「小田原の役」シリーズ第10回。前回の続きです。
これまでに説明してきましたとおり、6月下旬までには忍城以外の支城が全て陥落してしまいました。
頼みの綱であった伊達政宗は、6月5日に僅かな馬廻りとともに秀吉の元に参じ、遅参を詫びて完全に屈服してしまいました。
外交、戦略、戦術のいずれにおいても秀吉を上回れなかった北条家はついに継戦意欲を喪失し、韮山城とともに既に降伏していた北条氏規の降伏勧告を受諾。北条家当主・氏直は7月5日に城兵の助命を条件に豊臣軍の陣に入りました。しかし秀吉は、城兵の助命とは別に、宣戦布告時に要求していた抗戦派(氏直の父・氏政と、叔父・氏照を含む)の切腹を命じました。
こうして小牧の陣に端を発し、名胡桃城事件を契機として勃発し、双方合わせて30万に達する兵力が動員された小田原の役は、北条家の解体という結果で幕を閉じました。
秀吉は当初から北条家の臣従を要求していただけで、北条家を滅亡に追い込もうとまでは望んでいませんでした。実際に戦後処理を見ても、高野山で謹慎させられた北条氏直は半年後に1万石の知行を与えられ、北条氏規も7千石を得て狭山藩祖となり、北条氏邦は前田家臣、北条氏勝は徳川家臣となっています。
(ただし、当主であった氏直は更に半年して病死したため、北条の嫡流は滅亡してしまいます。)
とは言え、関東一円に威を張った「北条帝国」は完全に崩壊、解体されてしまいました。四国統一寸前で秀吉に敗れたものの、土佐一国を安堵された長宗我部や、九州統一寸前で秀吉に敗れたものの、薩摩・大隈・日向半国を安堵された島津と比べると、半年間寸土も与えられなかったことは、決定的に違っています。
では北条家はどこで道を誤ったんでしょうか?そもそもこの戦争で北条に勝ち目があったんでしょうか?
これまでに説明してきましたとおり、6月下旬までには忍城以外の支城が全て陥落してしまいました。
頼みの綱であった伊達政宗は、6月5日に僅かな馬廻りとともに秀吉の元に参じ、遅参を詫びて完全に屈服してしまいました。
外交、戦略、戦術のいずれにおいても秀吉を上回れなかった北条家はついに継戦意欲を喪失し、韮山城とともに既に降伏していた北条氏規の降伏勧告を受諾。北条家当主・氏直は7月5日に城兵の助命を条件に豊臣軍の陣に入りました。しかし秀吉は、城兵の助命とは別に、宣戦布告時に要求していた抗戦派(氏直の父・氏政と、叔父・氏照を含む)の切腹を命じました。
こうして小牧の陣に端を発し、名胡桃城事件を契機として勃発し、双方合わせて30万に達する兵力が動員された小田原の役は、北条家の解体という結果で幕を閉じました。
秀吉は当初から北条家の臣従を要求していただけで、北条家を滅亡に追い込もうとまでは望んでいませんでした。実際に戦後処理を見ても、高野山で謹慎させられた北条氏直は半年後に1万石の知行を与えられ、北条氏規も7千石を得て狭山藩祖となり、北条氏邦は前田家臣、北条氏勝は徳川家臣となっています。
(ただし、当主であった氏直は更に半年して病死したため、北条の嫡流は滅亡してしまいます。)
とは言え、関東一円に威を張った「北条帝国」は完全に崩壊、解体されてしまいました。四国統一寸前で秀吉に敗れたものの、土佐一国を安堵された長宗我部や、九州統一寸前で秀吉に敗れたものの、薩摩・大隈・日向半国を安堵された島津と比べると、半年間寸土も与えられなかったことは、決定的に違っています。
では北条家はどこで道を誤ったんでしょうか?そもそもこの戦争で北条に勝ち目があったんでしょうか?