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中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

軍霞の手紙

2010-04-19 10:08:46 | 中国のこと
 軍霞、馬軍霞 (マ・チュンシャ)は、中国西北部の寧夏回族自治区南部の回族の娘で、今は区都の銀川の大学で学んでいる。私はこの地区や湖南省西北部の少数民族が多く住む農村の子ども達の教育を援助する会に入っていて、軍霞が中学生になった時から学資を援助している。これまでにも現地に行って彼女と何度か会ったが、小柄なおとなしい勉強好きの娘で、私の一番上の孫娘と同い年ということもあって、孫娘のように可愛く思ってきた。

 会では援助を受けている学生達と援助者が年に2回手紙を遣り取りすることを決め、その仲立ちをしているが、近頃軍霞から近況を記した手紙が届いた。現地の教育局が学生達の手紙を集めて会に送ってくる。学生達は広い地域に散らばって住んでいるから、これはなかなか労力の要る仕事だが、現地、特に寧夏回族自治区南部の固原地区の教育局の担当者は労を厭わないでやってくれている。会に届いた手紙は翻訳ボランティアの手で訳され援助者の許に送られてくる。そういうことで手紙を受け取るまで時間がかかる。

 今度の軍霞の手紙も3月3日に書かれたもので、「親愛なるおじいちゃん、こんにちは。まず軍霞に新年のご挨拶をさせてください」で始まっている。この新年は旧暦で、今年は2月14日だった。軍霞は国語が好きで、中学生の頃からなかなか巧みな表現をする手紙をくれて読むのが楽しかったが、今度の手紙でもいろいろと近況が詳しく綴られている。その中で興味を惹かれたのは、次のような一節だった。

 「村の十五、六歳の女の子はみんなお嫁に行ってしまい、すでに母親になっている子もいます。ここはとても時代遅れな村で、まだまだ封建主義の思想が色濃く残っています。娘が早く結婚し、早く子どもを産むことが一族の誇りなんです。でも私が欲しいのはそんな生活ではありません。ハハ。実は私は村ではもう“大齢女青年”(注:結婚適齢期を過ぎた女性)なんですよ。でも気にしません。私には私の人生があり、夢があるから。」

 軍霞の住む村は黄土高原にある寒村で、年間降雨量が非常に少ないこの地域では、小麦などの作物は10年に1回、まともに収穫ができたら良いと言われている。したがって村民の生活は貧しく出稼ぎ農民も多い。生活の中にも古い慣習が多く残っているのだろうが、手紙にあるような、女の子が10代半ばで結婚するのが普通であるということは初めて知った。

 黄土高原の農民を描いた中国映画『黄色い大地』は、陝西省の黄土高原の寒村に住む娘の結婚をめぐる悲劇を描いた感動的な作品だったが、「昔の貧しい中国の田舎村では、娘の嫁入りは一種の生活のための知恵。年齢や性格の相性、ましてや2人の愛情の有無などは論外で、自分の娘をいかにして、できるだけ生活能力のある男に嫁がせるかが、この時代のこの田舎の父親のテーマ」と解説されている。

 この作品に描かれた時代からは今では70年以上もたっているから、軍霞の村での若い娘達の結婚は悲惨なものではないだろうし、まだまだ封建主義の思想が色濃く残っているとは言っても、結婚する2人の意思がまったく無視されることはないのだろう。しかし、やはり根底には貧しさがあるのではないか。そういう環境の中で、二十歳を過ぎたばかりなのに、もう“大齢女青年”と呼ばれるようになっている軍霞が、自分の人生を自分の意志で切り開き、夢を実現しようと努力していることが嬉しい。これまでささやかにそれを援助してきたことを満足に思う。手紙の終わりに軍霞は書いている。

 「私の兄が今年六月に大学を卒業します。兄は歴史学(師範)を専攻していて、卒業後は西部地区で教師をする予定です。私も卒業後は西部地区で教師になりたいと思っています。これは私が長年抱き続けている夢です。西部地区は大変貧しく、私のように学びたいと強く願う子供たちがたくさんいます。私はすでに、多すぎる愛情と援助をもらいました。次は私がそれを温もりを必要としている人に届ける番です。」

 私は、この中国の健気な孫娘の未来が明るいものであるようにと心から願っている。


                軍霞の村


       





ウグイス(鴬)のさえずり

2010-04-16 11:45:36 | 身辺雑記
 すぐ近くにある稲荷社の森で朝、ウグイスが鳴いていた。一羽だけのようだが澄んだ声があたりに響いて心地よい。この時期、毎年のことだが、やはり季節感があって好いものだ。

