goo blog サービス終了のお知らせ 

ひょうごの在来種保存会

会員さんも800名を越えました。活動報告を発信します。

保存会通信17号(25年春)生姜の歴史深い「瑞穂生姜」の里〈鳥取県気高町〉   保存会世話人 池島 耕

2013年06月09日 | 保存会通信17号
生姜の歴史深い「瑞穂生姜」の里〈鳥取県気高町〉
  保存会世話人 池島 耕

NHK番組の特集で知った、鳥取の「瑞穂しょうが」。
同じく産地として目指している姫路から、鳥取県気高町に中原孝志さん(80)を訪ねました。



「まずは畑を」と、お話しを聞く前に収穫まっただ中の生姜畑を見学したのですが、やはりこちらも播磨と同じく夏の日照りと乾きの影響からか、見た目にも株が小さい様子。
中原さんの第一声も「今年は…」と寂しそうな感じでした。




そんなことも忘れるかのような事実が!
60年前、中原さんが気高町を生姜の産地に、と決め、種しょうがを買いに行ったのが何と「姫路の妻鹿」。
やはり当時播磨でも浜手を中心に生姜の栽培が盛んだったことがうかがえます。
残念ながら、当時持ち帰った「姫路」種は現在残っていなかったのですが、思いも知れぬ縁に一同歓喜。

今回は主に産地としての歴史や保存方法についてお聞きしました。
気高町では60年間も系統選抜してきた経緯もあり、町内には17もの横穴(!)が掘られ、各家々で生姜を保管されていました。
中でも中原さんの種保存は、穴の奥に生姜を並べ、白まさ土を上からかけて埋めておくという独自の方法でした。
その影響からか、生姜も保管中に白く美しくなるのだとか。



「保管中も息をしとるでな」
と、種生姜をやさしく扱う眼差しには感動を覚えました。
保存用のまさ土も、病気さえでなければそのまま穴の中で8年はもつそうです。



鳥取はもともと生姜の歴史が深く、江戸時代の文献に記録があったり、戦国時代に地元の大名亀井茲矩が南蛮貿易で小生姜を手に入れた言い伝えが残っていたりと、地元の方々の生姜への思いも強い。
生姜以外にも「はま茶」という豆科植物のお茶も生産され、“農業立国” 気高町の農への貴高さがうかがえました。

保存会通信17号(25年春)大屋町で種の話し  保存会世話人代表 山根成人

2013年06月08日 | 保存会通信17号
大屋町で種の話し
     保存会世話人代表 山根成人

2013年1月13日 
昨年から保田先生主催の農業講座「大屋有機農業学校」で種の話。

この日は話が終わってから昼食会があり、福田さん、久保さん、主催側の和田さん、上垣さんなどと歓談が会ったが、その中身
がとても面白かった。

「大屋町には今のところ全く在来種が登録されてないのです、但馬は兵庫の種の宝庫なのに残念なんです。必ずあります、どうか心に留めておいて下さい」と講演中にお願いしていた。

そんな中「コブタカナ」と「テントウ」という名が出てきた。

テントウというのは数年前に豊岡の田中実さんからちょっと聞いていただけだが、久保さんが「テントウなんてどこにでもあるからなあーあ、そんなんわざわざ言うなんて考えられんわ」

ちょっと私の早合点で特別採種されてきた在来作物と考えていたが「とうがらし」の意味で使われてきたような節があることに気づいた。

「そんなら何でテントウなんていうんやろなあ」
「そりゃ知らんけど、上向いて出来るからちがうの?ピーマンやったら下向いてるやろ」
なるほどそんならタカのツメことなんだろうか。
「種は採り続けているんやな」
「そりゃあんなもの買う人は少ないでえ、使うために置いてたらそれが種になるんやから」
言われてみればその通り。タカのツメを採ってるだけなのか。これも早合点?
田中さんに聞いたときもう少し大きな姿が私の記憶を作っている。
ここは再度調べてみる必要がある夏の仕事にしよう。テントウと呼ぶ唐辛子はかなりあちこちで作られているとのこと。

