大都会に残る時の止まった場所、
新宿ノーザンウエスト・シリーズです。
これまでこのシリーズでは、
再開発によって消えゆく昭和の街を中心に、
西新宿3丁目~8丁目と北新宿2丁目をアップして来ましたが、
これらのほぼ真中の位置にありながら、
再開発計画が表立って発表されていないので、
今まで触れてこなかったのが西新宿4丁目です。
西新宿4丁目は、
パークハイアットのある3丁目と、
前回までアップして来た6丁目との中間にあるエリアで、
西新宿としては珍しく、高層ビルが1本もない、
低層の雑居ビルと住宅がひしめき合う雑然とした街です。
そんな一見色のない様に見える街が、
江戸西郊の風光明媚な場所として一大花街を形成し、
西新宿の中で最も色のある街だったとは、
今からは想像もつきません。
エリアの中心にある熊野神社の境内に、
この街のかつての様子が展示されているので、
まずはそれから見て行こうと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/0e/31ca62beeeb033be8a65d2148fb539ff.jpg?random=65c08f4318690f50870b0a7a5b68600d)
角筈村熊野十二所権現社 (江戸名所図絵) 熊野神社境内啓示物
図絵のタイトルにある角筈村とは、
新宿の西側を中心としたエリアのかつての地名で、
その村の中に淀橋や十二社といった字がありました。
現在では行政上は西新宿1丁目~8丁目というように、
無味乾燥な名称になっていますが、
実際にこのエリアを訪れると、
表札からバス停、ビル名や通り名など、
至る所に当時の町名や字名が残っています。
それにしても「角筈」とは変な単語ですね。
以前にシリーズでアップした、
都営角筈アパートもその名残の一つでした。
幼少の頃から知っていたので疑問に思いませんでしたが、
キーボードで何度も打っていると、改めて気になります。
新宿区教育委員会編纂『新宿区町名誌/地名の由来と変遷』には、
「角筈周辺を開拓した渡辺与兵衛の髪の束ね方が異様で、
角にも矢筈にも見えたことから、人々が与兵衛を角髪または矢筈と呼び、
これが転じて角筈となった」
とあります。
また地域情報サイト『マイプレ』の「町名の謎」を見ると、
「角筈とは真言宗で在俗の僧を呼ぶ言葉で、
当地の名主、渡辺与兵衛がその名で呼ばれていたのが起源」
と書いてあります。
どちらが本当か、また別の意味があるのかは分かりませんが、
どうやら渡辺さんが関わっている事には違いないようですね。
◆
また淀橋は、今はなき西新宿の巨大施設だった淀橋浄水場や
ヨドバシカメラでも良く知られますが、
この「淀橋」も、思えば変わった名前です。
同じく地域情報サイト『マイプレ』の「町名の謎」には、
「中野村や角筈村など地境の周辺4個所の意味の四所から淀橋」
とか
「これら四所の“余戸”が集って住んでいたから淀橋」
更には、
「この橋を“姿不見(姿みず)の橋”と呼んでいたのを、
縁起が悪いというので、水車のある風景が京都の淀に似ていることから、
淀橋と呼ぶようになった」
などと、幾つもの説があると書かれています。
◆
字名の「十二社」は「じゅうにそう」と読み、
熊野神社に隣接する通りやバス停にその名前が残っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/0e/fb3755e88c4076e2c6916b33e6bf0cc9.jpg?random=ddb92d2c2810a6de6dcb6c3225d39efb)
京王バスのバス停「十二社池ノ下」
これもまた上記の地名同様に変わった名称です。
熊野神社境内の掲示板にその由来が書かれてありました。
新宿熊野神社は、
中野長者と呼ばれた鈴木九郎が室町時代の1400年前後に、
故郷の熊野から十二所権現をうつし祀ったのが始まり
と書かれていますが、そのすぐあとに、
上述の渡辺与兵衛が1500年中頃の熊野の乱の時に、
熊野から流れて来てこの地に開闢したのかも、
とも書かれています。
その差100年以上の、極めてアバウトな開闢ですが、
熊野の権現様関連である事は、間違いなさそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/65/96d0cd3418774e82dd7276e21d3eaf70.jpg?random=7e57353485cbca7723c3db6b76835019)
