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聖書のみことば と 祈り
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説教「あなたのために祈った」旧・ホセア6:1-3/新・ルカ22:31-34

2007-11-18 18:53:22 | 主日礼拝説教
説教「あなたのために祈った」旧・ホセア6:1-3/新・ルカ22:31-34/讃312

22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

■わたしの試みの日
今朝、少し早く起きまして、西公園の殉教碑というのを見て参りました。1624年の広瀬河畔の殉教については、少し存じていたのですが、今回改めて知ることができました。
殉教者たちは、キリストを否めば助かるわけですが、寒い冬の日に、川の中に連れて行かれ、水責めによって殉教していったと記されていました。今日の福音書の御言葉で言いますと、厳しい試みにふるわれてもなお、神への信頼に生きたわけです。

今朝私たちに与えられた福音書の御言葉を見てまいりますと、サタンが神にペトロを試みることを願い出て、許しを得た。 そしてペトロは試みられ、ついにペトロは、三度キリストを知らないと告げたわけです。
今日に生きる私たちは、殉教や、最後の晩餐の夜のペトロのような試練に直面することはないかもしれませんが、やはり私たちにも、皆それぞれに人には言えないような試みや、苦しみ、痛みがあって、麦がふるいの上でふるわれるように、自らの力ではもうどうすることも出来ないような無力さの中でふるわれる。そのような事が時として起こるわけです。
そういたしますと、ここにありますペトロの出来事は、ほかならない私自身の、身につまされる出来事となって参ります。

この朝、私たちに与えられた主の御言葉に共に聞きたいと思います。
ルカによる福音書22章の31節。新約聖書154頁です。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った。」

御言葉は、サタンがペトロを試みることを神に願い、それが聞き入れられたというのです。そこで私たちは疑問を抱くわけです。
聖書の神は、愛の神である。わたしたちを愛して、いつも共に居てくださる神であるはずなのに、どうして試みからお守り下さらなかったのか?! 助けて下さらなかったのかと思ったりするわけです。ここにいる私たち自身の試みの日に、苦しみ、悩みの日に、神はどうして私を、このような試みに、あわせられるのだろうかと問うのです。なぜこのような苦しみを背負って生きていかなければならないのかと問うわけです。けれども、今日の聖書の箇所にもその答えは書いてありません。よくわからないのです。

■ヨブの試み
旧約聖書を読んで参りますと、詩編の一つ前に「ヨブ記」という書物があります。そこにヨブという人物が出て参ります。ペトロとよく似た体験をするわけです。ヨブは正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きてきた。沢山のものに恵まれ、国一番の富豪であったと記されています。ところが、サタンはこのヨブを試みることを神に願い出るのです。神はサタンにヨブを試みることを、お許しになりました。

ヨブ記を見ますと1章8節に、神はヨブを「私のしもべヨブ」と呼んでおられるのです。神が「わたしのしもべヨブ」と呼んで下さる存在でありました。同じように、ここにいる私たちも、洗礼によって確かに、天の父の「子」とされた存在であります。

ところが、そういうヨブ、ペトロ、ほかならない私たち一人一人が試みにあう。神様を信じて生きているのに、どうしてこうも試みがあるだろうか、神はどこに行ってしまわれたのだろうかと思うのです。
私たちは、試みの中で、また長い間その試みが続くほどに、もがき苦しみます。けれども、ヨブはやはり「神のしもべ」に変わりない。ペトロはキリストの弟子であることに変わりなく、私たちもまた、それでも神の子であることに変わりありません。
試みの中にあってもただ一つ確かなこと。それは、神がサタンの手に、ペトロやヨブ、またここにいる私たちを、決して渡されたのではないということです。神は、試みをお許しになられたのではありますが、その愛する者を、決してその手から離されたのでも、見捨てられたのでもないということです。試みの只中にあっても、わたしたちの存在は神の手の中にある。神の許しの中にある。
ですから、たとえ試みの中にあったとしても、むなしく痛めつけられるのではない。ヨブはその試みを通して、神に守られ、なお神への信頼を篤くしました。ヨブにとっては、すべてから打ち捨てられたかのような日々でありましたけれども、それによって、ヨブが神の僕であることが再確認されたのであります。
ペトロも同じです。キリストを裏切り、外に出て激しく泣きます。しかし、自らの罪の姿に気づき、キリストの愛の眼差しに触れて悔い改め、またペトロも神の僕、まことの宣教者として立ち上がって行くのです。