「他に何か作ってるものがないか?」
「急に言われてもなあ。コブタカナもあるけど、あんなもの特に取り立てて言うほどでもないないだろう」
「取り立てて言うほどでなくてもええんや、要するに種を買わずに作り続けている作物ということや。」
「コブタカナは面白いなあ、長崎のコブタカナはスローフードの世界遺産みたいなものに認定されたでえ。
そしたら3年ほど前に中町(現:多可町中区)のチヨちゃんというおばあちゃんが「こぶ菜」というて彼女が嫁に来たとき、おばあちゃんが若いころに既にあったというから、ゆうに100年は超えている。
名前もタカナとは言わずコブナーーーだから食べ方も漬物とは限らない。
若い葉のおひたし、揚げとの煮物。炒め物など「菜っ葉」として立派に通用している。
ハリマで同じものが出たから『播州コブナ』と名づけたんや、そんならここではコブタカナと呼んでいる。
多分同じようなものだと思うが、これを調査してくれへんか、詳しく。
とにかく作っておられる人の名簿だけ集めてよ。必ずまた来るから」

ということで実りの多い昼食になった。やっぱり足を運ばなアカンと再実感。

それにしても和田さん上垣さんともにいい感じの人できっとこれから種の発掘に尽力してくれることが確信できた。
但馬には何時来ても手ぶらで帰ることが少ない。北村君とことも近い。
今年はまた足しげく但馬を攻めるかーーー面白いね。

  よもつきじほじれば湧き出る在来種  山根成人

保存会通信17号(25年春)【追悼】美方わさび 井口利次さんとのお別れ

2013年06月07日 | 保存会通信17号
井口利次さんとのお別れー設立時よりの強力な世話人
 保存会世話人代表 山根成人

 12月3日。
 昨日赤花ソバの本田さんのお世話になり、この日は小代区新屋の田野良幸さんを訪ね、お願いしていたイゴ芋を譲ってもらう予定だった。
 それでも途中井口さんに挨拶だけでも思い、立ち寄ったところ、田野さん夫妻がいて、井口さんはさっき豊岡病院に入院したと言う。
 家の中をごそごそしているので尋ねてみると田野さんの奥さんが井口さんの妹さんだということで、
 「何や、そんなこと教えてくれなんだからなあ、そんなご兄弟や」
 急なことだったので戸締りとか水周りとか点検していたところへ私が来たのだ。
 「骨か何かが喉に引っかかり、咽喉科にいっていたがうまくいかなかったようで、豊岡病院にまわされたようです」
 「そんならお顔だけでも見に行ってきますわ」
 「いやいや、それがかなり容態が深刻で行ってもダメです。会えませんから」
 へえー喉くらいと思ったが
 「手当てしているときに血が肺のほうにいったらしいのです。よう分からんのですがねえ。それに兄貴は血小板がもともと少なく血が止まりにくいのです。それでことが大きくなってるんです」
 「そうですか、心配やけどどうしようもありませんねえ。今日は埋めてもらってたイゴ芋をいただくつもりで来たのですがこんなことになるとはねえ」

 落ち着かない様子なので家に行って勝手に掘り起こしてきましょうかと言うたが、一緒にきてくれることになった。
 畑の隅に一株だけ置いてくれていたようで「まだ大丈夫と思うけどこっちは寒いからねえ」「大丈夫みたいですねとにかくもう一度味を確かめたいのでムリをいいました。有難うございます」ということで、またすぐに井口家に戻った。
 私は大谷の稲尾さん宅によって平井さんから頼まれていた唐辛子( 韓国在来種デファ草の生産と価格についての話をしてから帰路についた。


 それから数日して訃報は入った。
 どうも悪い予感が当たってしまった。
 葬式にも出席できずウチの仏さんの前で冥福を祈った。

 思い起こせば10年前に保存会を設立してからこんなに時間と熱意を持って応援してくれた人は他にない。
 ワサビの生き字引であるだけでなく、町長も経験し、村全体を知り尽くした人で、誰もがこの地域の第一人者と認めていた。
 自費でつくった百円道路、林道のによるワサビ田の壊滅、スキー場による河川の汚染など疲弊した集落にいつも頭を悩ませて、自ら畑ワサビに取り組みその経済性を呼びかけてもいたが、晩年は思うように行かないことも多かったようだし昨年は大雪と鹿の害で自分の畑も壊滅状態にまでやられていた。

