先日、ある短編集を読んだ。
小説である。
読後にゾクッとする感じがあった。
この感覚は、幾度か経験したことがあるが、考察してみた事がなかったので、
この感覚の正体は一体なんだろうと考えてみた。
その短編集にちりばめられていたのは
「普通では考えられない」事態である。
しかし、その事態を引き起こすあるいは遂行する登場人物は、
異常な人物としては描かれない。
その人は、ごく冷静に、ごく自然に、
世界においていかなるほころびも生じさせずに、
日常を重ねている。
つまり、一貫して普通の人物として描かれる。
だが最後には、その人物の生きる世界の「普通」が
他の登場人物の生きる「普通」を凌駕する。
つまり、知らないうちに「普通でないもの」が日常に忍び込んでいて、
それが私たちの日常の中でどんどん増殖し、気づけば、
そちらが取って代わっていたという話である。
ここからゾクッとする感じが生まれていた。
その感覚がとても残ってしまった。
何が私をゾクッとさせたのか、説明して、スッキリしたいものである。
1つは、よりどころとしている「普通」という基準が
曖昧になることからくる世界の揺らぎであると考える。
私たちは、何となく「普通」(つまりは正常)という基準を
色々なことに対して有しているのであり、
それを皆で共有して、安定した世界を生きる事が出来ている。
もしも、自分たちの予測や理解を超えた不思議な事柄に出会うと、
「例外」あるいは「異常」というラベルで整理しようとする。
「異常」とは、英語でいうとabnormalである。
abnormalのnormalとは、norm(規格、標準)を語源とした言葉である。
それに、「離れて」「外側の」「反対側の」の意味の接頭辞ab-がついている。
同時に、uncommonもunusualも「異常」である。
これらは、「普通ならばだいたいこれくらい」という事についての基準があって、
それを逸脱しているという意味である。
「異常」あるいは「普通じゃない」といった言葉を用いる時、
私たちは何らかの基準によって、
その不思議な事柄は、自分たちの慣れ親しんだ事柄とは「違う」
ということを共有し、やはり「普通」という基準を維持し続けている。
だが、実際には、「普通」vs「普通じゃない、あるいは異常」の基準は
そんなに厳密ではない。
特に、その境目は非常に曖昧であり、自分が「普通」と思っている世界は
さほど確固とした境界を持っているわけではない。
この事に改めて気付くと、「普通」だと見なしていたものが、
本当に「普通であるかどうか」、実に怪しくなってきて、
安定していた世界が揺らぐのである。
もう1つは、こちらがむしろ大きな要因だと思うのだが、
自分がコントロールの主体であるという
信念が崩れることから来る世界の揺らぎである。
コントロールの主体とは、直接的に支配できるという意味でなくてもいい。
出来事の進展をある程度予測できたり、調整できたりしているという感覚である。
これは誰もが持っていると思う。
それが崩れるのである。
しかも、知らない間にその侵食はじわじわと進んでおり、
気づいたときにはもう取り返しのつかないレベルにまで無力化されており、
主体の剥奪がかなり進んでいたという状況に陥っていたわけである。
幼い頃、ドラえもんで読んだ話が比喩になると思う。
暑い夏のある日。
のび太がいつものごとく宿題や家の手伝いやジャイアンにつき合うための
野球やらを嫌がって、ドラえもんに泣きつく。
そして、ドラえもんは道具を出して、のび太の「影」からのび太の人形を作る。
そしてその「影」はのび太の代わりに宿題や草むしりや野球をやってくれる。
のび太は喜んで影に色んなことをやらせて王様気分になっているのだが、
次第に影がのび太の言うことを聞かなくなり、自分勝手な行動をし始める。
ドラえもんがあわててやってくる。
あの影は、30分(だったかな?)以内に影に戻さないと大変なことになる、と。
もうすでに30分経っていた。
いつしか影は、のび太にはコントロールできなくなっていた。
そして、気づくと、実際ののび太の姿が少し影を帯びており、
このままでは、影と自分との立場が入れ替わることを知らされる。
そういった話であった。
この話を読んだときのいいようのない恐ろしさ。