 ところで、ウグイスの鳴き声と言えば「ホウ・ホケキョ」と音写しされるが、今年のこの森のウグイスは「ホウ」の後がちょっと違っていて「ホケキョ」と続かないで「チュッチュイチチ」となっている。「ホウ」と鳴いてから「チュッチュイチチ」では何か肩すかしされたような感じで、初めはウグイスなのだろうかと思った。

 ウグイスは、コマドリやオオルリとともに日本三鳴鳥の野性の鳥一つとされているが、他の2種に比べるとその姿は地味だ。声はよく聞くことができるが姿を見るのは素人にはかなり難しいようだ。この森の木は背丈が高いし、私のような者には到底見つけることはできないだろうとハナから諦めて見に行ったことはない。前に紹介した、自然観察を趣味にしている弟はさすがにその姿を撮っているので借用する。
              

 何枚も撮っているが、これは昨年の4月5日に撮られたもので、

 「今日は広い範囲でウグイスのさえずりが聞かれました。さえずりがだんだん上手くなってきています。しかし例年「ホー ホケキョ」の正調ではなく「トッポ ジージョ」と聞こえるさえずりをよく耳にするのですが、これは未熟な鳴き声なのかそれともこの鳴き声が定着しているのかあるいは何か意味のあるさえずりなのかいつも不思議に思っています。」

 というコメントが付けられているから、やはり必ずしも「ホウ・ホケキョ」とは限らないようだ。

 ウグイスの「ホウ・ホケキョ」は雄のものだが、他のウグイスのさえずりを学んで身に着けると言う。ある自然観察に関するサイトを見ると次のような解説があった。

 「若鳥は幼い頃に聞いた他のウグイスのさえずりを覚えておいて、次の年の春にそれを思い出しながらさえずる練習をして、だんだんうまくなっていきます。このうまくなっていく過程のことを「プラスチックソング」とか、「ぐぜり鳴き」といいます。ところが、実際は、さえずりをすでに覚えているはずの大人の雄も、毎年春先にはこの「ぐぜり鳴き」のような状態を経て、上手なさえずりができるようになっていくのです。この時期は、毎年春の早い頃。春先に家の近くや公園でウグイスの声が聞こえたら、どんな感じかしばらく聞いてみてください。「まだ調子が出てないな~」という感じでさえずっていたら、この「ぐぜり鳴き」の状態だといってよいでしょう。つまり、「初鳴き」である可能性が高いということですね」

 そうすると近くの森のウグイスの「ホウ・チュッチュイチチ」は「ぐぜり鳴き」で、これからしだいに正調になっていくのか。しばらく毎朝続けて聴いてみよう。

 「早起きは三文の徳」と言うが、それほど早く起きたわけではなくても、近くでウグイスの声を聞き、興味を惹かれていろいろ調べ、少しばかり知識が増えたのも「三文の徳」と言えるのかも知れない。


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京都の花見(3) 毘沙門堂

2010-04-15 09:33:50 | 身辺雑記
 観修寺を訪れた後、同じ山科にある毘沙門堂に行った。天台宗の門跡寺院で七福神の一つの毘沙門天を本尊としている。護法山安国院出雲寺とも言い、寺伝によれば、前身の出雲寺は上京区にあったと推定されていて、大宝3年(703年)行基が開いたと言う。平安末期以降度重なる戦乱で荒廃したが、江戸時代の寛文5年(1665年)に現在地に再興された。延暦年間(782~805)に最澄が自ら作った毘沙門天を安置したので毘沙門堂と呼ばれるようになったと伝えられている。

 駐車場近くの裏門から入る。


 まず美しい枝垂桜が目に入る。



 この桜は枝振りが良く、幹や枝にはびっしりと地衣類が着き、いかにも古木と言う風情がある。




 本堂。




 経堂。


 参道。本来はこの急峻な階段を上がって山門から境内に入る。


 山門(仁王門)。石段を上りきったところにある。寛文5年(1665年)に建てられたもの。


 龍が首を持ち上げているような桜の古木。


 先の方は美しく咲いているが、根元近い幹はほとんど空ろになっている。












              毘沙門堂の背後の山。緑と桜の取り合わせが美しい。
              
              


 
 
 




