スーダンの「ロストボーイズ(ガールズ)」とは、1980年代後半に起きた南北スーダンの地域紛争によって一人ぼっちで故郷を離れざるをえなかった多くの子どもたちのことだ。第二次スーダン内戦は20年以上も続き、何百万人もが殺害され、捕虜になり、生まれ育った部族の村を追い出された。好戦的な文化と宗教や民族の違いという要因が村に受け継がれ、大虐殺をもたらすのだろう。
1980年代後半には、戦争によって3万人以上の子どもたちが孤児となり、生まれ育った村から逃げ出し、身の安全を求めてエチオピアへ向かった。「村は夜になると攻撃されました。敵が大型の火器やマシンガンを容赦なく連射するので、子どもたちや動物はとてもおびえていました。」ロストボーイズの代表は、カクマでこのように語った。
1991年に、エチオピアの独裁者メンギスツ・ハイレマリアム政権がエチオピア人民革命民主戦線によって倒されると、ロストボーイズは銃口を突きつけられエチオピアから強制的に追い出された。荒れ狂うギロ川を渡るときには、たくさんの罪のない未成年者が命を落とした。子どもたちの旅はとても酷いもので、たくさんの少年少女がその途中で亡くなっている。ケニアにたどり着くまでには、何ヶ月も、ときには一年近くもかかったのだ。
1991年後半、最初のロストボーイズがカクマ難民キャンプに到着した。1992年にはもっとたくさんの子どもたちがやってきた。しかしそれでも、到着したのは1万2000人程度で、残りの子どもたちは野生動物に食べられてしまった。
ロストボーイズの大半は未成年の子どもたちだ。そして、年長者たちは幼い子どもたちの親代わりをするようになる。子どもたちは、オイル缶でできた粗末な小屋に一緒に住み、汚れた水を分かち合い、死んだ仲間を埋葬した。そのときに築かれた団結精神は、それぞれが大人になり父親や母親となってカクマという荒地に閉じ込められて暮らす現在でもまだ残っている。
カクマのロストボーイズ居住地域での話のなかでKANEREが注目したのは、恐ろしい暴力行為を逃れ、ライオンやワニの餌食になることなく、いくつかの川をかろうじて渡った子どもたちの多くは、当時まだ4歳から12歳だったということだ。子どもたちの半数以上が、この惨劇を生き延びることができなかった。何とか命拾いした子どもたちのなかには、海外に安全な避難場所を見つける者もいた。しかし他の人たちは、ここカクマ難民キャンプで世間から忘れ去られたままなのだ。このキャンプができたのは24年も前のことだ。
【写真】カクマに取り残されているロストボーイズ
KANEREはカクマに住むたくさんの元ロストボーイズのグループにインタビューを行ったが、その話はとても痛ましい内容だった。十代後半の生存者ジェイコブ・デングは、自らの苦悩を次のように語ってくれた。「両親が殺されたときは4歳でした。おじさんと生き別れになって他の子どもたちと生活していました。1987年、僕たちはエチオピアのPunyido難民キャンプに集まりました。でも、そのキャンプで大勢の仲間が死んでしまいました。エチオピアへ向かうのもケニアへ向かうのも同じぐらい危険でした。現在僕は、カクマでひとりぼっちで生活しています。もう何十年もここに住んでいるのだから、難民たちもケニア市民と認めてもらってもいいと思います。南スーダンのことよりケニアのことの方が詳しいんですよ。今は、人生に何の希望もありません」
別のロストボーイ、ジェイコブ・ラッチは、南スーダンからエチオピアへ逃げてきたときに自分が何歳だったか覚えていないと言う。「みんな情緒不安定でした。居場所も、故郷のスーダンも、未来もないし、親もいないんですから。その他に話すことはありません」
「1993年にルンベクにある生まれ育った村が爆撃されて、南スーダンから逃げ出しました。家族の中で生き残ったのは自分だけです。1997年にカクマにたどり着いて未成年者として登録しました。それ以来まだここにいます。故郷と呼べる場所はありません。」とサンティノ・デングは話した。
