手塚治虫さんのお母さんのお話。
漫画の天才、手塚治虫さん。
62歳で亡くなりました。
池田師範付属小学校というエリートの通う学校の生徒だったのですが、生徒もエリート、先生もエリートです。
あるとき授業中に、治ちゃん(本名は「治」)がノートに漫画を描いていた。
すると先生が見咎(みとが)めた。
「授業中に漫画を描いているとはなにごとだ」と。
当時は漫画は市民権を得ていませんから、怒られた。
そしてお母さんが呼び出しを受けた。
お母さんは帰ってきて、
「治ちゃん、今日学校から呼び出されて、先生に言われたんだけど、授業中に漫画を描いていたんですって?
どんな漫画を描いていたのか、ちょっと見せてちょうだい」
「いいよ」と持ってきた漫画を母親は何も言わずに、1ページ目から読み始めます。
そして、終わりまで読んで、パタッと閉じた。
そこで、
「治ちゃん、この漫画はとてもおもしろい。
お母さんはあなたの漫画の、世界で第一号のファンになりました。
これからお母さんのために、おもしろい漫画をたくさん描いてください」
と言った。
天才手塚治虫が誕生した瞬間です。
普通の親なら「何やってんのよ、あんたは」と怒ります。
しかし、手塚治虫のお母さんは違った。
描いた漫画を誉めてやることで、子どもの才能を引き出したのです。
子どもが伸びたい方向に伸びようとするのを、なぜ社会の常識や親の思いで潰すのか。
その芽をなぜ摘み取るのか。
世間はそこに、そろそろ気がついたほうがいいようです。
子育てとは、じつは難しくない。
子どもが伸びていきたい方向に伸ばしてやればいい。
逆にいえば、伸びたい方向に伸びていくのを邪魔しないこと。
小林正観著『淡々と生きる』
まさに、
「教育で大切なのは「詰め込む」ことではなく、「引き出す」ことである。」 (船井幸雄)
と言えますね。
社会の常識という物で、親や先生が「才能を伸ばす」というより、むしろ「潰していっている」ような場面を今まで多く見てきた気がしますが、なんとも言えない気持ちになります。
最近よく思うのですが、「常識」って一体何なのか?
その方が都合がいいように誰かが作り上げたようなものもきっと多い筈。
勿論社会で生きていく為にはある程度の枠組みは必要だけど、それに従ってさえいれば大丈夫という「思考停止状態」に陥ってしまうのが一番危険なような気がします。
「常識で考える」より、「常識を考える」。
一文字で全く違う考え方になりますが、
その常識はなぜそうなのか?
自分の頭でワンクッション置いて「考えてみる」という事も大切かなと。
違う世代の人と接すると感じたりもしますが、
時代が、世代が変われば当然「常識」すらも変わる。
なので考えも「固定化」させるのではなく「変化」に対応していく事が大事なのでしょう。
疑問を持ち続ける事、自分自身に質問し続ける事。
これは頭の片隅にずっと持っていたいなと思います。