現在の熊野神社
さらに
十二所権現社が十二社 (じゅうにそう) と呼ばれるようになったのは、
複数の神社を一つの建物に祀る造りを相 (双) 殿形式といい、
その相 (双) の発音が残って「じゅうにそう」となった、
などと書かれてあります。
ちなみに江戸時代の文献には、
「十二荘」「十二叢」「十二層」などの記述もあるそうですが、
「じゅうにそう」と呼ばれていた事は間違いないようです。
上記の中野長者、鈴木九郎の伝説にまつわる物件は、
また別の機会にアップするとして、
以前にアップした神田川支流暗渠で取り上げた、
長者第一號橋もまたこの伝説に因んだ橋。
鈴木さんが当時どんだけだったかが分かります。
この江戸名所図絵では、神社はわかるものの、
周囲の様子がよくわかりません。
そこで以前の記事でも取り上げた、
柏木角筈一目屏風の右半分を見てみます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/8f/35f7771e6d6a54aed945d912494267ba.jpg?random=17b39139459e29016b3b87f4e0471605)
柏木角筈一目屏風 右半分 新宿歴史博物館蔵より
図中央上方の霧がかかっているあたりが高層ビルの中心地、
その向こうが新宿駅で、
青梅街道と甲州街道がちょうどハの字に広がっている図です。
ちょうど中央に、
前回の記事で取り上げた、動物のいる細長い暗渠の前身、
神田上水助水掘りが単に「助水掘」として書かれ、
その下に十二社通り、
その少し右下を見ると渡辺家とかいていあります。
上述の渡辺さんですね。
そしてその右隣のこんもりした森が熊野神社。
さらにその右隣に十二社池と書かれてあります。
随分と前置きが長くなってしまいましたが、
次回はこの池を取り上げたいと思います。
◆ 消滅する街~新宿ノーザンウエスト~ ◆
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連載『新宿ノーザンウエスト~昭和と平成の交差点~』(vol.06~09)
vol.06
vol.07
vol.08
vol.09
新宿ノーザンウエスト・シリーズです。
これまでこのシリーズでは、
再開発によって消えゆく昭和の街を中心に、
西新宿3丁目~8丁目と北新宿2丁目をアップして来ましたが、
これらのほぼ真中の位置にありながら、
再開発計画が表立って発表されていないので、
今まで触れてこなかったのが西新宿4丁目です。
西新宿4丁目は、
パークハイアットのある3丁目と、
前回までアップして来た6丁目との中間にあるエリアで、
西新宿としては珍しく、高層ビルが1本もない、
低層の雑居ビルと住宅がひしめき合う雑然とした街です。
そんな一見色のない様に見える街が、
江戸西郊の風光明媚な場所として一大花街を形成し、
西新宿の中で最も色のある街だったとは、
今からは想像もつきません。
エリアの中心にある熊野神社の境内に、
この街のかつての様子が展示されているので、
まずはそれから見て行こうと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/0e/31ca62beeeb033be8a65d2148fb539ff.jpg?random=65c08f4318690f50870b0a7a5b68600d)
角筈村熊野十二所権現社 (江戸名所図絵) 熊野神社境内啓示物
図絵のタイトルにある角筈村とは、
新宿の西側を中心としたエリアのかつての地名で、
その村の中に淀橋や十二社といった字がありました。
現在では行政上は西新宿1丁目~8丁目というように、
無味乾燥な名称になっていますが、
実際にこのエリアを訪れると、
表札からバス停、ビル名や通り名など、
至る所に当時の町名や字名が残っています。
それにしても「角筈」とは変な単語ですね。
以前にシリーズでアップした、
都営角筈アパートもその名残の一つでした。
幼少の頃から知っていたので疑問に思いませんでしたが、
キーボードで何度も打っていると、改めて気になります。
新宿区教育委員会編纂『新宿区町名誌/地名の由来と変遷』には、
「角筈周辺を開拓した渡辺与兵衛の髪の束ね方が異様で、
角にも矢筈にも見えたことから、人々が与兵衛を角髪または矢筈と呼び、
これが転じて角筈となった」
とあります。
また地域情報サイト『マイプレ』の「町名の謎」を見ると、
