先生の言葉
 敬語で話すのが基本だという考えの人もいる一方で,タメ口のほうが親近感があって聞きやすいという授業を受ける側の声を聞いた。

・ 一人称の使い分け
1 あまり個人的な関わりのない先生に指名された学生が,「俺ですか?」と聞き返す。(厳しい先生だったが,そのときは特に指摘無し。)
2 かなり身近な先生との笑いも出るようなくだけた感じの会話で学生が,「俺はそう思いますけど・・・」
3 大学生が授業中の発表で「僕は・・・について調べてきました。」
4 高校生を対象にした講演会に呼ばれた大学生の先輩が。「僕の学部では・・・」
5 だいぶ親しくなった上司との会話で「僕は・・・」
6 1学年上の先輩との会話で「俺は・・・」と言っていた後輩に対して先輩が「僕だろうが」と笑いながら一言
 いくつか例を書いたが,その良し悪しは正直分からない。辞書上は,「僕」はくだけた言い方,「俺」は同輩以下の者に対して使う一人称となっている。改まった場では「私」が基本だが,何をもって改まった場とするかも難しい。育った環境でさもあるだろうが,「俺」の低年齢化と中学生~大学生のほとんどが使っているなど一般化が進んでいる以上,「同輩以下に使う」と言う部分は変化しているのかもしれない。そのためか「僕」が結構改まった場でも使えると思っている人も出てきているように感じる。このようにしてジェネレーションギャップが生じるとトラブルになりかねない。言葉の変化はおそろしい。

・ 年下に対しても敬語
 ある程度の大人を相手にする場合,年下と分かっていても敬語で話す場合がある。時間が経って変える場合もあれば,そのまま敬語の場合も。自分が年上から敬語を使われた場合,不思議な感じはあったが,何か大人として尊重されているような印象も受けた。

・ 論文の謝辞の文体
 「・・・皆様に感謝を申し上げます」か?「・・・皆様に感謝を申し上げる」か?常態基本の文章の中に敬体には違和感がある。とはいっても年上の方に「申し上げる」はいくら論文の中とはいえ若造が偉そうだ。(実際の論文を見ると両方ある。)



 いくつかの敬語に関して感じた事例を挙げたが,ここに書いてあることが正しいのか正しくないのかも分からない。相手との距離やその会話の行われている場所によって変わってくるものだと思う。こんなことを考えていると,○×で判断できる尊敬語,謙譲語,丁寧語のペーパーテストの問題がよほど楽に思える。これからもたくさん悩まされそうな問題だ。  

(216) 常識

2009年11月06日 02時56分02秒 | Weblog
 3月のある日にこんな出来事があった。
 当時の居住地とは遠く離れたある店に客として訪問することになった。現地入りは早かったのだが,道が細かかったりして店の場所を特定できずに訪問予定時刻を大幅に遅れてしまった。訪問時の資料としてWEBページを印刷した資料を持っていたが,店の電話番号の欄が切れていた。
 店に到着後,遅れた旨を言うと店の責任者は「いいえ,とんでもありません」と言った。その後,別の担当者に変わった。しかし,この担当者。話し方もどこか上から目線であり,客の要望よりもマニュアルどおりの進行を重んじている感じだった。話し方からとても信頼できずそれが態度に出てしまったことやさらにこちらが要望を主張したこともあり,ムードは険悪になっていった。そして,店を離れ,自動車という密室になったときに担当者が本性を表した。
「遅刻はするは,こっちの話はちゃんと聞かん,挙句の果てには態度もなってない。お前には常識がない!お前みたいな客と取引は絶対こっちからお断りだ。」
 それ,こっちのセリフと思いつつも,口ごたえすると命の危険を感じたので向こうの要求を飲み,無駄な抵抗はせず,すみませんと繰り返した。
 「すみませんで済む問題じゃないだろうが。」
 向こうのお怒りはまだ続き,ネチネチと問いつめてきた。
 散々言って少しは落ち着いたのか途中からは「ごめんな」という言葉も出てきた。そして,自動車という密室からも解放された。もちろん,いくら客という立場にあったとはいえ,自分自身の態度を反省すべき点はあったように思う。
 自分の主張を曲げなかったのもこの業界にあるといわれている戦略にひっかからないように警戒してのことだったが,この1件以降さらにこの業界への警戒は強くなった。しかも,最初にお客様のことを知らないといい商品も提供できないし,商品の取引先にもお客様のことを紹介できないといって住所,電話,職業などの個人情報を聞くことのできる業界なので恐ろしくて仕方がない。
 
