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中間玲子のブログ

仕事のこととか日々のこととか…更新怠りがちですがボチボチと。

『紅一点論』と『物は言いよう』

2010-01-12 06:00:00 | 読書日記
今日は、斎藤美奈子さんの
『紅一点論』(筑摩書房)と『物は言いよう』(平凡社)の2点を読んで
気づかされたこと、改めて明確になったことについて
書きたいと思います。

これらは、内容的には、ジェンダー論というか
ジェンダー論論(ジェンダー論を論じる)というか、
とにかく、ジェンダーをめぐる話です。

『物は言いよう』は、政治家や文化人、雑誌記事などを取りあげ、
「フェミ・コード」(彼女の造語で、ドレス・コードの「コード」を
フェミニン、フェミニズム、フェミニ二ティなどにあてはめたもの)的に
どうよ?という見地から分析しているものです。

『紅一点論』は、日本におけるアニメ、物語、偉人伝を分析しながら、
そこに潜んでいる女性像の実体を浮き彫りにしていこうとするものです。

いずれの本も面白く、それぞれ、知的関心をかき立てる内容になっており、
ハッとさせられたり考えさせられたり、
その上、爆笑もさせられたりもしながら、ぐいぐい読ませてくれます。

ですがこの2点、たまたまですが、セットで読んだからこそ
「ああ、そうか…」と気づいたことがありました。

『物は言いよう』は、
より高度に(思考的盲点の少ない形で)言動するためのスキルを身につけるための
ものの考え方、見方について検討するトレーニングの本であるといえるでしょう。
(著者自身も、「実用書である」とあとがきで書いていました。)

「このような考え方が問題」、「考え方のポイントはここ」といったような、
いうなれば、自らの考え方やものの見方を直接的に対象化し、
それを客観的に分析・検討するという地平において論が展開されます。
日常の中で、ものの考え方や見方における習慣的落とし穴について
私たちは知らないうちにこういう間違いを犯しがちです、
あるいは、こういう時には立ち止まって考えるべきです、ということを
詳細な実例と共に呈示してくれているものです。

対して『紅一点論』は、私たちがどのように考えるべきか、
あるいはどのような考え方が問題か、ということについての
直接的な情報呈示はありません。
しかし、私たちがそもそも、なぜ、今、そのように考えるようになったのか、
つまり、ものの考え方や見方のクセを、問題としてとりあげるのではなく
それがどのように形成されたのかを
彼女なりの切り口で検討しています。
これを読むと、私たちは、生活の中で、それとは知らずに
実に多くのことを知識として学んでしまっている可能性があるんだ、ということを
しかもそのことに、与える側も与えられる側も気づいていないかもしれないんだ、
ということを考えるようになります。

『紅一点論』の読後感として、
「あ、こんなプロセスを生きていたんなら、今の私は仕方ないのかな」と、
自分が気づかないうちに、確かにもっているものの考え方や見方におけるクセを、
そのまま理解していく一助となりえたことがとても気持ちよく、
そのことによって、「じゃあその私がどうしたらいいのかな」と、
とても前向きな気持ちで『物は言いよう』の内容も「私なりに」理解しようと
思うことができたように思います。


* * * * *


私たちは日々の中で、知らないうちに多くのことを学んでいます。
自分なりに考えたり人に相談しながら導き出したり発見したりしたこと、
人から話として聞いたこと、教えられたことはもちろん、
経験の中から何となく自分なりに理解したこと、
日常の繰り返しの中で当たり前と感じられるようになったこと、など、
学んでいるとも気づかない間に学んでいることは実に多いです。

そういった多くのことから、今の私というものを支える、
その考え方やものの見方、基本的な世界への態度、価値観などが作られます。
それらは、経験の中で知らないうちに学習が進んでいる、
つまり、いつ学んだかが知られないことはもちろん、
何を学んだかさえも、自覚されないことは少なくないように思われます。

それらはいつしか、自分の足場となる基本的な足場となり、
自分にとっては至極当たり前な、ものの見方や考え方の基盤となります。
その、基盤となる足場に立って、私たちは、物事を考えたり検討したり
問題に対処したりしています。

それは、言うなれば、考えたり問題に向き合ったりする
主体の足場となるものであることから、
ここでは仮に、それを主体的知識とよぶことにしましょう。

それに対して、何か、問題になっている事柄、つまり、
考えられたり検討されたりする対象としての知識を
ここでは仮に、それを客体的知識とよぶことにしましょう。

主体的知識にせよ、客体的知識にせよ、
それらはいずれも絶対的な真理であるとは限らず、
時に問い直される必要があることがあります。
特に大学以降は、既存の知識を問い直したり
当たり前のことを疑ってみたりということが
必要になってきます。

その視点において客体的知識と主体的知識を比較すると、
客体的知識はその性質上、思考の俎上に乗せて云々
考え直したり検討したりすることが可能であるのに比べ、
主体的知識の場合は、そもそもの考える足場、検討する足場を
提供しているものであるため、それ自体を対象化することは
非常に難しいです。