「角筈とは真言宗で在俗の僧を呼ぶ言葉で、
当地の名主、渡辺与兵衛がその名で呼ばれていたのが起源」
と書いてあります。
どちらが本当か、また別の意味があるのかは分かりませんが、
どうやら渡辺さんが関わっている事には違いないようですね。
◆
また淀橋は、今はなき西新宿の巨大施設だった淀橋浄水場や
ヨドバシカメラでも良く知られますが、
この「淀橋」も、思えば変わった名前です。
同じく地域情報サイト『マイプレ』の「町名の謎」には、
「中野村や角筈村など地境の周辺4個所の意味の四所から淀橋」
とか
「これら四所の“余戸”が集って住んでいたから淀橋」
更には、
「この橋を“姿不見(姿みず)の橋”と呼んでいたのを、
縁起が悪いというので、水車のある風景が京都の淀に似ていることから、
淀橋と呼ぶようになった」
などと、幾つもの説があると書かれています。
◆
字名の「十二社」は「じゅうにそう」と読み、
熊野神社に隣接する通りやバス停にその名前が残っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/0e/fb3755e88c4076e2c6916b33e6bf0cc9.jpg?random=ddb92d2c2810a6de6dcb6c3225d39efb)
京王バスのバス停「十二社池ノ下」
これもまた上記の地名同様に変わった名称です。
熊野神社境内の掲示板にその由来が書かれてありました。
新宿熊野神社は、
中野長者と呼ばれた鈴木九郎が室町時代の1400年前後に、
故郷の熊野から十二所権現をうつし祀ったのが始まり
と書かれていますが、そのすぐあとに、
上述の渡辺与兵衛が1500年中頃の熊野の乱の時に、
熊野から流れて来てこの地に開闢したのかも、
とも書かれています。
その差100年以上の、極めてアバウトな開闢ですが、
熊野の権現様関連である事は、間違いなさそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/65/96d0cd3418774e82dd7276e21d3eaf70.jpg?random=7e57353485cbca7723c3db6b76835019)
現在の熊野神社
さらに
十二所権現社が十二社 (じゅうにそう) と呼ばれるようになったのは、
複数の神社を一つの建物に祀る造りを相 (双) 殿形式といい、
その相 (双) の発音が残って「じゅうにそう」となった、
などと書かれてあります。
ちなみに江戸時代の文献には、
「十二荘」「十二叢」「十二層」などの記述もあるそうですが、
「じゅうにそう」と呼ばれていた事は間違いないようです。
上記の中野長者、鈴木九郎の伝説にまつわる物件は、
また別の機会にアップするとして、
以前にアップした神田川支流暗渠で取り上げた、
長者第一號橋もまたこの伝説に因んだ橋。
鈴木さんが当時どんだけだったかが分かります。
この江戸名所図絵では、神社はわかるものの、
周囲の様子がよくわかりません。
そこで以前の記事でも取り上げた、
柏木角筈一目屏風の右半分を見てみます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/8f/35f7771e6d6a54aed945d912494267ba.jpg?random=17b39139459e29016b3b87f4e0471605)
柏木角筈一目屏風 右半分 新宿歴史博物館蔵より
図中央上方の霧がかかっているあたりが高層ビルの中心地、
その向こうが新宿駅で、
青梅街道と甲州街道がちょうどハの字に広がっている図です。
ちょうど中央に、
前回の記事で取り上げた、動物のいる細長い暗渠の前身、
神田上水助水掘りが単に「助水掘」として書かれ、
その下に十二社通り、
その少し右下を見ると渡辺家とかいていあります。
上述の渡辺さんですね。
そしてその右隣のこんもりした森が熊野神社。
さらにその右隣に十二社池と書かれてあります。
随分と前置きが長くなってしまいましたが、
次回はこの池を取り上げたいと思います。
◆ 消滅する街~新宿ノーザンウエスト~ ◆
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連載『新宿ノーザンウエスト~昭和と平成の交差点~』(vol.06~09)
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