奇跡の人で哲学をやるシリーズ。前回の最後には、
街角で猫を見つけたとき、何故「個別の猫A」がいるとは思わず、(一般的な)猫がいると思うのだろう?一般性はどこにあるのだろう?
という問いで終わりました。
さて、この疑問を考えるにあたり、少し遠回りしてみます。
ヘレンが最初に理解したのは「water」、日本語で言うと「水」でした。では、ヘレンに沸騰させた水を飲ませ、何を飲んだか尋ねてみます。するとヘレンは「water」、そして「hot water」と答えました。これを素直に訳すと「水」、「熱い水」と答えたことになります。
どこか不自然な訳し方ですが、ヘレンは日本人のように「お湯」という言葉を知らず、温度の高低で別々の言葉を使い分ける発想がありません。単純に「water」に「hot」や「cold」をなどの形容詞を付けて表現する方法しか知らないのです。
これとは別の話。棒切れが一本あります。これを他の木の枝などと一緒に火をつけて燃料にする人は棒を「薪」と呼びます。地面に突いて歩く際の補助具として使う人は棒を「杖」と呼びます。物干し台に渡して洗濯物を干している人は「竿」と呼びます。
以上2つの話を考え合わせると、ワタシが街角で猫を見つけて「(一般的な)猫がいるなぁ」と思うのは、実はやっぱり猫という語が文から切り出されただけで、言語がなければ物は一般性をもたないように思えます。言語がなければ物は単に個々別々のあり方を示すにすぎない。
なおかつ「水」「お湯」「water」のように、それらをどのように括るかは言語体系によって異なり、さらに「薪」「杖」「竿」のように、その物に接する態度によってどのような一般性を読み込むかが異なる。
こうして以上のような結論が導き出されました。
・言語がなければ物は一般性をもたない。
・一般性は言語によって、その言語体系や使用者の態度によって恣意的に与えられる。
ここまでのシリーズを通した議論、実は歴史的に有名な論争が下敷きになっています。次回はこの「下敷き」についてお話をしようかと。
街角で猫を見つけたとき、何故「個別の猫A」がいるとは思わず、(一般的な)猫がいると思うのだろう?一般性はどこにあるのだろう?
という問いで終わりました。
さて、この疑問を考えるにあたり、少し遠回りしてみます。
ヘレンが最初に理解したのは「water」、日本語で言うと「水」でした。では、ヘレンに沸騰させた水を飲ませ、何を飲んだか尋ねてみます。するとヘレンは「water」、そして「hot water」と答えました。これを素直に訳すと「水」、「熱い水」と答えたことになります。
どこか不自然な訳し方ですが、ヘレンは日本人のように「お湯」という言葉を知らず、温度の高低で別々の言葉を使い分ける発想がありません。単純に「water」に「hot」や「cold」をなどの形容詞を付けて表現する方法しか知らないのです。
これとは別の話。棒切れが一本あります。これを他の木の枝などと一緒に火をつけて燃料にする人は棒を「薪」と呼びます。地面に突いて歩く際の補助具として使う人は棒を「杖」と呼びます。物干し台に渡して洗濯物を干している人は「竿」と呼びます。
以上2つの話を考え合わせると、ワタシが街角で猫を見つけて「(一般的な)猫がいるなぁ」と思うのは、実はやっぱり猫という語が文から切り出されただけで、言語がなければ物は一般性をもたないように思えます。言語がなければ物は単に個々別々のあり方を示すにすぎない。
なおかつ「水」「お湯」「water」のように、それらをどのように括るかは言語体系によって異なり、さらに「薪」「杖」「竿」のように、その物に接する態度によってどのような一般性を読み込むかが異なる。
こうして以上のような結論が導き出されました。
・言語がなければ物は一般性をもたない。
・一般性は言語によって、その言語体系や使用者の態度によって恣意的に与えられる。
ここまでのシリーズを通した議論、実は歴史的に有名な論争が下敷きになっています。次回はこの「下敷き」についてお話をしようかと。