その類のものである。
いうなれば、「主体性の所在」の揺らぎが、「ゾクッ」とさせていたのだと思う。
私たちは、日常、ごく当たり前に持っている感覚というものがあって、
それが私たちの当たり前の日常を支えている。
当たり前の日常は、ジグソーパズルにたとえることができるかもしれない。
それを構成しているピースはいっぱいあって、
そのうちいくつかはパズルにおさまることができなかったり、
違うところにはまっていたり、裏返しになっていたりと、
おかしなところがあるかもしれない。
だがおそらく、ある程度パズルの形を維持できる程度には、
ある程度以上のピースが然るべきところにおさまっている。
だから、私たちは、その「当たり前の日常」というジグソーパズルを、
いくつかいびつなところがあるにせよ、
細かく検証せずに、その中に住むことが出来ている。
だがふとした時に、そのパズルの中のピースの歪みを見つけ、違和感を抱き、
改めて自分がそのパズルを眺めてみたとする。
すると、そのパズルは、自分が仮定していたものとは全く違う、
全体像を維持できていない混沌としたものであることに気づき、
愕然とするのである。
自分の生きている現実が虚構であったと気づく驚きとはまた違う。
その場合ならば、生きていた世界を失うが、別の世界へ飛躍することが出来る。
それとは違い、世界が絶対的に存在しなかったという驚きであり、
「世界がない世界」を自分が生きるという事を自覚することからくる衝撃だと思う。
世界は揺らぐが、真実を覗き見たような興奮を覚える。
だがそれでもなお、何かしら秩序を持った世界が存在しているように感じ、
そしてその中で自分が主体として生きることができるという感覚を保持しながら
日常を変わらず進めている自分がいる。
何とも理屈を越えたたくましさであり、しぶとさである。
私のどこに、上記の混沌はおさまっていったのだろう。
それともその混沌は、実は驚くべき事ではなく、
すんなりと私の中に取り込まれていったのだろうか。
なんだか、説明しても説明しても、分からないことは尽きず、
結局、スッキリするのは難しいようであった。
小説である。
読後にゾクッとする感じがあった。
この感覚は、幾度か経験したことがあるが、考察してみた事がなかったので、
この感覚の正体は一体なんだろうと考えてみた。
その短編集にちりばめられていたのは
「普通では考えられない」事態である。
しかし、その事態を引き起こすあるいは遂行する登場人物は、
異常な人物としては描かれない。
その人は、ごく冷静に、ごく自然に、
世界においていかなるほころびも生じさせずに、
日常を重ねている。
つまり、一貫して普通の人物として描かれる。
だが最後には、その人物の生きる世界の「普通」が
他の登場人物の生きる「普通」を凌駕する。
つまり、知らないうちに「普通でないもの」が日常に忍び込んでいて、
それが私たちの日常の中でどんどん増殖し、気づけば、
そちらが取って代わっていたという話である。
ここからゾクッとする感じが生まれていた。
その感覚がとても残ってしまった。
何が私をゾクッとさせたのか、説明して、スッキリしたいものである。
1つは、よりどころとしている「普通」という基準が
曖昧になることからくる世界の揺らぎであると考える。
私たちは、何となく「普通」(つまりは正常)という基準を
色々なことに対して有しているのであり、
それを皆で共有して、安定した世界を生きる事が出来ている。
もしも、自分たちの予測や理解を超えた不思議な事柄に出会うと、
「例外」あるいは「異常」というラベルで整理しようとする。
「異常」とは、英語でいうとabnormalである。
abnormalのnormalとは、norm(規格、標準)を語源とした言葉である。
それに、「離れて」「外側の」「反対側の」の意味の接頭辞ab-がついている。
同時に、uncommonもunusualも「異常」である。
これらは、「普通ならばだいたいこれくらい」という事についての基準があって、
それを逸脱しているという意味である。
「異常」あるいは「普通じゃない」といった言葉を用いる時、
私たちは何らかの基準によって、
その不思議な事柄は、自分たちの慣れ親しんだ事柄とは「違う」
