また、台風(19号)が来ています。
昨日の日曜日、孫の通う高校の文化祭に行ってきました。
孫は、軽音楽部に所属していますが、なんと、ステージで弾けるようにヴォーカルをやっていました。
昨日、10月12日(旧暦)は、松尾芭蕉の命日だそうです。
松尾 芭蕉(寛永21年 –元禄 7年10月12日)は、江戸時代前期の俳諧師で、現在の三重県伊賀市の出身。
名は忠右衛門宗房といい、俳号を 初め実名宗房、次いで桃青、そして芭蕉(はせを)と改めた、とあります。
芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の
一人である。
俳聖芭蕉翁
(ウイキペディアより)
更にウイキペディアには、
9月に、門人の2人の不仲を取り持つため、奈良から生駒 暗峠を経て大坂へ赴いたが、うまく行かず、
この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉は一時は回復したが、29日夜に下痢が
酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿り、10月5日に御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、
門人たちの看病を受けたが、8日、「病中吟」と称して
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
を詠み、10日には遺書を書き、そして12日申の刻(午前4時頃)、息を引き取った。と記されています。
芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り
岐阜の大垣まで旅した紀行文 『おくのほそ道』 がある。
<おくのほそ道>
芭蕉が、弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日に江戸深川のを出発し
行く春や鳥啼魚の目は泪
を矢立の初めとして、日光、陸前、陸中、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前を通り、美濃大垣まで、
全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間の紀行文です。懐かしいその序文を、再記してみます。
『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老を
むかふる物は、日々旅にして 、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、
片雲の風にさそはれて、漂泊の 思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、
や ゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきに
あひて取もの手につかず、もゝ引の破をつヾり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先
心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
草の戸も住み替る代ぞひなの家
彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かに みえて、
上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。
千じゆと云所にて 船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
行く春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすゝまず。 人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、
見送なるべし。 』
折角のいい雰囲気のところで、またまた無粋な字句をハサミ、誠に申し訳ありません。
実は、今年の夏、東北を旅しましたが、期せずしてランチの会の友人もほぼ同じ時期に東北旅行で、
果たしてランチの会では、その話に花が咲きましたが、この会の別の友人が、今回の二人の東北旅行に、
“新・奥の細道” と題した “地図” を作成して持参してくれたのでした。
新・奥の細道
芭蕉は、平泉あたりから、山形、立石寺の方に回って行きますが、この新・奥の細道は、そのまま、
青森まで進むのです。
ランチの会では、ひと時 芭蕉の奥の細道談議に花が咲いたのでした。
明日から、蓼科農園に行ってきます。今回は、来る収穫祭の準備などで・・。
蓼科農園には、台風の影響、無事でしたか。
豊かな収穫祭をお祈りいたします。
私のブログへの暖かいコメントいつも有難うございます。
ではではお元気で。
蓼科・・それも農園は標高1000m強ありますので、山の気候のようでもあり、初日の午後は急激に気温が下がり寒かったです。 翌日は曇り時々小雨・・という、天候はよくありませんでしたが、今回の準備作業と玉ねぎの定植は完了しました。
台風の影響は、殆ど感じませんでした。黒豆の“鹿対策”の ネット囲いも無事でした。