京都の花見(2) 観修寺

2010-04-14 09:36:21 | 身辺雑記
 醍醐寺を後にして、山科にある観修寺(かじゅうじ)に行った。観修寺は真言宗山階派の大本山である門跡(もんせき、もんぜき)寺院。門跡寺院とは、皇族や貴族が住職を務める特定の寺院のことである。醍醐天皇が生母藤原胤子の追善のため、昌泰3年(900年)に創立したもので、このため昔から皇室と藤原氏とのゆかりが深かったと言う。「かんしゅうじ」とも「かんじゅじ」とも呼ばれることがあるようだが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼び名にしていると言う。所在地は京都市山科区勧修寺仁王堂町で、この場合の町名は「かんしゅうじ」と読むので少々混乱する。

 寺域はそれほど広くはないが閑静である。ここも醍醐寺ほど多くはないが桜が美しかった。













宸殿。元禄10(1697)年に明正天皇の御殿を下賜されたもので、江戸時代初期の御所の建物と言う。


 庭園には面白いものがある。これは「臥龍の老梅」と言い、親子3代の梅の古木である。江戸時代の京都御所から移植された白梅で、根の部分が残っているのが親、大きな枯木が子、成長中のものが孫と言う。


 
 偃柏槙(はいびゃくしん)。樹齢750年と言われるヒノキ科の植物。京都市の巨樹名木の一つに数えられている古木と言う。しかし、葉は青々として美しく古木という感じはしないし、背丈も低いから巨樹という感じもしない。実は中央の樹と、それを波打つように囲んでいる枝葉も含めて1株の樹であるのが珍奇である。枝が伸びて幹の周囲を囲むようになったのか、構造はよく分からない。

        
 頭部だけ見えている石灯籠は水戸光圀の寄進と伝えられ、「観修寺型灯籠」と言われているそうだ。


 根の造型。偃柏槙もこのようにしてできたのかも知れない。


 氷室の池。観修寺の庭は勧修寺氷池園という池泉庭園だそうだ。その中心のこの池は平安時代には1月2日にこの池に張った氷を宮中に献上し、その厚さによって五穀豊穣を占ったと言われている。夏は蓮で知られているとのこと。





 
              山門に至る参道。白壁の築地塀と桜が美しい。

              
 

京都の花見

2010-04-13 12:24:35 | 身辺雑記
 いつもの顔ぶれ(Hr君とHg君夫妻)で京都の醍醐寺へ花見に出かけた。平日だがちょうど満開の時期で人出も多く、駐車場もいっぱいになるだろうと朝早めに出発した。久しぶり春らしい暖かい日だった。

 途中、万博公園のそばを通る。ここも桜の名所で、よくこれだけ植えたなあと思うほどのたくさんの桜の花が盛りで見事だ。


 9時半ごろには醍醐寺に到着した。駐車場には観光バスが多く駐車していて、人も非常に多かったが、幸い車を入れるスペースは残っていた。

 醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山で、貞観16(874)年に創建された。醍醐山の山上(上醍醐)や山下(下醍醐)に多くの伽藍や塔がある。多くは国宝や国の重要文化財に指定されていて、1994(平成6)年には世界文化遺産に登録されている。古くから桜の名所としても有名で、豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られている。境内の桜はちょうど満開の絶好の時期で見事だった。






 三宝院。国の特別史跡、特別名勝。その表書院は国宝で、襖絵は重要文化財。庭園は豊臣秀吉が基本設計したものと伝えられている。いずれも写真撮影は禁止となっていたので、ここでその様子を伝えることはできない。庭園はなかなか趣きのあるもので、せめてここだけでも撮影が認められたらと思った。


 三宝院のそばには大きな枝垂桜がある。




 三宝院を出て仁王門に向かう。






 仁王門。安置されている仁王像(重文)は、平安後期の長承3年(1134)に仏師勢増・仁増によって造立された。


 阿   吽

 仁王門を通ってしばらく行くと清瀧宮本殿と言う堂の境内に入るが、ここの枝垂れ桜も見事である。


 五重塔。国宝。醍醐天皇の菩提を弔うため、建造されたもの。高さは約38メートルで屋根の上の相輪は約13メートルあり、相輪が塔の三分の一を占め、安定感を与えていると言われている。

 
 金堂。国宝。延長4年(926)に創建されたが2度消失し、慶長5年(1600)に完成したのが現存のものである。












              



ご紹介

2010-04-12 10:23:42 | 身辺雑記
 私には今年70歳になる弟がいます。理工系の大学を出てある中堅の音響メーカーに勤めていたのですが、定年退職後は、大阪府池田市にある自宅の近所の里山風のフィールドで自然観察をしながら悠々自適の生活を送っています。若い頃から自然、生き物に関心があるとは思わなかったのですが、それが定年も間近になって、急に眠っていた興味が湧き上がったのか、自然観察を第2の人生のライフワークにして熱中しています。若い頃から穏やかな落ち着いた性格でしたから、根気のいる自然観察には向いたのかも知れません。

