そして時の最果てへ・・・

日々の雑感や趣味の歴史についてつらつらと書き並べるブログ

同一律に挑んだ画家

2008-05-09 22:46:07 | 雑感
同一律で思い出したのがピカソ。

「理解できん!」
と言われてしまう画家ナンバーワンは間違いないところですが、ピカソは絵画を「動かした」画家なんですよ。いや、少なくともワタシの中では。

西洋ではルネサンス期以降、絵画に「報道写真」としての性質を要求する文化がありました。芸術家を養っていたパトロン達は、自分の肖像画をよりリアルに描くよう画家に注文し、正確に見た状況を書き写すテクニックが発達し、それにともなって専ら写実的な絵画が描かれるようになります。

徹底的に写実的であろうとしたため、また、絵そのものが動かないため、画家たちはひたすらに「静止画」を描きました。描かれるものは永遠普遍の静止画。

しかし、ピカソは「動画」を描きました。


ピカソ 「水差しと果物鉢」 1931年 グッゲンハイム美術館

奇妙に歪んだり屈折している水差しや鉢は、おそらく、ピカソの目がおかしかったわけでも酔っ払っていたわけでもありません。動いたものたちをそのまま描こうとした、ピカソ独特のアイデアの成果なのです。

水差しは本来の役目であるコップに水をつぐために持ち上げられたでしょうし、台所で水を満たされてテーブルに運ばれた経緯もあるでしょう。さらにピカソのアトリエに来る前には、何処かの工場で作られ、お店に運ばれて商品棚に陳列され、買われたという過去があるでしょう。果物鉢や果物もまたしかり。

この一枚の「静物画」に収められたものたちは、それらが経てきた時間において、幾度となく動いてきました。様々な角度、方向、そして幾多の意味の変遷(生産品→商品→道具→絵のモデル)といった数多くの動きを、この一枚の油絵は、その静かな表情の中に隠しているのです。

写実を本分とする西洋絵画界において、「動く絵」を描いた。絵画という動かない芸術を動かして見せたピカソは、その意味で同一律を否定した画家といえるでしょう。

動画を描く。凄まじい発想力であり、かつそれをサラッと実行して見せるあたり、伊達に有名なだけあります。

キリスト教が進化論を拒否した理由

2008-05-06 22:41:33 | 歴史
二つ前の記事で、「同一律を崩す仕事をしたのはダーウィン」と書きましたが、進化論はダーウィンが独立に考案したものでなく、カントやヘーゲルの著作の中にも「進化」に関する具体的な記述を見ることができますし、スペンサーの「社会進化論」は「種の起源」発行以前から唱えられていたものです。進化論はダーウィン一人が唱えたわけではなく、19世紀後半の科学の展開によって、総合的に説得力を持ったものと言えるでしょう。

さて、進化論が同一律(Law of Identity)にとって重要なのは、「種」に「同一律」が成立しないことが明らかになった点です。

まずそもそも、この世に存在するありとあらゆる「個体」にアイデンティティが成立しないことは、2500年ほど前から気付かれていました。なぜなら、この世に生まれたものは必ず死ぬからです。「滅びるもの」に成立する式は、「A→A'」であり、「A=A」ではない。この世に存在する「物体」については、同一律が成立するものは何一つない。ヘラクレイトスが(一応)言ったとおり、「万物は流転する」のです。

では、同一律が成立するものとは、何なのか?プラトンは、これを「イデア」と呼びました。そして「A=A」である「イデア」を認識することができる「魂」にも「A=A」が成り立っていると考えました。故に、「魂」は滅びない。同一律が成り立つものは、必然的に滅びることがないものです。

プラトンが創出した超自然的な概念は、アリストテレスには「純粋形相」、キリスト教には「神」と呼ばれるようになります。

こうしてプラトンから同一律というバックボーンを輸入したキリストの「神」は、「不滅」である「魂」を創造することとなります。滅びない「魂」には同一律「A=A」が成り立ちますが、滅びる「肉体」に適用されているのは変化式「A→A'」ですからね。

そしてさらにキリスト教は考える。それぞれの「個体」は「A→A'」だが、「種」には「A=A」が成り立つ。「個体」はそれぞれ個性があって千差万別だが、「種」は一定を保つ。親は滅びるが、その子供が「種」の同一律を守る。「神」が作った「種」には、同一律が成立するだろう。

ダーウィンが破壊したのは、これです。

進化論によって、「神」が作ったはずの「種」に同一律が成立しないことが明らかにされました。「種」は変化するし、時には滅びる。

キリスト教が進化論に拒否反応を示したのは、単に「人間の祖先はおサルさん」を否定したいという感情的な理由だけではなく、それが「Law of Identity」という論理学および世界の構成原理の一番の根幹を揺るがすものだったからでしょう。「種」に同一律が成立しないことを認めてしまったら、次は「魂」の同一律が危険にさらされる番です。「魂」の同一律の否定は、「魂」が「不滅」でないことを明らかにしてしまうだろう。そしてそれは、「人格」が「一つ」であることをも拒否することになる・・・。


やはり「神」に引導を渡したのはニーチェではなくダーウィン。ダーウィンの仕事は生物学だけではなく哲学界にも激震をもたらすものだったと思います。

やられた~!

