ろごするーむ

聖書のみことば と 祈り
・・・クリスマス説教はカテゴリからどうぞ・・・

説教「聖霊の力により、望みに溢れるように」

2009-06-04 12:06:14 | 主日礼拝説教
【聖書】ローマの信徒への手紙5章1~5節、15章13節

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」
神のみ言葉は、希望の源である神が、聖霊の力によって、つまり神ご自身の働きによって、神ご自身にかけて、わたしたちを希望に溢れさせて下さる、望みに溢れさせてくださるというのです。
ペンテコステの日、弟子たちは一つに集まって祈っていました。そのとき使徒言行録二章の御言葉の通り、聖霊が教会に注がれて、弟子たちは喜びに溢れて、力強い歩みをはじめます。
聖霊降臨は、希望の源である神ご自身が、弟子たちのうちに来て、留まって下さると言うことです。希望の源である神、希望そのものである神が、わたしたちの内側に留まって下さる。そのことによってわたしたちの存在が、希望に変えられていく。それが聖霊の力によって望みに溢れる、聖霊の力によって与えられた希望なのです。

人間は希望がなければ生きることは困難であると誰もが知っているのではないでしょうか。大きな夢や希望をもって生きて行こうと言われます。その反面、どんな大きな希望を抱いても、叶うか叶わないか判らない。希望はまるで馬が勢いよく走るために絶えず目の前にぶら下げられているニンジンであるかのように、走っても走っても手に入れることができない。そんなものであるかのように語られることもあります。しかし、希望とはそういうものでいいんだという人もいます。フランスのカミュという人は「望とは、あきらめにも等しいものである」と言います。別の人は「希望は頼りにならないものであるが、我々を人生の終わりまで運ぶことくらいはしてくれる。」と言いま
す。それが希望だというのです。

では聖書はどういう希望を語ってきたのでしょうか。パウロは自らの記した手紙の中で、繰り返し希望について語ります。それはその希望が、パウロのキリストを信じる信仰において、重要な位置を占めているからです。パウロにとって、希望とは福音そのものでした。十字架にわたしたちを贖ってくださった神、信じる者の希望である神が、聖霊によってわたしたちのうちに宿って下さる。それによって、彼方にあったものが、内なるものとされた。彼方にあった希望が、わたしの内側に宿るものとされた。その意味で、希望は信じるものにとって福音そのものであるわけです。

聖霊の力によって望みに溢れるというのは、ちょっと神様のお助けをいただくということではありません。希望の源であり、わたしたちの希望そのものである神が、わたしたちの内に留まって下さる。わたしたちの存在を丸ごと希望に変えてくださる。あなたの存在が希望だといわれるのです。聖書は、大きな夢を持てば、人生をしっかりと生きていくことができるのだから、大きな夢を持とうと言っているのではありません。
わたしたちが希望に溢れて生きることが出来るのは、大きな夢を持っているからでも、大きな幻を抱いたからでもありません。
わたしたちは、様々な希望を抱いて生きています。成功への希望であったり、健康を手に入れるという希望や、あることを達成するという希望もあります。しかし、そういう希望は達成してしまえばもはや希望ではなくなってしまうのです。では希望とは一体何でしょうか。パウロはどこに、何に希望を見出していたのでしょうか。それは神ご自身に他なりませんでした。

パウロにとって希望とは、将来に起きてくる幸せな出来事でも、夢でもありませんでした。パウロの希望は神ご自身でした。なぜなら、この神こそ、パウロを、そして信じる者を、絶えず配慮し、最善をなし、どんな時にも、どんな境遇においても、しっかりと支え守って下さる方であるからです。どんな希望よりも、どんな夢よりも、神にある希望こそ、それは神ご自身こそと言っても良いと思いますけれど、わたしたちを力づけ、励まし、生きる力を与えるのです。だから、パウロは、神は「希望の源である」と、そう語るのです。

さて、教会では洗礼が行われますけれど、あの洗礼というのは、単に水を注ぐだけ入会の儀式なのではありません。神が、受洗者に聖霊を注いでくださるのです。聖霊があなたと共にいてくださる。それが洗礼式の恵みです。そこには、希望の源である聖霊があなたと共に居て下さるという確かな事実があるのです。聖霊があなたの内にあって、あなたを守り、導いてくださるのです。
聖霊を受けていると言うのは、信仰の浮き沈みで判断するようなものではありません。気分が良い充実した信仰生活が送られているから、聖霊はわたしと共におられるとか、最近は祈れないし悪いことばかりだから、聖霊はわたしと共におられないんじゃないかと、そういうことでは決してないのです。
洗礼を与ったわたしたちは、いつか聖霊が注がれ、いつか希望を持って生きていけるというのではないのです。既に、あの洗礼の水が注がれたとき、聖霊を受け、わたしたちの希望そのものである神が、わたしたちの内に宿って下さる。わたしたちの存在が希望へと変えられている。それが洗礼ということです。ですから、キリスト者というのは、希望する民とされているのです。神の恵みによって、希望を内に宿して生きていく、希望そのものとされているのです。

パウロは、「希望はわたしたちを欺くことがありません」と語ります。口語訳聖書では、「希望は失望に終わることがない」と訳されていました。どうして希望は失望に終わらないのでしょうか。断じて失望されることのない神が、とこしえからとこしえにあなたと共に居て下さるからです。あなたのいのちは、あなたの現在、過去、未来は神の手の中にある。だから、希望は失望に終わることがない。希望はわたしたちを欺くことはないのです。
 わたしたちの生活を支えるものは何でしょうか。幸せな時だけではない、苦しみの時に、絶えがたい痛みの中にあるときに、あなたを支えるものは何でしょうか。積極的な考え方を持つ事でしょうか。良いことを考えることでしょうか。それとも諦めることでしょうか。そうではないのです。パウロを支えたもの、それは神ご自身でした。
 この神は、わたしたちを愛し、罪人の滅びることではなく、救われることを望み、わたしたちの苦しみではない、幸いを望んでくださる神です。神が、あなたの救われることを、あなたの幸いを、あなたの生きることを望んでくださっている。聖霊を注いで、あなたの存在をまさに希望そのものに造り替えてくださっているのです。キリスト者の生は、そこに守られているのです。
喜びのときだけではありません、病の中にあっても希望が与えられ、苦しみの中にあっても希望が与えられているのです。それはどうしてでしょうか。 
わたしたちの唯一の希望である神ご自身が、聖霊によって、あなたと共に、あなたの内側に、あなたの全存在を守る仕方で、あなたと共に居て下さるからです。だから、あなたは勇気を持って、希望をもって生きていくことができるのです。神の愛が、あなたをしっかりと支えていてくださるからです。


最新の画像もっと見る