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黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

【特集】中ノ島 #17

2005-10-27 02:19:59 | ・特集 中ノ島


軍艦島の中でもよく知られた場所や有名なエピソードの数々は、
軍艦島関係の老舗サイトさんを初め、私たちオープロジェクト
端島出身の方のサイトもで、沢山アップされているので、
このブログでは、あまり知られていない所を取り上げていきたいと思います。

かつて明治年間の僅かな期間に炭鉱として栄え、
その後軍艦島の姉妹島的な役割を担ってきた中ノ島の特集。
今回は内海側海岸線沿いに残る、何らかの穴の遺構です。


※画像はクリックすると拡大します。

画像は、前回の探索の時に撮影した、内海側海岸線の波打ち際に残存する、
何らかの穴を埋め戻したと思われる窪みです。
場所は半壊護岸の上に残る矩形石組遺構(【特集】中ノ島 #03の真中の画像)の、
すぐふもとの位置にあります。
この時は窪みよりも周囲のコンクリ製の枠に気を取られ、
それに焦点をあてて見ていたため、
画像では窪みの存在が余り明確にわかりませんが、
その後この窪みの位置が、中ノ島に2つあった竪坑のうちの、
新しいもの<新井坑>の位置にかなり近いことに気が付きました。






※画像はクリックすると拡大します。

画像は今回の探索で、
上記の石組矩形遺構のある半壊護岸の高さから撮影したモノです。
海岸レベルではわかりにくかった周囲のコンクリ製の枠と、
中央の穴を埋め戻したと思われる範囲がはっきり解ります。
近くでみると、窪んだ部分の周囲には、
明らかに岩礁を人工的に削った跡があり、
また窪みの径は、極めて目算ですが、
船着場近くの高台に残る旧井坑(【特集】中ノ島 #03の上段の画像)と、
ほぼ同じくらいの規模(やや小さめ)です。
また陸側の岩礁の中腹に、しっかり打ち込まれた鉄製の留め具がありました。
残念な事に、それ以外は何もみつからず、
また窪みも、かつてそれが深い穴だったかどうかを知る痕跡は、
どこにもありませんでした。

中ノ島の操業当時の写真をみると、
岩礁の右奥に櫓らしき構造物が見えますが、
おおまかに言って、この窪みの位置に匹敵します。
また岩礁との距離を考えると、かなり波打ち際に建っているように見えます。
これらの事から、この窪みは、中ノ島にあった、
第二の竪坑<新井坑>を埋め戻した跡ではないかと思われます。

※この島の全てのものがそうであるように、
この窪みに関しても、確かな証拠は何もありません。
今後、未見の写真や文献資料などがみつかり次第、
随時情報をお伝えしていきたいと思います。

>次の記事  >この特集を最初から読む

■シリーズ:中ノ島■ INDEX

【参考】蒟蒻煉瓦:小菅修船場

元軍艦島の島民の方々のブログ及びサイト
現役時代の中ノ島:炭鉱操業時と綺麗に整備されている緑地公園
究極の軍艦島サイト!:軍艦島や中ノ島の事を詳しく知りたい方はまずこちらへ!
            通常見られない数々の操業時の写真は圧巻!

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6 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (超問です。)
2005-10-30 10:00:00
同じ高さから見ると感じませんが、石組矩形遺構のある半壊護岸の高さから見ると、その穴がよくわかりますね。



私も、もしかしてもしかすると思います。
返信する
もしかしてもしかすると・・・ (廃墟徒然草)
2005-10-30 17:16:58
▼超問さんへ

操業当時のこの付近を撮影した写真がみつかると、

いろいろ解るととも思いますが、

それにしても中ノ島の操業時の写真は、

なんで海上や護岸からのものばかりなのでしょうね?

一枚くらい

「竪坑の上から」とか「新井坑の掘削」とか

あってもいいと思うんですが。

海底ケーブルの敷設工事の写真は島内からですが、

これはもう閉山した後ですし。

 

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Unknown (超問です。)
2005-10-30 20:35:48
私が知る限り、中の島もそうですが、端島も明治時代の開発時期の写真はありません。



高島は、グラバーが共同開発していた頃の写真が残っております。



以下は極限の酔論ですが、

高島は、グラバーさんがカメラマンを頻繁に呼んでいたのではないでしょうか。



中の島や端島はグラバーさんが絡んでいなくて、写真を撮る習慣がなかったのではないでしょうか。



もう一つは高島は円滑に三菱に引き継がれたが、端島や中の島は円滑に引き継がれず、資料の引き渡しもなかった。
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明治時代の写真 (廃墟徒然草)
2005-10-31 00:13:25
▼超問さんへ



なるほど、グラバーが関わっていたからこそ、

高島の古写真はけっこうあるのですね!

また、三菱への引き渡しの状態が、

資料の有無に関係しているというお話も、

ありがとうございます。

たしかに引き渡しがスムーズだったとしても、

過去のものは捨ててしまう可能性がありますね。



それにしても端島の明治時代の写真がないのは、

不思議ですね。

三菱の経営下になってから約20年もあるので、

なんらかの形で記録写真はあると思うのですが。

 

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あくまでも妄想です。 (超問です。)
2006-10-23 20:15:22
何の根拠も無く書かせて頂きます。



穴らしき周囲のコンクリ製の枠ですが、もしかしたら、以前は、この上に塀?垣根?が有ったのではないでしょうか。



旧の井坑には現在でも、コンクリ製の塀?垣根?が現存しますので、昔は、新の井坑にも有っても不思議ではないと思います。

ただ、新の井坑はあまりにも水面に近かったため、塀?垣根?の部分は崩れ、基礎の部分だけが残った。



最近、高島町閉町記念誌(長崎市との合併による閉町?)に載っている、昭和37年ぐらいの中の島の写真を見る機会が有りましたが、その写真を見るとそう思えてなりませんでした。(実際は妄想ですが!!)
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▼超問さんへ (廃墟徒然草)
2006-10-24 00:03:49
以前送らせて頂いたメイルにも書きましたが、

昭和37年の中ノ島の写真をみると、

内海側の黒い穴状の影を塀らしきものが囲っています。

その塀の基礎部分が、

この記事の両画像に写る枠の跡らしきものではないかと

私も思います。



ただ昭和37年の写真の穴らしき黒い影が、

本当に穴なのか?そしてそれが新井坑なのか?

正体を正確に知りたいと思います。

 

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