しかし、「考え方自体を考える」、「ものの見方自体を考える」ことによって、
つまり、メタ的な視点をもつことによって、
主体的知識となっているところを客体的知識として対象化することは可能です。
そしてそこから、自身のものの見方や考え方のクセを対象化し
吟味・検討し、それらを必要に応じて変化させることも可能です。
最近は、そのような主体的知識、
すなわち、ものの考え方や価値観を理解したり問い直したりする
テクニックやスキルへの注目が集まっているといえるでしょう。

ここであげた2点の著書は、いずれも主体的知識を客体的知識へと転ずる
しかけがなされているわけですが、その性質というか目的が違います。
『物は言いよう』は、主体的知識の質を問い直し、
可能であれば矯正しようとするために、
それを客体的知識として検討するもの、
『紅一点論』は、主体的知識の実体を把握し、
無自覚的に自らが足場としているものへの自覚的理解を促すために、
それを客体的知識として呈示するものです。


* * * * *


先ほど、「最近は、そのような主体的知識、
すなわち、ものの考え方や価値観を理解したり問い直したりする
テクニックやスキルへの注目が集まっているといえる」と書きましたが、
その中で多いのは、『物は言いよう』に属するレベルでのもののように思います。
つまり、よりよい考え方やものの見方の習得をめざすもの。

ただしそのテクニックやスキルが、本当に主体的知識として
定着しうるかというと、それは少し難しい問題です。
なぜならば、あくまでもそれは、客体的知識として学ばれざるを得ないからです。
そのスキルやテクニックを使い続けることで、
それらがいずれ、その人にとって自然な主体的知識へと
変化していく可能性は十分考えられるでしょう。

ただ、時として、もともとの主体的知識、
対象化されないけれどもその人の主体として染みついている知識と
相性の悪い、あるいは、拮抗し合うようなものであれば、
身につけるべきとして学んだ客体的知識を主体的知識として
融合させていくのが案外難しいこともあるのではないでしょうか。

そんな時、人はそれらの融合のされえなさから来るしんどさを、
さらにスキルやテクニックを一生懸命上乗せすることによって
新たな足場を一から作り直そうとがんばることによって
乗り越えようとすることがあります。


* * * * *


このようなニーズに応えるべく、近年では、
ものの考え方、感情の持ち方など、様々な方面での
主体的知識の意図的統制を奨励・指南する知識が大いに商品化されています。
それは新たな生きる知恵になっている一方で、
過度になると、その人の足場となっている主体的知識を矯正する試みともなり、
その人がそれまでにせっかく得ていた安定をも
脅かしてしまう営みになってしまうこともあるように思います。

なぜならそれらは、学ばれる過程においては、客体的知識でしかないからです。
それが主体的知識として定着するまでは、
「別の客体的知識を考えるために、客体的知識を主体的知識として
 維持するように、ものの考え方、ものの見方の枠として自覚的に維持し続ける」
という思考操作が必要になります。
ちょっと油断してしまった時には、既存の主体的知識が頭をもたげるため、
自分に強いている新たな主体的知識候補によるものの見方とは異なる、
従来通りのものの見方・考え方をしてしまい、自分の中でも混乱します。
つまり、既存の慣れ親しんだ主体的知識と、
新たにそこに根付こうとする主体的知識との対立構造が成立することがあるのです。

しかし、対立構造の中では、既存のものと新たなものとが戦い続け
いずれか一方のみが主導権を握る、という方向でしか解決されません。
まずはこの対立構造を解消することが必要でしょう。
そのためにはまずは、既存の主体的知識がどのようなものであるのか、
新たな主体的知識候補がどのようなものであるのか、それぞれ理解した上で
どのような方向性であれば新たな主体的知識候補をも主体的知識として
根付かせていくことが可能か、それを考えるプロセスが必要でしょう。

既存の主体的知識と新しい主体的知識とが対立構造にあって
ちょっとしんどいな、というようなときには、
ぐいぐいと新しい主体的知識で上書きすることに専念するのではなく、
そもそもその主体的知識がどう形成されたのかを対象化してみる、
つまり、既存の主体的知識の声も聞いてやることによって、
案外、解決の糸口が見えてくるのではないかと思った次第です。
そしてここのプロセスに該当するのが『紅一点論』的な水準での
主体的知識の分析・検討なんだろうなあと思った次第です。

『「甘え」とスピリチュアリティ』

2009-08-19 12:25:16 | 読書日記
メンタルヘルス・コンサルテイション研究所の熊倉伸宏先生から、
新刊の御著書
「甘え」とスピリチュアリティ』を送っていただきました。

先生は「甘え」理論で有名な土居健郎氏の弟子にあたる方で、
これまでにも『「甘え」理論の研究』(星和書店, 1984年)、
『「甘え」理論と精神療法』(岩崎学術出版社, 1993年)といった本を出されています。
また、『面接法』(新興医学出版社, 2002年)、『精神疾患の面接法』(新興医学出版社, 2003年)、『メンタルヘルス原論』(新興医学出版社, 2004年)は、
心の臨床に携わる人のためのテキスト3部作といえるでしょう。
それらに先んじて書かれた『死の欲動――臨床人間学ノート』(新興医学出版社, 2000年)も
他者の心に真剣に向き合おうとする人には必読書といっていいでしょう。