今朝は、この福音書に記されていますペトロについて、特に取り上げてみたいと思うのです。

■救われるべきは自分だった
ミラノの司教をされていましたマルティーニという方の本に、「宣教者を育てるキリスト」というものがあります。その中で今日の福音書の箇所に出てきますペトロの姿についてこのように言われています。
マルティーニは、ここに出てくるペトロの問題というのは、「兄弟たちを力づけてやりなさい」という自分の役割にばかり注目して、「あなたのために祈った」というキリストの言葉を聞こうとしなかったことだと書いています。

主イエスはペトロに、あなたがたは試みられるが、「あなたの信仰がなくならないように祈った」と、仰るわけです。ところが、その主イエスに対してペトロは「主よ。御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言います。何とも勇ましい言葉です。言い換えますならば、「イエス様、わたくしはあなたがどこに行くにも、あなたと共にいます。たとえ牢にも一緒に参ります。あなたの身に危害が及ぶようなことがあれば、私が全力でお守りいたします。心配しないで下さい。恐れないで下さい。」このような内容のことであります。ペトロは熱心だったのです。真心からこういう態度をとったのでしょう。ところが、ペトロの間違いというのは、ペトロのほうが主イエスをお助けしようとしていたという所にあります。ペトロが主イエスを助けようと、救おうと思い、自分の方こそキリストに助けられ、救われなければならないことを忘れていたのです。
つまり、ペトロは主イエスをお助けしたかったのですが、救われなければならなかったのは、他ならないペトロ自身であることに気づいていなかったのでした。
自分に頼ることには沢山の魅力があります。自分の実力も達成感も感じます。自分で自分の人生を支えているという満足感もあります。
この日までのペトロは、自分で主に従えると思っていた。自分の力量をみて、主イエスに従っていけると思っていた。ですから、私はたとえ死んでもあなたに従っていきますというようなことを言うわけです。自分の力量をみて、自分の努力で、熱心さで信仰が建て上げられると思い込んでいた。
ところがそこが大きな間違いだったわけです。
このペトロの勇ましい告白、ペトロの自己依存は、ものの見事に崩れ落ちるのです。ペトロはこの告白の僅か数時間後には、キリストを知らないと三度主イエスを否むのです。
キリストを信じ、従うというのは、自分の忠誠の問題ではありません。ペトロの人生、キリスト者、更には主に召しだされた者の歩みというのは、自分の力ではなく、主イエスのとりなしによってこそ立ち続けることが出来るものなのです。
その意味で、ペトロは自分の務め、自分の役割や力ばかりを見て、主イエスの「あなたのために祈った」という御言葉を聞こうとしていなかったと言えますでしょう。

■どん底の恵み
34節の御言葉にお眼をお留め下さい。
「イエスは言われた。『ペトロ。言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。』」
ペトロは、たとえ死んでもあなたに従っていきますと言った直後、三度主を知らないと否むわけです。ペトロも、まさか自分がここまで落ちるとは思っていなかった。言ってみるならば、人生のどん底を体験したわけです。これ以上に落ちるところはない所まで突き落とされたわけです。ヨブの場合とは違う人生のどん底を体験したのです。
しかし、そのどん底で、まさしく主イエスが言われたように、麦がふるいの上でふるわれるにまかせ、もはや自分の力では立つことも起きることもできない、命の抜けきったようなどん底の中で、ペトロは気づいたのです。
もはや、この自分は、神の前で、愛されるに任せ、赦されるに任せ、救われるに任せるほか、何も出来ないことを知るわけです。それが宣教者ペトロ、神に召し出されたペトロの新しい土台となったのです。

イエスのために死ぬことさえいとわないと言ったペトロでしたが、実は主イエスの方こそ、ペトロのために死んで下さった。信頼し、身を任せるべきは、ほかならないこの私自身なのです。

