しばらく離れていましたが、このブログの本分はこっちです。「小田原の役」シリーズ第12回。前回の続きです。
お忘れかもしれませんが、前回、戦争の終わり方について考察していましたが、それを踏まえると北条の採るべき外交施策とは、ずばり戦争しないことです。
ミもフタもありませんが、戦争をやって北条にとって有利な条件を手にする可能性は皆無だったからです。なぜなら、豊臣家を滅ぼす軍事力はもちろん、相手側の継戦意欲を殺ぐだけの打撃を与えることすら難しいことがわかっていたからです。家康にさえ勝てなかった北条家が、小牧の役よりも厳しい状況で秀吉に勝てるわけがありません。そこへもってきて、名胡桃城事件が発生する以前の条件がベストであるのならば、開戦すべきではない、というのが自然な解答と言うものでしょう。
小牧の役シリーズから織田信雄や徳川家康の外交センスを褒めちぎってきましたが、その理由は秀吉との戦略的なバランスを十分に理解した上で、無理のない条件で手を打ったからです。長宗我部や島津が温存されたのは、その時点で秀吉は東国に影響力をもっておらず、後背に不安を抱えていたからです。秀吉が情にもろかったとか、そんな理由ではありません。
秀吉は信長と違って徹底的な合理主義者でしたから、「嫌いだから皆殺し」という信長みたいな無茶をせず、妥協をも辞さない柔軟性を持っていました。北条はそんな秀吉の特徴を利用できず、信雄や家康のような実力相応の妥協点を見つけられず、かといって長宗我部や島津のような酌量を受ける余地がありませんでした。
この時点で秀吉の目は既に朝鮮半島に向かっていました。国内戦を最小限のコストで乗り切り、きたるべき朝鮮出兵のバグ出しをやる程度のつもりでした。そんな秀吉の意向を鑑みれば、外交段階で臣従していれば本領安堵されていたでしょう。西国を平定し、家康を屈服させていた秀吉にとって、北条は眼中になかった。
一代で相模・伊豆を掠め取り、戦国時代の嚆矢となった北条早雲。その子孫が、一代で天下人に成り上がった豊臣秀吉に滅ぼされることによって、「下克上」という言葉で象徴される戦国時代は皮肉な終わりを告げることとなりました。
お忘れかもしれませんが、前回、戦争の終わり方について考察していましたが、それを踏まえると北条の採るべき外交施策とは、ずばり戦争しないことです。
ミもフタもありませんが、戦争をやって北条にとって有利な条件を手にする可能性は皆無だったからです。なぜなら、豊臣家を滅ぼす軍事力はもちろん、相手側の継戦意欲を殺ぐだけの打撃を与えることすら難しいことがわかっていたからです。家康にさえ勝てなかった北条家が、小牧の役よりも厳しい状況で秀吉に勝てるわけがありません。そこへもってきて、名胡桃城事件が発生する以前の条件がベストであるのならば、開戦すべきではない、というのが自然な解答と言うものでしょう。
小牧の役シリーズから織田信雄や徳川家康の外交センスを褒めちぎってきましたが、その理由は秀吉との戦略的なバランスを十分に理解した上で、無理のない条件で手を打ったからです。長宗我部や島津が温存されたのは、その時点で秀吉は東国に影響力をもっておらず、後背に不安を抱えていたからです。秀吉が情にもろかったとか、そんな理由ではありません。
秀吉は信長と違って徹底的な合理主義者でしたから、「嫌いだから皆殺し」という信長みたいな無茶をせず、妥協をも辞さない柔軟性を持っていました。北条はそんな秀吉の特徴を利用できず、信雄や家康のような実力相応の妥協点を見つけられず、かといって長宗我部や島津のような酌量を受ける余地がありませんでした。
この時点で秀吉の目は既に朝鮮半島に向かっていました。国内戦を最小限のコストで乗り切り、きたるべき朝鮮出兵のバグ出しをやる程度のつもりでした。そんな秀吉の意向を鑑みれば、外交段階で臣従していれば本領安堵されていたでしょう。西国を平定し、家康を屈服させていた秀吉にとって、北条は眼中になかった。
一代で相模・伊豆を掠め取り、戦国時代の嚆矢となった北条早雲。その子孫が、一代で天下人に成り上がった豊臣秀吉に滅ぼされることによって、「下克上」という言葉で象徴される戦国時代は皮肉な終わりを告げることとなりました。