 井口さんが我々にしてくださったことをせめて箇条書きにでもして記憶に留めて置こう。
・ 学生や仲間と訪問した際、昼夜を問わずワサビや地域の歴史と現状などの話をしてくれた。
・ 美方ワサビの熱血漢稲尾実さん紹介いただく。
・ 美方大納言復活させた奥谷光正さんを家に招き紹介いただいた。
・ 美方イゴ芋も紹介。田野弘子さん、田野良幸さん夫妻紹介いただく。
・ ケビ岡ワサビの調査に同行してくれ、宅見義久さんと交流。

 最後まで私のしつこい頼みに耳を傾けてくださった。
 何か劇的なお別れになったが保存会の象徴的な協力者であった。

 本当に有難うございました。 合掌

                     山根成人

保存会通信17号(25年春)『丹波百姓の会偵察記』  保存会会員 福岡 まさあき

2013年06月06日 | 保存会通信17号
『丹波百姓の会偵察記』 
保存会会員 福岡 まさあき


丹波百姓の会(年1回、丹波のとある寺のお堂で100人の農民が集まるというつどい。)

この文章は、その偵察記である。

姫路よりきたひがし。車で2時間進むと丹波の地に入る。
会場はお寺の敷地にある大きな木造の建物だ。確かに100人集まってもだいじょうぶだ。

周りにも畑がある。田んぼもある。やる気あふれる若者たち5、6人。
管理機ですいたり、畝を立ててたり。石灰をまいている人もいる。
こんなに大量の若者が農業をしているのを見るのも初めてだ。
「理想の農村」という絵図。
なるほど、会場のセッティングも大事だということだ。

雰囲気にのまれる。兵庫県全域から来ているらしい。
いや、車のナンバープレートを見ると県外からも来ている。
初めて来た人に、ガツンといわすのも大事なのだろう。
私たちもデモンストレーション代わりに周りで農作業をしておかないといけないのか。メモメモ。

会場に入ると、2500円の会費を払い、木を輪切りにした名札を受け取る。
名札には(例:丹波市 田中大介)のように書き込む。
ノートに名前と住所を書き込む。希望すると、来年の案内を葉書でもらえるらしい。
このあたりのノウハウはさすが何年も運営されている方たちだ。謙虚に学ばねば。

百姓の会の内容
講演会+自己紹介+食事会

講演会:今回は在来種保存会の山根さん。
自己紹介:100人なので、ひとりひとりは短くても全体では長い。
食事:ごはんや豚汁は主催の方がつくってくださっている。そして、参加者持ち寄りの料理。
食に関心の高い方たちの料理だけあって、おいしい!おいしい!!

講演会後にも、若い農家の方が熱心に質問されていた。
兵庫県には同世代のまじめな農家がたくさんいらっしゃることに心強く感じた。
参加者の半分は農家。半分は食や農業、環境に関心の高い方たち。
反原発の歌を歌うヒッピーバンドさんで宴はもりあがった。本物のヒッピーさんなんて初めてお会いした。

保存会通信17号(25年春)枝豆及び大豆について 丹波地区世話人 土井 孝浩

2013年06月05日 | 保存会通信17号
枝豆及び大豆について
丹波地区世話人 土井 孝浩


 丹波の地で農に勤しむ土井孝浩です。
 さて、今回は枝豆について文献からの投稿をさせてもらいます。

 枝豆は大豆を未熟なうちに収穫したもので農水省の統計では未成熟大豆というらしい。
 未熟な大豆は鮮度が落ちやすく、枝や葉、根をつけて持ち帰り、枝つきのまま茹でて食べたので「枝豆」と呼ぶ。
 田の畦(あぜ)などに植えていたので畦豆ともいう。
 大豆の原種は中国からシベリア、日本に自生しているツルマメといわれていて、縄文時代から弥生時代初期に稲作とともに渡来した五穀のひとつ。
 大豆のタンパク質は畑の肉とよばれるほど栄養価が高く、食物として長い歴史のなか、利用法も色々と工夫されてきた。
 煮豆、豆腐、納豆、もやし、枝豆など直接的に食べるほか、味噌、醤油という調味料の材料、油脂原料、飼料、工業用、肥料などにも用いられ、脂肪の重要な資源作物でもある。