サンティノ・ウバチは、1987年にエチオピアに逃れたロストボーイズの一人だ。1991年に南スーダンのパチャラに戻ったが、そこでおじが亡くなって今度はカクマで別のロストボーイズに加わった。当時彼はJoint Voluntary Agency(JVA)にアメリカ合衆国へ移住するための申請をして順番待ちリストに載せられていたが、9月11日に手続きが打ち切られてしまった。しかし、記録簿には何の決定も書かれていない。彼はこう語る。「生きている限り、いろいろな心配事が頭をよぎります。だって故郷がなくなったんですよ。」
【写真】体験を語るロストボーイたち
クオト・アッタクは恐怖に満ちた体験を話してくれた。彼は1988年に南スーダンを逃れてエチオピアへ向かった。そこの生活は南スーダンよりもましだった。それからパチャラに戻ったが、心が安らぐことはなかった。そして部族同士の争いの後で、彼は助けを求めてカクマへやってきた。援助機関に世話になっていることは十分認めながらも、今の生活は問題だらけだと言う。彼は、ロストボーイズの一人だったのだから、アメリカへの移住が認められるべきだと主張している。しかし彼の手続きは打ち切られた。「待てといわれてから、ずっと待っている。人生の方向も定まらないし、希望もないよ。」
インタビューの間、ロストボーイズの多くは、不安定な生活の中で解決されることのない悲惨な状況が悲しいと、胸の内を語ってくれた。「自分の人生で起きることを、何一つ変えることができません。私たちは完全に他人に左右されているのです」と、ガブリエル・ギャラングはKANEREに話した。
アコン・エマニュエルは、ケニア難民として自分たちの人権が侵害されていると強く感じていた。「カクマキャンプを作った自分たちが、まだここで暮らしているんです」1991年5月、彼は仲間の子どもたちと、川をいくつも渡り森へ逃げ込んだ。1992年2月、彼らはゴングルという街にたどり着き、赤十字に救出された。そこには、戦況が激しくなる中でカポエタに向かう人たちをたくさん載せた100台ほどのトラックが集結していた。「1992年にカクマに到着しました。数年後に恒久的な解決策へのプロセスが始まると、カクマの生活は良くなっていきました。そして、仲間の多くがカナダやアメリカに移住していきました。しかし自分はできませんでした。話せばとても長くなります。まだ、みんなとても若かった」
「1992年にカクマに到着した時、自分がいくつだったかは分かりません。このキャンプで学校に通いました。そして、友だちの多くが移住していきました。しかし、2008年になると担当職員たちは手続きを中止して、私たちに南スーダンへ帰るように言いました。私たちはそれを拒みました。帰っても、両親もいなければ安全でもありませんでしたから。2010年にUNHCRは私たちに待つように言いました。2011年には私たちの移住について検討してくれると言ったんです。しかし、何年待っても少しも進展はありませんでした。その後、失望したロストボーイズが自殺するようになったのです。カクマから海外に移住した人たちがカクマやスーダンにいる家族に仕送りをしてその生活を支えるようになってからは、カクマにいるロストボーイズたちの自殺は特に多くなりました」ジョン・マシはこう説明してくれた。
タバン・マルウェイは、1992年にカクマにたどり着いた大勢のロストボーイズのひとりだ。村を出てエチオピアに向かい、それから南スーダンに帰り、その後カクマキャンプに落ち着いた。彼は、死と隣り合わせの人生を過ごしてきた。アメリカへの移住を約束されたロストボーイズの一人だったが、15年経っても何も起こらなかった。「カクマでは待つだけの生活さ。何も起こらないのに待っている。僕たちは、取り残されて忘れ去られてしまった」と、タバンは語る。
ゴク・デングは言う。「UNHCRの再定住事務所は腐敗している。僕たちの名前のリストやファイルを紛失してしまった。本当は何があったか分からないけどね。誰か僕たちのファイルをきちんと確認してくれないかなと思うよ。何かを食べ続けながら死ぬのを待っているだけなのさ」
ロストボーイズの多くは、恒久的な解決を見つけることができた。一方でその他の人たちは、失望を抱えながら今もカクマにとどまっている。ロストボーイズのグループから入手した情報によると、少なくとも3人が不運な人生を嘆いて自殺している。また、キャンプ内の病気によって12人以上のロストボーイズが死亡している。いまだに答えの出ない最大の問題は、なぜ今でもカクマにロストボーイズがいるのかということだ。