クリスチャンとは、何の試みも痛みもないそういう安穏な人生をいく人々のことではありません。たとえ、そういう試みや問題の中にあっても、今日のペトロのように、主イエスの祈りに支えられ、たとえ倒れても、失敗しても、再び立ち上がっていく。私たちはそういう歩みを歩むことが出来る。
今日の福音書の御言葉をみますと、信仰者がふるわれる、そしてことによると主イエスを裏切るほどに失敗することがあることがよくわかります。しかし、失敗したとしても、話しはそれで終わらないのです。キリストのとりなしの祈りによってそこから立ち上がり、「立ち直ったなら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と、主がそういうペトロに、私たちに新しい務めを委ねてくださるのです。言うなれば、主イエスは、失敗者の前に、将来を描き出して下さったのです。
キリスト者に求められているのは、決して失敗しないことではなくて、たとえ失敗したとしても、試みの中にあったとしても、再びそこから立ち上がっていく、そのことであります。そしてそのための一切を、主イエスがなして下さったのです。

■十字架のキリストによって
「あなたのために祈った」そう仰せになる主イエスは、ゲッセマネへと向かい、そして十字架へと向かって行かれました。主イエスのとりなし、その究極は、まさにあの十字架にあります。自らの罪のために、神のもとを離れ、ただ滅びに向かうしかなかった私たちの為に、天の父は御子イエス・キリストを世に遣わし、キリストは自ら十字架を負って、わたしたちの罪の身代わりとなられました。
私たちは、私たちの悲惨の姿を自分の中に見て、自分は何と惨めな存在なのだと悲嘆に暮れます。自らの惨めさを自分の中に見て絶望しそうになるのです。
しかし、あの十字架の上に、そこに苦しむ主イエスの御顔を仰ぐとき、そこにこそ私たちの苦難、絶望の姿がまざまざと示されているのであります。もはや私たちの身代わりに主イエスがそれらすべてを負って死なれた、そして復活された!!
私たちを絶望から解き放ったのは、神の愛、しかも独り子をたもう程に愛したもう天の父の熱情以外の何ものでもないのです。
主イエスの十字架!! 主イエスのこの苦しみの只中にこそ、この私たちが復活の朝へと向かう希望が示されていることを知るのです。
ドイツのある牧師が自らの愛するものを壮絶な仕方で亡くしました。そのしばらく後にラジオでこのような説教をしました。「すべての試みに潜む危険は、わたしたちが諦めてしまうことです。苦難と悲しみの中にあっても、神が将来への道を開いて下さる。過去の自分しか見ることのできない私たちを、将来へと向かわせて下さるのです。」
まさに、私たちの救いのための一切を、主イエスは成して下さいました。ですから、私たちは、無力さの只中でも、人生のどん底でも、ただこの主イエスに信頼し、愛されるに任せ、赦されるに任せ、救われるに任せるのです。たった一人だと思っていた私たち、誰も私のことなどわかってくれないと思っていた私たちのそばに、主キリストが立っておられるのです。

■それでも召された私たち
主イエスは、自分を裏切る、失敗をする、そういうペトロの弱さをご存知の上で、なおペトロを召し、主の弟子とされたのです。ここにいる私たち一人一人も同じです。神はそれでもなお、そういうあなたを、私たち一人一人を、お召しになったのです。まさに、神の一方的な恵みによって選ばれたということであります。
わたしたちは、弱く、貧しく、情けない、嵐がくるとたちどころに揺れて進まない舟のような存在です。けれども、そういう自分も神の子とされた。もはや、キリスト者の生は、神の御手の中にしっかりと握られているのです。神は決してその手をお放しにならないのです。

■教会に生きる私たち
この朝、私たちは教会に集い、主の日の礼拝を共に捧げております。教会は、この主イエスの祈りによって再び立ち上がった者たちの集いです。わたしたちは一人で空しく生きているのではありません。主イエスは教会へと私たちを迎えて下さったのです。もし私たちが神への讃美を歌えない悲しみの時にも、教会は神への讃美を歌い、祈れないその日にも、教会は神の民のために、あなたのために、祈りを捧げ続けているのです。わたしたちは、そういう共同体の中に生かされる恵みを頂いているのです。何と心強いことでしょうか。

あなたのために祈った。わたしたちの歩みは、このキリストの祈りに支えられ、再び立ち上がる希望を頂いた歩みなのです。
主は皆さんと共におられます。主が下さる平安のうちに、この所から立ち上がって行きましょう。

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