ということを共有し、やはり「普通」という基準を維持し続けている。
だが、実際には、「普通」vs「普通じゃない、あるいは異常」の基準は
そんなに厳密ではない。
特に、その境目は非常に曖昧であり、自分が「普通」と思っている世界は
さほど確固とした境界を持っているわけではない。
この事に改めて気付くと、「普通」だと見なしていたものが、
本当に「普通であるかどうか」、実に怪しくなってきて、
安定していた世界が揺らぐのである。
もう1つは、こちらがむしろ大きな要因だと思うのだが、
自分がコントロールの主体であるという
信念が崩れることから来る世界の揺らぎである。
コントロールの主体とは、直接的に支配できるという意味でなくてもいい。
出来事の進展をある程度予測できたり、調整できたりしているという感覚である。
これは誰もが持っていると思う。
それが崩れるのである。
しかも、知らない間にその侵食はじわじわと進んでおり、
気づいたときにはもう取り返しのつかないレベルにまで無力化されており、
主体の剥奪がかなり進んでいたという状況に陥っていたわけである。
幼い頃、ドラえもんで読んだ話が比喩になると思う。
暑い夏のある日。
のび太がいつものごとく宿題や家の手伝いやジャイアンにつき合うための
野球やらを嫌がって、ドラえもんに泣きつく。
そして、ドラえもんは道具を出して、のび太の「影」からのび太の人形を作る。
そしてその「影」はのび太の代わりに宿題や草むしりや野球をやってくれる。
のび太は喜んで影に色んなことをやらせて王様気分になっているのだが、
次第に影がのび太の言うことを聞かなくなり、自分勝手な行動をし始める。
ドラえもんがあわててやってくる。
あの影は、30分(だったかな?)以内に影に戻さないと大変なことになる、と。
もうすでに30分経っていた。
いつしか影は、のび太にはコントロールできなくなっていた。
そして、気づくと、実際ののび太の姿が少し影を帯びており、
このままでは、影と自分との立場が入れ替わることを知らされる。
そういった話であった。
この話を読んだときのいいようのない恐ろしさ。
その類のものである。
いうなれば、「主体性の所在」の揺らぎが、「ゾクッ」とさせていたのだと思う。
私たちは、日常、ごく当たり前に持っている感覚というものがあって、
それが私たちの当たり前の日常を支えている。
当たり前の日常は、ジグソーパズルにたとえることができるかもしれない。
それを構成しているピースはいっぱいあって、
そのうちいくつかはパズルにおさまることができなかったり、
違うところにはまっていたり、裏返しになっていたりと、
おかしなところがあるかもしれない。
だがおそらく、ある程度パズルの形を維持できる程度には、
ある程度以上のピースが然るべきところにおさまっている。
だから、私たちは、その「当たり前の日常」というジグソーパズルを、
いくつかいびつなところがあるにせよ、
細かく検証せずに、その中に住むことが出来ている。
だがふとした時に、そのパズルの中のピースの歪みを見つけ、違和感を抱き、
改めて自分がそのパズルを眺めてみたとする。
すると、そのパズルは、自分が仮定していたものとは全く違う、
全体像を維持できていない混沌としたものであることに気づき、
愕然とするのである。
自分の生きている現実が虚構であったと気づく驚きとはまた違う。
その場合ならば、生きていた世界を失うが、別の世界へ飛躍することが出来る。
それとは違い、世界が絶対的に存在しなかったという驚きであり、
「世界がない世界」を自分が生きるという事を自覚することからくる衝撃だと思う。
世界は揺らぐが、真実を覗き見たような興奮を覚える。
だがそれでもなお、何かしら秩序を持った世界が存在しているように感じ、
そしてその中で自分が主体として生きることができるという感覚を保持しながら
日常を変わらず進めている自分がいる。
何とも理屈を越えたたくましさであり、しぶとさである。
私のどこに、上記の混沌はおさまっていったのだろう。
それともその混沌は、実は驚くべき事ではなく、
すんなりと私の中に取り込まれていったのだろうか。
なんだか、説明しても説明しても、分からないことは尽きず、
結局、スッキリするのは難しいようであった。