一般的な経済理論をアフリカの状況にいかに適用できるかを検討した結果、著者は、アフリカは乏しい資源、歴史の浅さ、植民地支配の遺産、或いは国際的な干渉により苦しんでいるのではなく、アフリカ自身が発展に対して消極的な態度を取るために苦しんでいるのだという結論に達した。
我がアフリカ大陸のスナップ写真を撮って、他の大陸のものと並べて比較してみると、我が大陸が繰り返し格闘し続けている問題に、涙を流さずにはいられない。アフリカのほぼすべての国々は独立している、という幻影に取りつかれているが、実際には、程度の差こそあれ他国からの支援に依存している。我々の対外的負債は極端に大きく、一人当りの収入は極端に小さく、その不均衡は惨憺たるものだ。生活水準は極めて低く、全ての基礎指数は厳しく、道路はみすぼらしく、病院には薬がなく、教育水準も劣悪、政府は卑劣で堕落していて、戦争、飢え、窮乏は日常茶飯事だ。これらすべてが、たった一つの要因から拡がっていく。それが貧困だ。そこで、疑問が生じる。他の大陸の国々は豊かなのに、なぜ我々は貧しいのか?
他の国々が豊になっていったころ、我々は、何をしていたのか? よその国のように豊かになる努力をしてきたか? よその国の人々はスーパーマンで、我々は並みの人間だとでもいうのだろうか?
こうした疑問への答えを探しているうちに、私は2人の経済学者の著作に出くわした。2人とも、アフリカの貧困問題の複雑さを解明しようとして失敗していた。アダムスミスとロストウだ。アダムスミスは、我々の貧困を資源の乏しさに起因するとし、アフリカで不足している資源に他の国々は恵まれているから豊なのだと言う。しかしながら、この主張をアフリカの枠組みに当てはめてみると、なぜ莫大な資源を保有するDRC(コンゴ民主共和国)のような国が今でも非常に貧しく、誇れるような鉱物資源が全くない日本のような小国が、世界でも有数の豊な国なっているのかという大きな疑問が起きる。従って、アダムスミスの結論は、アフリカの貧困を説明するには不十分である。
ロストウは、この貧困をアフリカの歴史の浅さに起因するとしている。彼が言うには、アフリカの国々よりも歴史の古い国は豊である。ただし彼等も、今のアフリカの国々と同様に、建国して間も無い頃には貧しかった。しかし、この説も、アフリカに当てはめて見ると、2000年以上もの歴史のあるエジプトが、なぜ今でも貧しく、オーストラリア、ニュージーランド、カナダのように、建国してからまだ100年にも満たない国々が豊かなのだろうか。
結局のところ、アフリカの貧困は、経済の問題でも、宗教的な問題でもない。我々が貧しいのは、資源が不足しているからでもなく、国が若いからでもない。我々は、自らが貧しいから、貧しいのだ。我々アフリカ人は、発展することに対して消極的であり、発展を促進するような倫理観に本質的に欠けている。誠実さに欠け、無責任で、豊かで成熟した社会に必要な原理原則に従う意志がない。我々の国を発展させていこうという意欲がないのだ。我々の態度は貧しく、貧困から抜け出してやるんだという熱い想いがない。その代わりに、ここから抜け出させてくれと他人に期待している。外部の支援なしに自力で発展していくことに思い至らない。自ら犠牲になってやるという意志がなく、その代わりに、歴史的要因や教育システムへの不満で時間を浪費し、我々の大陸の発展に行き詰まりをもたらしたといって豊かな国の人々に責任を転嫁する。
自分達で発展していこうという意志のない人々に手を差しのべようという奇特な人はいない。他人に目を向けて時を無駄にする代わりに、今はまさに、我々のいじましい態度に決別し、発展に向けて行動する時だ。さもなければ、我々はいつまでも貧しいままである。
我がアフリカ大陸のスナップ写真を撮って、他の大陸のものと並べて比較してみると、我が大陸が繰り返し格闘し続けている問題に、涙を流さずにはいられない。アフリカのほぼすべての国々は独立している、という幻影に取りつかれているが、実際には、程度の差こそあれ他国からの支援に依存している。我々の対外的負債は極端に大きく、一人当りの収入は極端に小さく、その不均衡は惨憺たるものだ。生活水準は極めて低く、全ての基礎指数は厳しく、道路はみすぼらしく、病院には薬がなく、教育水準も劣悪、政府は卑劣で堕落していて、戦争、飢え、窮乏は日常茶飯事だ。これらすべてが、たった一つの要因から拡がっていく。それが貧困だ。そこで、疑問が生じる。他の大陸の国々は豊かなのに、なぜ我々は貧しいのか?
他の国々が豊になっていったころ、我々は、何をしていたのか? よその国のように豊かになる努力をしてきたか? よその国の人々はスーパーマンで、我々は並みの人間だとでもいうのだろうか?
こうした疑問への答えを探しているうちに、私は2人の経済学者の著作に出くわした。2人とも、アフリカの貧困問題の複雑さを解明しようとして失敗していた。アダムスミスとロストウだ。アダムスミスは、我々の貧困を資源の乏しさに起因するとし、アフリカで不足している資源に他の国々は恵まれているから豊なのだと言う。しかしながら、この主張をアフリカの枠組みに当てはめてみると、なぜ莫大な資源を保有するDRC(コンゴ民主共和国)のような国が今でも非常に貧しく、誇れるような鉱物資源が全くない日本のような小国が、世界でも有数の豊な国なっているのかという大きな疑問が起きる。従って、アダムスミスの結論は、アフリカの貧困を説明するには不十分である。
ロストウは、この貧困をアフリカの歴史の浅さに起因するとしている。彼が言うには、アフリカの国々よりも歴史の古い国は豊である。ただし彼等も、今のアフリカの国々と同様に、建国して間も無い頃には貧しかった。しかし、この説も、アフリカに当てはめて見ると、2000年以上もの歴史のあるエジプトが、なぜ今でも貧しく、オーストラリア、ニュージーランド、カナダのように、建国してからまだ100年にも満たない国々が豊かなのだろうか。
結局のところ、アフリカの貧困は、経済の問題でも、宗教的な問題でもない。我々が貧しいのは、資源が不足しているからでもなく、国が若いからでもない。我々は、自らが貧しいから、貧しいのだ。我々アフリカ人は、発展することに対して消極的であり、発展を促進するような倫理観に本質的に欠けている。誠実さに欠け、無責任で、豊かで成熟した社会に必要な原理原則に従う意志がない。我々の国を発展させていこうという意欲がないのだ。我々の態度は貧しく、貧困から抜け出してやるんだという熱い想いがない。その代わりに、ここから抜け出させてくれと他人に期待している。外部の支援なしに自力で発展していくことに思い至らない。自ら犠牲になってやるという意志がなく、その代わりに、歴史的要因や教育システムへの不満で時間を浪費し、我々の大陸の発展に行き詰まりをもたらしたといって豊かな国の人々に責任を転嫁する。
自分達で発展していこうという意志のない人々に手を差しのべようという奇特な人はいない。他人に目を向けて時を無駄にする代わりに、今はまさに、我々のいじましい態度に決別し、発展に向けて行動する時だ。さもなければ、我々はいつまでも貧しいままである。
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