 ここで言われた常識という言葉について考えてみたい。なお,担当者の言葉にもあるように,この記事を書いているのは常識のない奴なので,こんな常識のない考え方をする人もいるんだ程度で受け取っていただければと思う。

 「遅刻をしたらいけない」
 子どものころからよく言われていることで常識と言えそうだ。
 しかし,これを客を受け入れる店(客を選べるレベルの店は除く)の立場から考えると,「お客様の遅刻は責めないのが常識」となる。しかも,定刻に客が来ないときには連絡を入れ,「もしかしたら事故に遭われたのではないかと心配致しまして」とか「(店の場所が分からないのなら)近くまでお迎えに上がりましょうか」と思ってなくても言うのが,接客業としての常識ではないだろうか。客を鍛えることが契約に含まれるのスポーツクラブや塾でも電話を入れる際にはこのように言っているところもある。間違っても,「遅れるんだったら連絡よこせ」なんて接客(?)は,事前に遅れる際には連絡をするように書いていても考えがたい。
 ここで注意したいには,一般的に常識がないと考えられそうな遅刻という行為も接客業という世界では,お客様に非がないとするのが常識となってしまう。常識の指す内容は時と場合によって変わっている。
 
 視力検査を受けた際にこんな経験があった。穴の開いている方向の答え方はこうすべきというものは特に指定されていない。「上」「右」と言葉で答える方法もあれば,指で方向を答える場合も考えられる。自分自身,昔から特に注意されたこともなかったので,方向を指を指して答えるという癖がついていた。高校生の時にその答え方をしたら,「方向を口で言わん」かいう指摘を受けた。その指摘にはそんな幼稚な答え方をするなというメッセージすら感じられた。確かに,検査を行う側は検査を受ける側と同じ方向を向いていないし,手元のCの字の書かれたボタンを押して光らせているので,言葉で言った方が指の方向を自分の見ている方向に置き換えるよりも処理が早くなる。しかし,視力検査の検査をする側にはなかなかなる機会はないので,言われないと気付きにくい。
 常識というものは人や立場によって変わってくるものなのかもしれない。その人が経てきた環境によって形成されるものであるので,皆が同じ常識を持っていると言う方が奇妙かもしれない。
 教科の国語の分野の中にも「国語常識」と呼ばれる分野がある。分類方法も様々だが,問題集などでは漢字の読み書きや部首などの知識,文法,ことわざ,慣用句,行書体などが分類されていることが多い。問題を解いているときには意識しないが,何をもって常識としているのか考えてみると分かりにくい。出題者の常識が表れてくるのかもしれない。
 公務員などの採用試験にも「一般教養」という試験がある。出題内容は高校までの教科書や経済学や法律学の内容が出題されている。ある意味の常識として出題されているのだが,広い学問の世界から何を基礎,常識として選定しているのか考えると,それを基礎,常識として判断した人の存在が見えてくる。何者かによって線引きされた主観的とも言えそうな常識が生まれている。教科書の内容も同様だろう。
 他にも食事や衣服のマナーなど努力しなければ獲得できないような常識がたくさんある。これも,それを常識として選定した何者かの存在があるからこそ常識となっているのだろう。

 昔は常識のようにされていたことが,今は常識とまでは言いがたくなった,あるいは常識とされつつも浸透していないケースもあるように思う。(ことわざの知識の量,いい国作ろう鎌倉幕府など)環境の変化や学問の進歩の影響でもあるだろう。時代と共に常識も変化し,それは世代間の常識のギャップとなるだろう。

 客観的,固定的なことに思える常識だが,かなり主観的,流動的なものであるように感じる。こんなことを考えるようになってから,自分の考えている常識が他の人にとっては常識ではない場合を意識して「常識」という言葉を使わないように努力はしているのだが,やはりたまに「常識じゃない」などと言ってしまっている。こんなことを考え出した葉ここ数年なので,それだけ今まで常識というものに縛られてきたということかもしれない。