2008-05-05 23:40:18 | 雑感
昨日に引き続き今日(5/5)もカープの応援に行ってきましたが、鯉のぼりの日なのに負けてしまいました。
。゜(゜´Д`゜)゜。

せっかく勝率5割復帰目前だったのに、足踏みです。

まあ、ラッキー7で3点返す底力がついたことは大いに評価できますが、先発の長谷川が初回に5点取られてしまっては勝ち目がありませんかねぇ・・・。
ヽ(´エ`)ノ

そして「明日(5/6)から仕事」というキビシイ現実。
(o;´ω`)o

「3の倍数の日だけアホになります」
とか言って休んじゃダメ・・・ですよね。
( ´゜д゜)ノシ(´゜д゜`)ヾ(゜д゜`)

大前提の中に眠る画期

2008-05-05 22:15:23 | 歴史
会社の宿題で勉強した論理学が「クセ」になって独学を続けてます。

で、論理学の三大原則を列挙しておきますと、

同一律:AはAである A⊃A
     鉛筆は鉛筆である。お皿はお皿である。
矛盾律:「Aであり、かつAでない」ということは成立しない ¬(A∧¬A)
     「これは鉛筆であり、同時にお皿である」なんてことは成立しない。
排中律:「Aである」か、「Aでない」かのどちらかである A∨¬A
     これは鉛筆であるか、鉛筆でないかのどちらかである。

普通に考えれば誰だって
「そりゃそうだろ。常識的に考えて」
と言いたくなることばっかり・・・なんですけれど、これを疑ってかかった人たちがいます。

排中律については、19世紀後半の集合論・数学基礎論を通じて疑義が呈されました。
「桃太郎には虫歯があったか、無かったかのどちらかである」
という命題に対して、「そんな検証不可能な話は命題ではない!」
という直観主義という立場です。で、排中律を拒否すると、背理法という数学の強力なツールが使用不能になるという、とんでもない副作用が付きまといます。
「そんなモン我慢できるか!!」
とぶち切れた当代随一の数学者・ヒルベルトが当代の数学者のドリームチームを組んで数学の体系を構築し直

そうとしましたが、若き天才・ゲーデルが
「そりゃ無理ですぜ、ダンナ」
と、この壮大なプログラムの死亡確認をしました。
そんなわけで、思想信条のレベルで、数学には2つの体系が並立することとなります。ま、中学・高校で習う数学

は「古典的な」、排中律を認める立場のものですけどね。

続いて矛盾律ですが、これは構文論(形式そのもの)ではなく、意味論的に別のモデルが提案されました。それ

が弁証法で、提案したのがヘーゲル。弁証法とは正と反の対立を、合という双方を包含し、かつより高い水準のものに引き上げるシステムです。人間であったイエスは、処刑により死ぬことで神になった。そんなシステム。ヘーゲルの仕事によって、ドイツ観念論は完成を見ます。

最後の同一律はどうか?・・・意外に思われるかもしれませんがこれ、ワタシはダーウィンだと思うんですよ。

文章の分量の関係からダーウィンのお話は次回に回しますが、大前提を疑ってみると案外、時代の画期となりうるぐらいの大発見が眠ってますよ、というお話でした。

今日もカープは

2008-05-04 22:01:04 | 雑感
今日(5/4)、広島市民球場にカープの応援に行ってきました。

8回に打者一巡の猛攻で6点を挙げ、4点ビハインドを覆しての勝利!いや~、気持ちいいですね

2点差に追いついた時点で、応援のボルテージがエライことになってました。応援の力で相手ピッチャーがストライク投げられなくなってましたね。良く言えばホームアドバンテージ、悪く言えば集団での恐喝ですよ。

ま、勝ったからいいようなものの、投手陣がグズグズでしたね。ローテーションの谷間とはいえ、ちゃんとゲームメイクしてほしいなぁ・・・。


どうでもいい話で恐縮なんですが・・・

横にいた、エライ露出度の高い三十後半くらいのおばさんが、いわゆる「ジュリアナ扇子」(一応カープカラーの赤でしたが)をもって応援してました。

「時代なんだなぁ」
と思って見てましたが、扇子の扱い方や身のこなしが非常にこ慣れてました。文字で書くならば「軽やかに舞う」ですね。チアリーディングの技術としては独特ながらも高いレベルですね。

昔、企画で社交ダンスをやってたキャイーンの天野君が小柳ルミ子と競演して、ダンスを披露してたんですが、それを見た小柳ルミ子が
「全然ダメ!」
そう言って、真下に伸ばした腕を水平の位置まで挙げたんですが、たったそれだけの所作で、体のオーラと言うか、とにかく体が信じられないくらい大きく見えました。天野君が幾つかステップを踏むよりも、小柳ルミ子が腕を軽く動かしたほうが表現力があった、という話。

そんな話を思い出しました。何事にも反復すれば、常人には驚嘆すべき領域まで到達できるんだな、と。それだけです。スンマセン。