 枝豆としての利用は平安時代から食習慣にもあったようで、九月の十三夜の供え物のひとつに枝豆があり、「豆名月」とも呼ばれ、枝豆売りも登場していたとか。
 戦前までは国内でも多く生産されていたが、現在は枝豆以外、ほとんど輸入品になってしまっている。
 大豆で面白いのは、大豆が欧米に知られたのが17~18世紀と遅いことである。黒船のペリー提督が1854年に日本から持ち帰り、農商務省で試作を始めたのが1896年という説、1804年に中国の帆船が安価な底荷として大豆をアメリカに運び、1829年に農家が栽培を始めたという説などあるが、歴史的に普及したのはかなり遅い。

 20世紀に入ってからアメリカの大豆生産は急激に増加して、現在は世界第一の大豆生産国になっている。そして今はアメリカの作付けされる多くの大豆は特許を通った遺伝子組換(GM)品種。アメリカで開発された大豆が逆に中国やインド、ブラジルなどにGM品種として作付されているのである。
 大豆の英名はソイビーンでソイとは醤油のことであり、大豆が醤油の重要原料であることを知っていてつけられているのだろう。醤油を利用するアジア圏にはなくてはならない作物である。

 枝豆として食べられる山形庄内の「ダダチャ豆」は新潟の「茶豆」とならんで豆が茶色をおび、莢にしわがあり、独特の香りと
甘みがある。丹波の「黒豆」は正月の煮豆として有名だが、大粒で濃厚な風味があるので枝豆としても利用されている。
 枝豆はトウモロコシ同様、糖分やアミノ酸の減少が早く、常温では二日もすると半減するといわれている。冷凍すればほとんど減少しないので、冷凍向き野菜として海外からも冷凍輸入品が増えている。
 大豆は粒の大きさで分けられることがあるが、一般には大粒種の方が品質は良いといわれていて、製油や豆乳用では大小には関心がない。煮豆や味噌には形が残る大粒がよいが、納豆は小粒種の方が食べやすいので利用されている。

 もうひとつの利用法にモヤシがある。アズキや緑豆を使うことも多いが生野菜の少ない雪国の貴重な栄養食品として東北地方などでは温泉の廃湯をつかったマメモヤシ作りが盛んである。
 モヤシは日本では古来、薬用として用いられ、薬物辞典の「本草和名」や「医心方」にも記載がある。特に精進料理の材料に
も使われ、京都宇治の黄檗山(寺院名)では黄色モヤシを油でいためた、巻煎(けんちん)という料理がある。「食用は黄大豆の芽、薬用は黒大豆の芽」といわれ、医薬用として黒大豆のモヤシが用いられていた。


 丹波篠山地域でも川北・波部黒などは黒豆産地として有名だが、もともとは稲の水張りが困難だった地域。米より大豆を献上していたのは米が思う収量とれなかったから。
 古来に作られていた黒豆の品種は今、改良された育成品種(兵~号)にかわり、病気に強くて作りやすいらしい。
 また以前は、灰屋(はんや)と呼ばれる場所でカヤなどを燃やした焼き土を肥料にもしていたとか。
「昔の在来黒豆はもっと美味しかったのに」と古老の意見をうかがった。
 今は灰屋が農業倉庫などに変わったり、取り壊されていて、そこで火を焚くことがない。

