先日、福島大学でお世話になった小野原雅夫先生が、
ご自身のブログ「まさおさまの何でも倫理学」で
私のブログを紹介してくださいました。
心理学者にとって、人間について深く考えていく事は必須です。
上記ブログでは、そんな考えるべき重要な問題が
硬軟おりまぜて取りあげられており、
私もちょこちょこ読ませていただいていました。
心理学に興味がある方にとってもオススメのブログです。
今回、御礼に私の方でもリンクをはりましたので、
皆さんも是非御覧ください。
さて、上記ブログでは、私は「ブログの師匠」とされていますが、
それは、私が福島大学にいた頃、小野原先生に、
「ブログ」というものがどんなものであるかとか、
ブログを開設するにはどうしたらよいか、とかを
教えてあげたからだと思います。
でも、「まさおさまの何でも倫理学」の充実ぶりを見れば分かるように、
現在、私がブログの師匠と呼ばれるに値するような事は何もなく、
むしろ、私の方が弟子になってしまっている感があります。
そんな状態なのに、私は「ブログの師匠」と名乗っていいのでしょうか。
しかし、別の見方をすれば、
そんな全然師匠らしくない私こそ、
とっても優れた師匠であるとも考えられるかもしれません。
「青は藍より出でて藍よりも青し」
:青色の染料は、藍という原料から取れるが、
放っておいても染料は取れない。
だが、難しい工程があれば、藍から取れた染料の青さは原料の藍よりも濃く、
鮮やかである。
→このことから、教育を受けた者が、教育をした者よりも
つまり、弟子が師匠よりすぐれていることを意味する言葉となっています。
弟子の方がいつしか師匠を超えてしまうことはよくあることでしょう。
しかし、師匠は、弟子が成長してしまう前に、
その匙加減1つで弟子の成長を止めてしまう事も可能かとも思います。
昨日書いた「エディプス・コンプレックス」は、
父を越えられない息子の葛藤となって現れる事が多いのですが、
その逆に、息子に越えられそうな父が葛藤を抱えるということも
当然あり得ることでしょう。
そんな時に、父は、力を持つ者として何らかの権力を行使し、
息子の成長を妨げることもできるはずです。
それは、「教えない」ことによっても可能になると思います。
先日「因襲の支配力」で引用した箇所に、
女の子は学校に行かせてもらえないこと、
それは、世の中のことを知ってはならないから、
何があろうと良心に従わなくてはならないため、
書いたり読んだりできるようになると頭がよくなりすぎてしまうため、
女の子は学校に行ってはいけない、
といった趣旨の内容がありました。
つまり、いつまでも「教える」ことを与えない事で、
(ここで言う「教える」は、
手取り足取り教えたり、直接教えたりすることだけではなく、
完成形や成長の方向性を示したりすることも含めて考えています)
師匠はおそらく弟子の才能を殺すことも可能になりうるのです。
しかし、教えてしまった先には、先に言ったような、
弟子が軽々と師匠を乗り越えて羽ばたいていく、という
現象が待っています。
これを引き受けてこそ、師匠なのです。
大学院時代、非常勤先の看護学校で用いていた『教育学』のテキストに、
教育者と看護者の共通項の1つとして、
「自分が相手にとって必要でない存在になること」を
その営みの目的に置かねばならない点がある
といった内容が書いてありました。
鋭い指摘だなーと思い、今でも、教育に関わる際に、
また、臨床相談に関わる際に、常に携えている言葉です。
おそらくこれは、私の教育観の根本の重要な1つであるように思います。
このことを自覚しておけば、
弟子が師匠を乗り越えようとも、
それはむしろ葛藤ではなく、素直な尊敬を抱かせます。
逆にこのことを自覚していないと、
弟子を飼い殺してしまう師匠になってしまうように思います。
言うまでもなく、
今日の話のきっかけとなったブログの師弟関係においては、
そんな葛藤があるわけもないのですが、
師匠ってなんだろう?と考えた事から、
自身の教育観を改めて確認するきっかけとなりました。
こんな示唆を与えてくれるなんて、まさに出藍の誉です。
その人が師匠と呼んでくれているのですから、
敬意を込めて、「まさおさまの何でも倫理学」を
「ブログの弟子のブログ」と紹介させていただきました。