1980年代後半には、戦争によって3万人以上の子どもたちが孤児となり、生まれ育った村から逃げ出し、身の安全を求めてエチオピアへ向かった。「村は夜になると攻撃されました。敵が大型の火器やマシンガンを容赦なく連射するので、子どもたちや動物はとてもおびえていました。」ロストボーイズの代表は、カクマでこのように語った。
1991年に、エチオピアの独裁者メンギスツ・ハイレマリアム政権がエチオピア人民革命民主戦線によって倒されると、ロストボーイズは銃口を突きつけられエチオピアから強制的に追い出された。荒れ狂うギロ川を渡るときには、たくさんの罪のない未成年者が命を落とした。子どもたちの旅はとても酷いもので、たくさんの少年少女がその途中で亡くなっている。ケニアにたどり着くまでには、何ヶ月も、ときには一年近くもかかったのだ。
1991年後半、最初のロストボーイズがカクマ難民キャンプに到着した。1992年にはもっとたくさんの子どもたちがやってきた。しかしそれでも、到着したのは1万2000人程度で、残りの子どもたちは野生動物に食べられてしまった。
ロストボーイズの大半は未成年の子どもたちだ。そして、年長者たちは幼い子どもたちの親代わりをするようになる。子どもたちは、オイル缶でできた粗末な小屋に一緒に住み、汚れた水を分かち合い、死んだ仲間を埋葬した。そのときに築かれた団結精神は、それぞれが大人になり父親や母親となってカクマという荒地に閉じ込められて暮らす現在でもまだ残っている。
カクマのロストボーイズ居住地域での話のなかでKANEREが注目したのは、恐ろしい暴力行為を逃れ、ライオンやワニの餌食になることなく、いくつかの川をかろうじて渡った子どもたちの多くは、当時まだ4歳から12歳だったということだ。子どもたちの半数以上が、この惨劇を生き延びることができなかった。何とか命拾いした子どもたちのなかには、海外に安全な避難場所を見つける者もいた。しかし他の人たちは、ここカクマ難民キャンプで世間から忘れ去られたままなのだ。このキャンプができたのは24年も前のことだ。
【写真】カクマに取り残されているロストボーイズ
KANEREはカクマに住むたくさんの元ロストボーイズのグループにインタビューを行ったが、その話はとても痛ましい内容だった。十代後半の生存者ジェイコブ・デングは、自らの苦悩を次のように語ってくれた。「両親が殺されたときは4歳でした。おじさんと生き別れになって他の子どもたちと生活していました。1987年、僕たちはエチオピアのPunyido難民キャンプに集まりました。でも、そのキャンプで大勢の仲間が死んでしまいました。エチオピアへ向かうのもケニアへ向かうのも同じぐらい危険でした。現在僕は、カクマでひとりぼっちで生活しています。もう何十年もここに住んでいるのだから、難民たちもケニア市民と認めてもらってもいいと思います。南スーダンのことよりケニアのことの方が詳しいんですよ。今は、人生に何の希望もありません」
別のロストボーイ、ジェイコブ・ラッチは、南スーダンからエチオピアへ逃げてきたときに自分が何歳だったか覚えていないと言う。「みんな情緒不安定でした。居場所も、故郷のスーダンも、未来もないし、親もいないんですから。その他に話すことはありません」
「1993年にルンベクにある生まれ育った村が爆撃されて、南スーダンから逃げ出しました。家族の中で生き残ったのは自分だけです。1997年にカクマにたどり着いて未成年者として登録しました。それ以来まだここにいます。故郷と呼べる場所はありません。」とサンティノ・デングは話した。
サンティノ・ウバチは、1987年にエチオピアに逃れたロストボーイズの一人だ。1991年に南スーダンのパチャラに戻ったが、そこでおじが亡くなって今度はカクマで別のロストボーイズに加わった。当時彼はJoint Voluntary Agency(JVA)にアメリカ合衆国へ移住するための申請をして順番待ちリストに載せられていたが、9月11日に手続きが打ち切られてしまった。しかし、記録簿には何の決定も書かれていない。彼はこう語る。「生きている限り、いろいろな心配事が頭をよぎります。だって故郷がなくなったんですよ。」