 まだ丹波地域でも古い黒大豆栽培者の中には昔ながらの在来種をつくっている人がいるかもしれません。寺院でも作っていた黒大豆モヤシも食べてみたいものです。

保存会通信17号(25年春)兵庫県但馬地方の食と農の文化にふれる 北村わさび 北村 宜弘

2013年06月04日 | 保存会通信17号
兵庫県但馬地方の食と農の文化にふれる
 但馬地区世話人  北村わさび 北村 宜弘

 地元のスーパー、ガンピーさんでご縁をいただき、自家採種もされているとのことで、一昨年の8月に山根さん、昨年の6月にセレクトの住本さんと見学させてもらいました。

 国道312号線をおりて円山川を渡ってすぐに広がる豊岡市日高町赤崎地区。

「昭和に入ってから11回水害にあいました。住宅浸水は今まで4回、伊勢湾台風、台風23号、それは恐ろしく、甚大な水害でした。でも、円山川の氾濫、洪水のたびに肥沃な土壌がもたらされる、だから赤崎は昔から農業が盛んな地区でもあります。」

 日高町の資料によると、昭和20年代に入るとは「赤崎ごぼう」の名が関西の市場で有名になり、戦後の食糧不足の時代にはカボチャを中心に京阪神市場へ出荷した、とあります。

 「子供の頃から父親の農業をみてきて、働きながら農業も守ってきました。この前まで消防車に乗っていましたが(消防士さん)、仕事もやめて今は専業農家になれました。」

 「8反か9反ほどの栽培面積で40品目、多い時期は16品目になり、出荷も毎日しています。365日、朝から晩まで動いても時間が足りませんね。」

 お話を伺った作業場で、びっしりと記録された作業日誌を見せていただき、そこにはいろいろな「種」もありました。



 「父親からのネギがあって、45年以上は種を採っています。もとは岩津ネギだと思います。白い部分が30㎝、これを目安に出荷しています。目標は40㎝ですが。」

「大根も種を採って30年以上になります。」



 「白ナスは近所の親戚が奈佐路(日高町八代地区)からもらってきた種で、ここで15年ほどになります。」
なぜか但馬では在来種と思われる白ナスをよく見かけます。





 ちょうど種を取り出し、天日干しされていました。


 左がレタス、右がネギの苗です。



「もちろん化学肥料、農薬も一切使っていません。3年かけて木材チップを堆肥にしてい
ます」。作業場の前には堆肥が積んでありました。



 近年は害獣による被害も多く、「村中に電気柵を張っていますが、作っても獣に食べられてしまう。
柵を張って人間のほうが檻に入るしかないですわ」とも言われていました。

 「赤崎ねぎ」とゴボウです。





 種とり人でもある吉谷さんの野菜はガンピーさんでもファンが多く( 私もその一人です)、セレクトさんや玄斎さんなど、大阪や神戸の料理店さんでも使われています。白ナスについては今後調べてみたいなぁと思っています。

保存会通信17号(25年春)大阪へ感謝 代表 山根成人

2013年05月15日 | 保存会通信17号
大阪へ感謝

今回のことは本当に頭の下がる思いだった。

30年農業運動に関わってきたけど、こんなイベントは初めてで、口を挟むことが何もなかった。
セレクトの住ちゃんの軽い乗りかなと思っていたことがこんな風に発展したのは、二人の今までの実績があったからなのだろうと、改めて感服。他県の産地のことなのに「よっしゃやろう」と応援に立ち上がり、一人前の料理人を集め、彼らにレシピをもって帰らせるなんて発想は自分にも全くなかったから恐れ入った。

中村重男の面目躍如――― ダテに今までイベントやってきたんやない
デーーーーーというてる顔が浮かんでくる。

大阪の力を再認識し、その力強い活動で兵庫が少しでも前に向いたらと期待するけど、具体的には何も見えてないので、これから玄斎の上野君にも頑張ってもらいたいと考えている。

ナガホリが初めて私に語った「自分が産地に出向き交流して購入することになったものを住ちゃんに売ってもらう。自分ひとりで産地が喜んでくれるまでは購入できないので八百屋が買い上げて自分らが買う、そこで八百屋も育ってくれる」というようなことを聞いたが、料理人としても商人としても立派な哲学をもっていると感心したのを思い出した。今回も彼の一貫したやり方の一つであり「料理界」に身をおく人たちに是非参考にして学んでほしいと思う。住本、中村の連携スタイルは地味だが立派なモデルとして伝えていきたい。

