奇跡の人で哲学をやるシリーズ。前回までをまとめてみますと、
最初に「猫」という語の意味を問うところから始めると、「『猫』という語が猫の一般観念を表す」という考え方では上手くいかなくなってしまいました。そこで、むしろ言葉が教えられ、使用されている現場で考えてみると、結論として言語使用の単位は語ではなく文だ、ということになりました。
で、普通に考えてきた「ヘレンは『water』をまず先に覚えた」、つまり語の意味を学んで、それを組み立てて文を作るようになる、という言語学習の順序と逆転しているのは何故なのか?
という問いで終わっていました。
その答えはきっと、ヘレンが最初に綴った「water」は、単純に「water」という単語なのではなく、「This is water.」という意味を表す一語文だからなのではないでしょうか?
例えばヘレンが牛乳瓶を持って「milk」と綴ったとします。そこでお母さんが「Yes」と綴って返すと、ヘレンは首を横に振り、蓋の部分を指して再度「milk」と綴り直します。
上の例の場合、ヘレンは単に「milk」という単語を綴ったわけではないようです。それを察したお母さんが「This is milk.」という記述文だと読み取って「Yes」と返事をした。ところがヘレンは「Open the milk-bottle cover.」という依頼文を綴っていた、というわけです。
そんなわけで、ヘレンがその言葉に何らかの働きを託して綴っている以上、それは単なる単語の書き取りではなく、一語文の発話だと見做さなければいけないでしょう。
こんなふうに一語文の発話から始まって、だんだん複雑な文をやり取りするようになり、やがてそこから語を切り出して、新しい組み合わせをも作り出していくようになる、と。
こうして言語を覚える順序が今まで考えていたものと逆、という違和感は払拭できました。・・・けど、じゃあ最初に考えていた猫の一般性はどこへいったのでしょう?町を歩いていて猫に出会ったとき、ワタシは個別の「猫A」がいるなぁ、ではなく、猫がいるなぁ、と思います。ワタシはそれを一般的な猫として見ます。個々別々の存在に、一般性はどこにあるんでしょうか?
最初に「猫」という語の意味を問うところから始めると、「『猫』という語が猫の一般観念を表す」という考え方では上手くいかなくなってしまいました。そこで、むしろ言葉が教えられ、使用されている現場で考えてみると、結論として言語使用の単位は語ではなく文だ、ということになりました。
で、普通に考えてきた「ヘレンは『water』をまず先に覚えた」、つまり語の意味を学んで、それを組み立てて文を作るようになる、という言語学習の順序と逆転しているのは何故なのか?
という問いで終わっていました。
その答えはきっと、ヘレンが最初に綴った「water」は、単純に「water」という単語なのではなく、「This is water.」という意味を表す一語文だからなのではないでしょうか?
例えばヘレンが牛乳瓶を持って「milk」と綴ったとします。そこでお母さんが「Yes」と綴って返すと、ヘレンは首を横に振り、蓋の部分を指して再度「milk」と綴り直します。
上の例の場合、ヘレンは単に「milk」という単語を綴ったわけではないようです。それを察したお母さんが「This is milk.」という記述文だと読み取って「Yes」と返事をした。ところがヘレンは「Open the milk-bottle cover.」という依頼文を綴っていた、というわけです。
そんなわけで、ヘレンがその言葉に何らかの働きを託して綴っている以上、それは単なる単語の書き取りではなく、一語文の発話だと見做さなければいけないでしょう。
こんなふうに一語文の発話から始まって、だんだん複雑な文をやり取りするようになり、やがてそこから語を切り出して、新しい組み合わせをも作り出していくようになる、と。
こうして言語を覚える順序が今まで考えていたものと逆、という違和感は払拭できました。・・・けど、じゃあ最初に考えていた猫の一般性はどこへいったのでしょう?町を歩いていて猫に出会ったとき、ワタシは個別の「猫A」がいるなぁ、ではなく、猫がいるなぁ、と思います。ワタシはそれを一般的な猫として見ます。個々別々の存在に、一般性はどこにあるんでしょうか?