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説教「ザアカイ」ルカ19:1-10

2007-09-10 08:27:56 | 主日礼拝説教
■説教「ザアカイ」 ルカによる福音書19章1節-10節

聖書 ルカによる福音書19章1節-10節
「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。』しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』
イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」【日本聖書協会・新共同訳聖書】

                                                      

「ザアカイ」わたしたちに強烈な印象をもって迫ってくる一人の人物です。今日開かれている福音書、ルカ19章の1節以下には、このザアカイの記事が四つの福音書の中でただ一箇所だけ記されています。

わたしたちの人生には様々な出会いがあり、皆それぞれにその出会いの中で今日まで生きてきたと言えるでしょう。その出会いというのは、通りすがりや、顔見知りということとは違います。

ザアカイはその日、イエスがザアカイの町に訪れるという噂を聞きつけるのです。ザアカイは興味本位でしょうか、それとも今の自分のあり方を変えて頂きたかったのでしょうか、いずれにしましてもこのイエスに会いたいと、出て行くわけです。
しかしあまりの人の多さに、背の低いザアカイは主イエスのお姿を見ることができません。思いついたザアカイはイチヂク桑の木に駆け登ります。道の向こうから、群集がこちらに向かってきます。その真ん中に、あの主イエスのお姿が見えたのです。
ザアカイの胸は高鳴ります。イエスを見るというザアカイの願いは叶えられたわけです。ところが、主イエスは、ザアカイの登っている木の真下に来ると、ザアカイを見上げて言われます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(5節)
ザアカイは驚きます。「あなたの家に泊まりたい」と、主イエスの御声を聞いたのです。ザアカイは急いで降りてきて、主イエスを家に迎えます。
しかし、その出来事を見ていた人々はつぶやきます。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」(7節)

ここに、主イエスを見た人々の、二つのあり方が見えてきます。
ザアカイは、主イエスを見て自分は罪人だと気づいた。それで「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(8節)と、言うわけです。ところが、それとは正反対に、多くの群集は「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」(7節)つまり、罪人の家に入っていく男、あのイエスも所詮罪人だと言うわけです。
イエスを見て、ほかならないこの自分自身が罪人だったのだと気づいたザアカイ、同じようにイエスを見て、あいつも罪人だと思った群集。ここには何と大きな差があるでしょうか。

主イエスに出会うというのは、自分の内側からまるごと変えられていく、そのような出会いです。ザアカイの生涯はまるごと変えられたのです。しかし、横目でイエスを見ていた多くの人々は何も変わらないのです。

主イエスはザアカイに仰せになります。「今日、救いがこの家を訪れた。」(9節)
当時ザアカイのしていた仕事「徴税人」というのは、いまの日本の税務署であるとか税金の仕事とは全く違う意味をもっていました。ローマの属国とされたイスラエルの国で、人々から税金を取り立ててその税金をローマ帝国に納める。ユダヤの人々からは、自分たちの民族を裏切る者として、律法に背く罪人として嫌われていました。ローマに税金をおさめるというのは、自分たちの神以外の神に仕えるという偶像礼拝とも等しい罪だと考えていたからなのです。そういう背景がありますので、ザアカイは人々から徹底的に疎外され、嫌われていたわけです。
そういうザアカイの所に、主イエスが来られた。「今日救いがこの家を訪れた」と聖書は語るわけです。

このエリコの町を通られた主イエスは、どこへ向かって旅をしておられたのでしょうか。それはまさに十字架であります。主イエスの旅は十字架へと向かっているのです。
ザアカイ、それはあの人この人のことではなくて、ほかならない私のことです。「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」とは、木の上に登って、ちょっとイエスの姿を見てみようと思っていた私たち一人一人に語りかけられた言葉にほかなりません。
主イエスは「今日救いがこの家を訪れた。」との御言葉につづいて、このように言われました。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(10節)
主イエスは、失われたもの、そうですザアカイを捜すために、捜して救い出すために、ザアカイの所に来られたのです。

ザアカイが悔い改めたから、主イエスが来られ、救いを下さったというのではありません。主イエスが来られたからこそ、ザアカイは自分の本当の姿、罪に気づくことが出来、悔い改めることができたのです。私たちの行為が救いをもたらせるのではありません。ザアカイが人々に施しを与えると言ったから救われたのではないのです。主イエスが私たちのところに来てくださった!そこに救いがあるのです。

私たちの重荷、罪、それらを身代わりに自ら背負い、十字架に死なれる主イエスが、ザアカイを招いておられる。私たちを招いておられるのです。ザアカイは一人ぼっちでした。ザアカイは、社会の片隅で疎外されて生きてきた一人だったのです。しかし、そういうザアカイの所に主イエスがこられた。ザアカイはもう一人ではないのです。主イエスと共に歩む者とされたのです。
ザアカイの生き様は、まるごと変えられました。主イエスとの出会いが、ザアカイにいのちを与えたのです。

出会いというのは、わたしたちの生き様を変えます。ザアカイの町をたずねられた主イエスは、今日も私たちのもとをたずねて言われます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(5節)

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