この二人のお陰で「ひめじのエビ芋」復活劇が軌道に乗ったし、新しい在来種発掘時にテストしてもらう窓口にもなってもらっている。

住本君は酒井菊代ちゃんと二人でとても苦労していた。地元の行政などとの切り離せないこともあって鬱陶しい思いもしていた。
ご苦労さん、体験の一つとして栄養にして頂戴。

先だってエビ芋の岡本さんたちと「ながほり」に食事に行ったとき、NHKが取材中だった。

6月初めころの「プロフェッショナル」という番組に出ます。まだ撮影途中できっちり決まってませんがご覧になって下さい。

ともかく結果はどうであれ、今の今、二人に感謝の念でこれを書いたことだけ報告します。

2012年11月10日
         
 中村 重男 殿
 住本 佳英 殿            
                                  山根 成人

保存会通信17号(25年春)「四季を和える ~割烹の和えものの展開~」  玄斎 上野直哉

2013年05月14日 | 保存会通信17号
「四季を和える ~割烹の和えものの展開~」「

 この度、旭屋出版㈱より、拙著「四季を和える ~割烹の和えものの展開~」が刊行されました。

 日本料理では一般的に地味な存在と捉えられがちな「和えもの」だけに焦点を合わせた、ちょっと珍しい料理書です。
 3年前、保存会の山根代表との出会いがきっかけで、私自身少しずつではありますが、兵庫の地に生き続ける、味わい深い素材たちを知ることができました。
 弊店では、兵庫県内や近隣府県の農海産物を中心に使わせていただいておりますが、本書でも、(全国向けの料理書という性格上、全てというわけにはいきませんでしたが、)保存会会員でもある農家さんのご協力で、兵庫の在来種を何品かに使わせていただいております。
 故に一料理人としてのやり甲斐と、兵庫県人(大阪出身ですが)としての誇りを感じながらの制作時間でした。
 そして先月上旬、無事発刊の運びとなり、ご協力いただきました全ての方々に、深く感謝いたしております。ありがとうございました。
 大型書店やインターネット書店で発売中ですので、ぜひ会員のみなさまに、お手にとって頂きたいと思います。 (玄斎 上野直哉)

http://gensaikobe.exblog.jp/19683739/

保存会通信17号(25年春)篠山でのイベン トを振り返って  玄斎 上野直哉

2013年05月13日 | 保存会通信17号
篠山でのイベントを振り返って
 玄斎 上野 直哉

 山あいの小さな公民館に、大阪からの大型観光バスが、多くの出会いを運んできてくれました。
 当日はあいにくの空模様でしたが、色づいたイチョウも雨にぬれ、丹波篠山のしっとりとした風景に溶け合う中でのイベントは、私にとって最高に有意義で満足感に浸る一日でした。
 晩秋の丹波の食材、とりわけ今回のテーマである「丹波山の芋」は、強い粘りも然ることながら、絹のような舌触りと優しく鼻を抜ける香り、そしてほのかな甘みが魅力的な逸品です。
 主役・脇役の両方で活きる名優であることが、今回使わせていただいて改めて感じました。
 D.コルビ氏、山中伸彦氏の両氏とともに巨腹トリオ(?)で、この食材に挑ませていただきましたが、日仏伊どの料理にも優しく寄り添い、またあるときは精一杯主張し、意外なほどのヴァリエーションの広さに驚くばかり。
 定番の「とろろ」を使ったものから、「山の芋ベシャメルソース」で作ったグラタンやニョッキ、最後はデザートのタルトまで。 和食以外での利用法が、ここまであるのか・・と、まさに目からウロコでした。
 食後の懇親会では、飲食関係の参加者の方々や生産者の皆さまと、話に花が咲き、和やかなムードで意見交換ができました。
 今回のイベントで、先頭に立って大変なご尽力いただきました「セレクト」の住本さん、消費者と生産者が支えあいながら新しいつながりを生み出そうと、この会を発案してくださった「ながほり」の中村さん、丹波の生産者さんからは、山の芋部会の田中部会長さん、酒井菊代さんを始め、全ての皆さまに感謝の意を捧げたいと思います。
 お疲れ様でした。 

