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忍城

2010-04-18 22:10:27 | 歴史
「小田原の役」シリーズ第9回。前回の続きです。

豊臣軍中山道支隊は、北武蔵を掌握する鉢形城を攻囲しました。北条氏邦(北条氏政の三弟)が籠っていたんですが、氏邦が小田原ではなく鉢形にいた理由として「評定で自分の策が却下されて居辛くなったから」という説がありますけど、実際には上州方面総責任者として、各支城衆を統括指揮する必要があったとため、考えるのが自然ですね。

しかし豊臣軍は着実に、しかも北条方の予想をはるかに上回る速度で進撃し、氏邦はわざわざ孤立するために鉢形に籠城した格好となりました。

城兵3000は豊臣軍5万を相手に10日以上耐え抜く善戦を見せましたが、ついに力尽き6月14日に降伏しました。

その後豊臣軍は、南の八王子城を攻める中山道支隊と、東の忍城を攻める東方支隊に再び分かれて進撃しました。

八王子城は、北条氏照(北条氏政の次弟)が安土城をまねて石垣を拡張してきた鉄壁の要塞でしたが、城主の氏照が小田原にいたこと、守備兵が非戦闘員を含めてすら3000人しかいなかったこともあり、広大な城域が仇となって1日もたずに落城してしまいました。

しかし忍城は簡単に陥落しませんでした。

東と南の二つの流路に分かれる利根川の分岐点と荒川上流を扼す位置にある忍城は、河川交通の要衝であると同時に、館林経由で下野佐野へ向かうルートと、厩橋方面へ向かうルート、そして鉢形へ向かうルートが集中する陸上交通の結節点でもありました。豊臣軍が手に入れれば、利根川の線で北条領国を真っ二つに分断することができます。

交通の遮断を最優先に考えた豊臣秀吉は、館林城を陥落させたばかりの石田三成に忍城攻略を命じます。

守備兵は300、非戦闘員を含めて3000。一方の豊臣軍は2万以上でしたが、忍城は過去に北条氏康や上杉謙信の攻撃も跳ね除けた難攻不落の水城ということもあり、攻城軍は水攻めのための堤防工事に取り掛かります。工事完成後すぐに水が堤防へ引き入れられましたが、翌日の大雨のために堤防の一部が決壊する事態となりました。しかも忍城の東側に低地が存在し、城内の被害は期待されたものに遠く及びませんでした。

ここら辺のお話はベストセラーになった「のぼうの城」なんかの題材として何度も小説になっています。興味がある方は是非。

で、結局忍城は小田原城降伏後まで持ちこたえ、城主の成田氏長の命で開城することになります。

忍城水攻めの失敗は石田三成の「戦下手」の証左とされることがよくありますが、これは「石垣山の一夜城」と同じく多分にデモンストレーション的な意味を込めて秀吉自身が指示したものであり、そんな秀吉をかばって三成が汚名をかぶった、というのが真相でしょう。

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