 観察記録を自分のサイトに出していますが、なかなか写真が良いので感心します。私は本来は生物学徒の端くれだったのですが、高校の教師から教育委員会の事務局に移って以来生物学からは遠ざかる一方で、最近では忘れてしまったことも多く、情けない状態に成り下がっています。弟は自分のフィールドワークだけでなく仲間を広げたり、図鑑を出したりして、ちょっと名を知られるようにもなっています。もう私は足元にも及びません。

 彼は一部のアマチュア写真家にあるような作為的な設定を嫌い、生き物のありのままの姿を撮ることを心がけていますので、なかなか面白いものがあると思います。一部をご紹介しておきます。

 エドヒガンとメジロ

 イタチの親子

 タマムシの産卵

 キジの雄叫び

 モリアオガエルの産卵

桜とクマバチ


 自然観察や生き物の生態に興味や関心がおありの方は一度覗いてやってください。このブログのブックマークの一覧の中の「生き物観察記」というのが弟のサイトです。クリックしますと閲覧できます。

麗江への旅(17) 落穂②

2010-04-09 12:41:52 | 中国のこと
高い標高
 麗江は標高が高い。古城は平均標高2,400メートルの高原にある。気圧が低いからか、初めに宿に着いたとき、客室に上がる急な階段では少し息切れがした。
 
 私は食べなかったが、食事で米飯を食べた海珠は、美味しくないと言った。米を炊くときに沸点が低く美味しく煮えないようだ。  

 紫外線が強いために現地人は顔色が黒い人が多い。海珠が「色が黒いと原住民だということが分かります」と言ったが、原住民という言い方がおかしかった。高地に住むチベット人に色が黒い人が多いのも同じことだろう。私も3日間の滞在で少し日焼けした。


ガイド
 一人旅にはガイドは欠かせない。旅慣れていて現地語を話せたらいいが、そうでないとやはりガイドは必要だ。ただ歩き回るのではなくいろいろと説明を聞きたい。以前ある卒業生から、中国を一人旅した知人の米国人の男性の話を聞いたことがあるが、陝西省の黄土高原の地下式住居である窰洞(ヤオトン)の住民の生活のことなど、滑稽な勘違いをしていることを得得と話していたようでおかしかった。やはりせっかく見知らぬ地を旅するなら、その地のことをできるだけ正確に知りたい。そうでないと早合点や独りよがりの解釈をして、時に偏見も生みかねない。

 今回の旅には広州からスルーガイドとして伍海珠が付き添ってくれたが、彼女は麗江は初めてだと言うのによく勉強していたし、宿の経営者などからいろいろ情報を聞いていて、初めてとは思えない良いガイド振りだった。落ち着いた穏やかな性格で安心できた。

 麗江2日目には、現地旅行社の張金娥(チャン・チンウ)さんが古城内や玉泉公園を案内してくれたが、日本語がとてもうまく、知識も豊富な、感じの良い女性だった。良いガイドに恵まれるのは嬉しいものだ。


 海珠とは初対面なのに2人ともずっと前からの知己のように気楽に話し合っていた。いつも思うことだが、中国人は初対面でもすぐに打ち解けて話すようで、その点は羨ましいと思う。

               玉堂春の花



旅を振り返って
  今回は初めてのことだったが体調が良くなかった。熱があるとか気分が悪いとかいうことではなく、出発前から強くなっていた坐骨神経痛に絶えず悩まされた。毎日鎮痛剤を使っていたが、古城内の凸凹の石畳を歩くのはかなり辛く、たびたび休憩した。こんなことも一人旅だからできることで、団体ツアーではこうはいかないだろう。海珠には気遣いをさせたが安心はできた。

  腰の痛みや脚の痺れに悩まされながらの3日間の麗江滞在で、落ち着いて街の様子を見ることができにくかったが、それだけにまた訪れたくなった。麗江はかなり観光化されているのが難点だが、今度来るなら路地裏などを訪ねてみたい。麗江はそのような気になる町だ。

  最後の日、広州白雲空港で海珠と別れる時には、海珠は最後まで私の体を気遣ってくれ、お医者さんに診てもらうのですよとか、散歩してよく体を動かしてと言ってくれた。良い人との出会いは言い得ないすばらしいものだと思いながら、広州を後にした。