【写真】体験を語るロストボーイたち
クオト・アッタクは恐怖に満ちた体験を話してくれた。彼は1988年に南スーダンを逃れてエチオピアへ向かった。そこの生活は南スーダンよりもましだった。それからパチャラに戻ったが、心が安らぐことはなかった。そして部族同士の争いの後で、彼は助けを求めてカクマへやってきた。援助機関に世話になっていることは十分認めながらも、今の生活は問題だらけだと言う。彼は、ロストボーイズの一人だったのだから、アメリカへの移住が認められるべきだと主張している。しかし彼の手続きは打ち切られた。「待てといわれてから、ずっと待っている。人生の方向も定まらないし、希望もないよ。」
インタビューの間、ロストボーイズの多くは、不安定な生活の中で解決されることのない悲惨な状況が悲しいと、胸の内を語ってくれた。「自分の人生で起きることを、何一つ変えることができません。私たちは完全に他人に左右されているのです」と、ガブリエル・ギャラングはKANEREに話した。
アコン・エマニュエルは、ケニア難民として自分たちの人権が侵害されていると強く感じていた。「カクマキャンプを作った自分たちが、まだここで暮らしているんです」1991年5月、彼は仲間の子どもたちと、川をいくつも渡り森へ逃げ込んだ。1992年2月、彼らはゴングルという街にたどり着き、赤十字に救出された。そこには、戦況が激しくなる中でカポエタに向かう人たちをたくさん載せた100台ほどのトラックが集結していた。「1992年にカクマに到着しました。数年後に恒久的な解決策へのプロセスが始まると、カクマの生活は良くなっていきました。そして、仲間の多くがカナダやアメリカに移住していきました。しかし自分はできませんでした。話せばとても長くなります。まだ、みんなとても若かった」
「1992年にカクマに到着した時、自分がいくつだったかは分かりません。このキャンプで学校に通いました。そして、友だちの多くが移住していきました。しかし、2008年になると担当職員たちは手続きを中止して、私たちに南スーダンへ帰るように言いました。私たちはそれを拒みました。帰っても、両親もいなければ安全でもありませんでしたから。2010年にUNHCRは私たちに待つように言いました。2011年には私たちの移住について検討してくれると言ったんです。しかし、何年待っても少しも進展はありませんでした。その後、失望したロストボーイズが自殺するようになったのです。カクマから海外に移住した人たちがカクマやスーダンにいる家族に仕送りをしてその生活を支えるようになってからは、カクマにいるロストボーイズたちの自殺は特に多くなりました」ジョン・マシはこう説明してくれた。
タバン・マルウェイは、1992年にカクマにたどり着いた大勢のロストボーイズのひとりだ。村を出てエチオピアに向かい、それから南スーダンに帰り、その後カクマキャンプに落ち着いた。彼は、死と隣り合わせの人生を過ごしてきた。アメリカへの移住を約束されたロストボーイズの一人だったが、15年経っても何も起こらなかった。「カクマでは待つだけの生活さ。何も起こらないのに待っている。僕たちは、取り残されて忘れ去られてしまった」と、タバンは語る。
ゴク・デングは言う。「UNHCRの再定住事務所は腐敗している。僕たちの名前のリストやファイルを紛失してしまった。本当は何があったか分からないけどね。誰か僕たちのファイルをきちんと確認してくれないかなと思うよ。何かを食べ続けながら死ぬのを待っているだけなのさ」
ロストボーイズの多くは、恒久的な解決を見つけることができた。一方でその他の人たちは、失望を抱えながら今もカクマにとどまっている。ロストボーイズのグループから入手した情報によると、少なくとも3人が不運な人生を嘆いて自殺している。また、キャンプ内の病気によって12人以上のロストボーイズが死亡している。いまだに答えの出ない最大の問題は、なぜ今でもカクマにロストボーイズがいるのかということだ。
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