ご自身のブログ「まさおさまの何でも倫理学」で
私のブログを紹介してくださいました。
心理学者にとって、人間について深く考えていく事は必須です。
上記ブログでは、そんな考えるべき重要な問題が
硬軟おりまぜて取りあげられており、
私もちょこちょこ読ませていただいていました。
心理学に興味がある方にとってもオススメのブログです。
今回、御礼に私の方でもリンクをはりましたので、
皆さんも是非御覧ください。
さて、上記ブログでは、私は「ブログの師匠」とされていますが、
それは、私が福島大学にいた頃、小野原先生に、
「ブログ」というものがどんなものであるかとか、
ブログを開設するにはどうしたらよいか、とかを
教えてあげたからだと思います。
でも、「まさおさまの何でも倫理学」の充実ぶりを見れば分かるように、
現在、私がブログの師匠と呼ばれるに値するような事は何もなく、
むしろ、私の方が弟子になってしまっている感があります。
そんな状態なのに、私は「ブログの師匠」と名乗っていいのでしょうか。
しかし、別の見方をすれば、
そんな全然師匠らしくない私こそ、
とっても優れた師匠であるとも考えられるかもしれません。
「青は藍より出でて藍よりも青し」
:青色の染料は、藍という原料から取れるが、
放っておいても染料は取れない。
だが、難しい工程があれば、藍から取れた染料の青さは原料の藍よりも濃く、
鮮やかである。
→このことから、教育を受けた者が、教育をした者よりも
つまり、弟子が師匠よりすぐれていることを意味する言葉となっています。
弟子の方がいつしか師匠を超えてしまうことはよくあることでしょう。
しかし、師匠は、弟子が成長してしまう前に、
その匙加減1つで弟子の成長を止めてしまう事も可能かとも思います。
昨日書いた「エディプス・コンプレックス」は、
父を越えられない息子の葛藤となって現れる事が多いのですが、
その逆に、息子に越えられそうな父が葛藤を抱えるということも
当然あり得ることでしょう。
そんな時に、父は、力を持つ者として何らかの権力を行使し、
息子の成長を妨げることもできるはずです。
それは、「教えない」ことによっても可能になると思います。
先日「因襲の支配力」で引用した箇所に、
女の子は学校に行かせてもらえないこと、
それは、世の中のことを知ってはならないから、
何があろうと良心に従わなくてはならないため、
書いたり読んだりできるようになると頭がよくなりすぎてしまうため、
女の子は学校に行ってはいけない、
といった趣旨の内容がありました。
つまり、いつまでも「教える」ことを与えない事で、
(ここで言う「教える」は、
手取り足取り教えたり、直接教えたりすることだけではなく、
完成形や成長の方向性を示したりすることも含めて考えています)
師匠はおそらく弟子の才能を殺すことも可能になりうるのです。
しかし、教えてしまった先には、先に言ったような、
弟子が軽々と師匠を乗り越えて羽ばたいていく、という
現象が待っています。
これを引き受けてこそ、師匠なのです。
大学院時代、非常勤先の看護学校で用いていた『教育学』のテキストに、
教育者と看護者の共通項の1つとして、
「自分が相手にとって必要でない存在になること」を
その営みの目的に置かねばならない点がある
といった内容が書いてありました。
鋭い指摘だなーと思い、今でも、教育に関わる際に、
また、臨床相談に関わる際に、常に携えている言葉です。
おそらくこれは、私の教育観の根本の重要な1つであるように思います。
このことを自覚しておけば、
弟子が師匠を乗り越えようとも、
それはむしろ葛藤ではなく、素直な尊敬を抱かせます。
逆にこのことを自覚していないと、
弟子を飼い殺してしまう師匠になってしまうように思います。
言うまでもなく、
今日の話のきっかけとなったブログの師弟関係においては、
そんな葛藤があるわけもないのですが、
師匠ってなんだろう?と考えた事から、
自身の教育観を改めて確認するきっかけとなりました。
こんな示唆を与えてくれるなんて、まさに出藍の誉です。
その人が師匠と呼んでくれているのですから、
敬意を込めて、「まさおさまの何でも倫理学」を
「ブログの弟子のブログ」と紹介させていただきました。