               麗江の甍。丸瓦と平瓦の組み合わせ。
              


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麗江への旅(16) 落穂

2010-04-08 09:40:34 | 中国のこと
玉泉公園
 新城区にある公園。黒龍潭公園とも言う。公園は黒龍潭と言う池を取り囲むようにできている。黒龍潭は玉龍雪山から出た地下水が地表に出てできたものだ。玉龍雪山が晴れた日にはその姿が池の水面に映る。


 池のそばには泉があって、市民が容器を持って汲みに来ていた。


 変わった樹皮の樹。麻雀の樹と呼ばれていると言う。


 公園内には福国寺五風楼と言う文化財や、東巴文化博物館などがある。





トンパ風鈴
 古城区から新城区に出たところにある玉河広場で、たくさんの風鈴を吊るしてある一角があった。「東巴許願風鈴」と名づけて売っている。古城内にも売る店があった。舌にぶら下がっている板の一面にはトンパ文字が書いてあり、その裏の面に願い事を書くようになっている。日本の絵馬のようなものか。たくさん吊るしてある下を通りながら風鈴に触っていくと、心地よい澄んだ音が鳴る。






 麗江の街には犬が多い。門口に繋がれているものもあるが大方は自由に歩き回っている。中には小さな店で食事していると足元に寄って来るので、食べかけの骨を投げてやると咥えて道路に出て行って食べるのがいて、飼い犬か野良犬か分からないのもいる。忠義市場でも何匹も歩き回っていたが、皆穏やかで、目つきの悪いものはいない。 人間とうまく折り合っているのだろう。猫はほとんど見なかった。

 宿のコリーとプードル。とても仲がいい。宿に帰ると並んで出迎えるのが可愛い。















麗江への旅(15) 麗江バーバー

2010-04-07 09:28:00 | 中国のこと
 バーバー(粑粑)は麗江名物の食べ物である。粑(ba)は中日辞典によると方言で、「もち類の食べ物」とあるが、この「もち」は餅子(ピンズ)のことで、小麦粉などを練ってのばし焼いたものだ。麗江の街ではよく見かけることができる。

 普通に売っているのは円板状で、7,8ミリくらいの厚さがあり、最初の夕食の時に注文したが、少し甘味がある。


 これもよいのだが、最後の日の朝食で食べたものはもっと素朴な塩味でうまかった。「88号小吃(喫)店」という名前の庶民的な軽食の店で、店頭で老婦人が粑粑を焼いていた。


 練った小麦粉をのばして円板状にしてから焼く。




 唐辛子などの薬味をつけて食べる。なかなか美味しかった。


 粑粑と一緒に鶏豆豆漿という黒い豆乳とバター茶を注文した。粑粑も一緒で2人で20元(約280円)という安さ。


 バター茶(酥油茶スーヨウチャ)は、ヤクの乳から分離したバターと雲南産の普洱(プーアール)茶に岩塩を加え、専用の筒状の器具で攪拌してつくる。かすかにバターの香りがする塩味の飲料である。チベットではよく飲まれている。



麗江への旅(14) 麗江の郷土料理

2010-04-06 07:28:23 | 中国のこと
 麗江には火鍋料理が多いようだ。鶏肉を使ったもの、茸を使ったものなどいろいろあるが、どれも美味しい。

 飃香臘排骨火鍋。香りの良い燻製スペアリブの鍋という意味のようだ。

 
 野山薬火腿鶏と言う火鍋。烏骨鶏の肉が入っている。最後に鶏の血をゼリー状に固めたものを入れて煮る。煮上がったものはふかふかして、あまり美味いものではなかった。




 材料の茸。種類は豊富だが、乾燥したものを水に戻しているので食感はいいが、香りはない。


 茸のスープ。


 茸と野菜の炒め物。


 竹筒香肉。小さく切って竹筒の中に肉の入った米を詰め、蒸したもの。




 燻製の豚の三枚肉を薄く切ったもの。意外に脂っこくなく、香りが好くて美味しい。


 この肉は、写真のような豚から切り出したもの。体長1メートル以上の大きな豚を一頭丸ごと塩漬けにして燻製にしたものだと言う。珍しいものだが、目鼻の残っている顔を見ていると、何かしら哀れになってきた。


 同じような豚から切り出した燻製肉の料理。これも香りが好くて美味しい。



 料理はどれも味は好いが、古城内の店の料理は若干高い。やはり観光地だからか。野山薬火腿鶏は新城区の店で食べたが、87元(約1,000円)で比較的安かった。