保存会通信17号(25年春)丹波ささやま山の芋 フェスタを終えて2  セレクト 住本 佳英

2013年05月12日 | 保存会通信17号
丹波ささやま山の芋フェスタを終えて2            
セレクト 住本 佳英

みなさん、先般は多大なるご支援をいただきありがとうございました。
無事フェスタを終えることができ、ほっとしています。
ほっとしてるのに、山根さんから「苦労したことなどを書いてくれ!」と言われ、書かないで放ってたら「まだか!」と言
われ、しぶしぶ書いてます(笑)

もともとは田中部会長に在来種保存会があいさつに行かれるときに、たまたま私が同席し、緊張感のある場に耐え切れず、
「イベントでもやってぱあ~とやりましょ!」的なことを思わず口にしてしまったことが発端でした。

ぼくのなかでは農家さんや在来種メンバー、料理人さんで、バーベキューでもして懇親を図るつもりだったんですが、翌年、山根さんから「イベントどうなってるんや!」と再三にわたってお電話をいただき、(このしつこさは見習いたいです)なかなか形にできなかったので、ながほり中村さんに一緒に北海道に行ってたときに、相談をしました。

「わかった、まかしとき!(これ怖いんです)」で帰ってきて、ドミニクコルビさんと田中部会長のところに出かけられ、帰ってこられてから、「フレンチ、イタリアン、和食で山の芋料理の競演をやることになったから。(えっ~!)山中さんと上野さんにはOKもらってるし、あと料理人40人位住ちゃん集められるやろ。頼むよ」と言って風のように去っていかれました。

こうしてあとには引けなくなり、やっと重い腰をあげた僕でした(笑)

丹波に行き、酒井さんと相談し、丹波のことはすべて酒井さんにお任せし(酒井さんすみませんでした)ぼくは料理人さん
との打ち合わせと、大阪メンバーを集めることに集中できました。

苦労した点はドミニクさんが東京の方だったので、なかなか打ち合わせしづらかったのと、猪肉と山の芋の値段があまりにも
高かったので食材費が思ってたよりもかかってしまったことくらいです。ほかにもいろいろあったと思いますが、会場での楽し
さもあって忘れてしまいました。特に今回一人八千円円という結構高い会費を払い、住本のためにと集まっていただいたうちお客さんでもある大阪の料理人さんのメンバーには感謝してます。
なんとか勉強していただいて、楽しんで帰っていただかなければとおもいましたし、それが僕の重い腰をあげさした最大の要因でした。終わりのあいさつのとき楽しんではるみんなの顔見て、少し胸が熱くなりました。

最後に今回これだけの数の志しの高い生産者と料理人が懇親を図ることができたフェスタを実現できたことをうれしく思います。
非常にレベルの高い会であったと思うし、私自身もプラスになることが、多かったです。
携わっていただいた関係者の方々本当にありがとうございました。

今年以降のことはわかりませんが、道筋はつきました。
やはり地元のことなので、今度はささやまのみなさんが協力して主催していただけたらいいなと思います。
協力は惜しみませんのでよろしくお願いいたします。

保存会通信17号(25年春)丹波ささやま山の芋 フェスタを終えて1 酒井菊代

2013年05月11日 | 保存会通信17号
丹波ささやま山の芋フェスタを終えて1        
丹波篠山地区世話人 酒井 菊代

 思い起こせば平成23年12月11日に「おい、篠山へ行くからお前も出てこい。」といういつもの山根さんの呼び出しで、私も初対面の山の芋部会長である田中さんのご自宅に、丹波ヤマノイモの聞き取りに行かせていただいた時にさかのぼります。
 どういう風に切り出せば会のことを理解してもらい、種の話しが詳しく聞けるかと探っている時に、同席していたセレクトの住本さんが、「篠山の芋はほんまに美味しいから使わせてもらってます。」とほめてもらったことから、話しはいっぺんにほぐれて盛り上がり、もっとこの味をサイズの小振りな芋を好まれる一般家庭向けでなく、本物の味を求めている料理人に知ってもらい、大きな丸い生産者の自慢できるヤマノイモが生産できるようになればいいのにねという意見が出てきました。

 「ほないっぺん篠山でどーんと山の芋イベントしたらどないや。」と話しは進み、大阪は住本さんが、篠山はお前がまとめて秋の収穫の頃にやろうとなんとも勢いだけで話しは始まりました。

 春、夏の野菜の種蒔きや作付け、田植えと農作業に追われていた7月1日、住本さんがフランス料理のシェフのコルビさんと一緒に篠山に来られ、「そろそろ打ち合せしましょか…」という事になり再び田中部会長さんのお宅で話しは盛り上がり、日程や会場の準備が始まりました。
 それから、何度住本さんと電話やFAXを交わし篠山へ足を運んでもらったことやら、住本さんに感謝感謝です。彼の人徳で有名なシェフや料理人が、忙しい合間をぬって参加してくれたのだと思います。

 私の方は、市の山の芋推進協議会から、「お前は何もので何をしようとしているのか?」とおたずねがあり、説明に行くというハプニングがありました。味や品質をお客様に尋ねたり、聞いたり比べたりしたことが一度もないという協議会のえらいさんの言葉に、篠山は殿さん商売してると云われていることを実感しました。
 間際までドタバタの準備が続き、フェスタ当日はあいにくの雨模様でしたが、100人近くの参加者が山の芋に関わる一日をすごしていただきました。
 種を採るほうからでなく、食べる、使う側からの芋の使い方は、生産者としてとても新鮮でした。
 午前にうかがった梅崎先生のお話しの中の、正しいヤマノイモの表記が、午後からのお料理の中に住山ごぼうの薯蒸しとありました。在来種保存会としては、種の話や栽培の話など広げたい話題ができず申し訳なく思っています。
 ただ、今回の事がなければまず知ってもらえなかったであろう居酒屋の店長さんや料理人の方達に、会の事を知ってもらいこだわりの野菜を広める一助になったかと思っています。
 種を守るためにも、栽培する人、使う人、食べる人、それぞれの意見を聞き、聞いてもらう事は大事なことと改めて実感した今回のフェスタとなりました。

 保存会の皆さんには本当にお世話になりました。ありがとうございました。

保存会通信17号(25年春)道が守るもの たなかひでき

2013年05月10日 | 保存会通信17号
先日発行しました保存会通信の17号の記事をアップしていきます
 (どんどん遡って、過去の号も載せていきます)


道が守るもの
                         たなかひでき
 日本は山と川に恵まれた、自然の豊かなところです。農村集落からすこし行くと里山があります。里山には、人々が薪を集めたり、山菜などを採ったり、集落どうしで行き来するのに使った里道があります。谷道と尾根道です。最近では、里道を利用する人が少なくなって、倒木や土砂崩れがあっても放置されて、なおさら、人が里道を利用できなくなって山が荒れています。人が入らなくなれば、自然が守られていいのではないか、と思われますが、実際はその逆です。そういうところを狙って、ごみ焼却場や廃棄物処分場などの開発の手が伸びてきます。
 タネに関しても同じです。昔は各地で自分のところで使う野菜のタネ採りが行なわれ、そこには伝統野菜や在来種がありました。しかし、大手種苗会社によるタネの全国制覇がなされると、市場もこの均一な野菜を望み、不揃いの美味しい在来種は敬遠され、農家はタネ採りも生産もしなくなりました。利用しなくなることから、崩壊が始まります。この次には、多国籍大手種苗会社による、遺伝子組み換え作物の独占支配が待っています。
 幸い、地方に行けば、まだたくさんの在来種の野菜や作物が残っています。タネを守るということは、在来種を訪ねあるき道をつくること。そして、その地域でタネ採りが続けられ、タネが蒔かれ、野菜が収穫され続けられるように、利用の道をつくることだと思います。そして、道は使い続け、歩き続けなければなりません。獣道と同じです。私は里道が山を、自然を守るということを身をもって学びました。利用し、使い続けることが、守ることになるというのは、タネでも同じです。守ることは、遺伝子組み換え作物などの進出を防ぐことにもつながります。これからも、タネ採りをして在来種を守ることの大切さを伝えていきたいと思います。