プロローグにおいて
「本書が読者の心の一番、奥にある「何か」に訴え、「生」について思考する素材となることを願う。」
と書かれた今回の著書は、
「本書が読者の話し相手になれば幸いである。」
「私と同じく「生」の問に関わる方々、患者であれ、治療者であれ、宗教者であれ、哲学者であれ、詩人であれ、本書が何らかの応答になれば著者として、これ程、光栄なことはない。」
と書かれた文章を含むエピローグで閉じられます。

その通り、読者である私は、ついその思考に誘われ、動かされ、
対話をしたような、もっと対話したいような、そんな気持ちになりました。

当然ながら、フロイト、土居健郎、空海の理論に挑戦しているこの本は、
専門書としても面白いものです。
というか、正直、自分がもっとそれらの理論に精通していれば
もっと面白く読み解けるのに…と自分の勉強不足を実感します。
それでもなお、そこで先生が何を言おうとしているのかについては、
伝わってくるものがあります。

今回の御著書もそうですが、いつも私は熊倉先生の本を読む度に、
臨床家である熊倉先生の魂の動きとでも表現されるものに、
つい引きこまれてしまいます。
時には共鳴し、時には畏敬の念を抱きながら、
先生が、一人の人間として、他者とどう向き合い、
そこにおいてどのような問いに直面し、苦悩したのか、
臨床における「不可能」の「不可避」をどう受け止めたのか、
その時の対話において拓かれたものは何だったのか、
それら先生の姿を、テキストを通してなぞっているような気がします。

この本は、先生からの「生」の思考への誘いであり、
そこで苦悩に直面する者への励ましであり、
さらに言うならば、
先生の「生」への向き合い方を見た私たちが、
それに続く者としてどう「生」に向き合うのかについての
見守りであるように思います。

「ゾクッ」の正体

2009-07-16 11:05:03 | 読書日記
先日、ある短編集を読んだ。
小説である。
読後にゾクッとする感じがあった。
この感覚は、幾度か経験したことがあるが、考察してみた事がなかったので、
この感覚の正体は一体なんだろうと考えてみた。

その短編集にちりばめられていたのは
「普通では考えられない」事態である。
しかし、その事態を引き起こすあるいは遂行する登場人物は、
異常な人物としては描かれない。
その人は、ごく冷静に、ごく自然に、
世界においていかなるほころびも生じさせずに、
日常を重ねている。
つまり、一貫して普通の人物として描かれる。

だが最後には、その人物の生きる世界の「普通」が
他の登場人物の生きる「普通」を凌駕する。

つまり、知らないうちに「普通でないもの」が日常に忍び込んでいて、
それが私たちの日常の中でどんどん増殖し、気づけば、
そちらが取って代わっていたという話である。

ここからゾクッとする感じが生まれていた。
その感覚がとても残ってしまった。
何が私をゾクッとさせたのか、説明して、スッキリしたいものである。

1つは、よりどころとしている「普通」という基準が
曖昧になることからくる世界の揺らぎであると考える。

私たちは、何となく「普通」(つまりは正常)という基準を
色々なことに対して有しているのであり、
それを皆で共有して、安定した世界を生きる事が出来ている。
もしも、自分たちの予測や理解を超えた不思議な事柄に出会うと、
「例外」あるいは「異常」というラベルで整理しようとする。

「異常」とは、英語でいうとabnormalである。
abnormalのnormalとは、norm(規格、標準)を語源とした言葉である。
それに、「離れて」「外側の」「反対側の」の意味の接頭辞ab-がついている。
同時に、uncommonもunusualも「異常」である。
これらは、「普通ならばだいたいこれくらい」という事についての基準があって、
それを逸脱しているという意味である。
「異常」あるいは「普通じゃない」といった言葉を用いる時、
私たちは何らかの基準によって、
その不思議な事柄は、自分たちの慣れ親しんだ事柄とは「違う」
ということを共有し、やはり「普通」という基準を維持し続けている。

だが、実際には、「普通」vs「普通じゃない、あるいは異常」の基準は
そんなに厳密ではない。
特に、その境目は非常に曖昧であり、自分が「普通」と思っている世界は
さほど確固とした境界を持っているわけではない。

この事に改めて気付くと、「普通」だと見なしていたものが、
本当に「普通であるかどうか」、実に怪しくなってきて、
安定していた世界が揺らぐのである。


もう1つは、こちらがむしろ大きな要因だと思うのだが、
自分がコントロールの主体であるという
信念が崩れることから来る世界の揺らぎである。
コントロールの主体とは、直接的に支配できるという意味でなくてもいい。
出来事の進展をある程度予測できたり、調整できたりしているという感覚である。
これは誰もが持っていると思う。
それが崩れるのである。
しかも、知らない間にその侵食はじわじわと進んでおり、
気づいたときにはもう取り返しのつかないレベルにまで無力化されており、
主体の剥奪がかなり進んでいたという状況に陥っていたわけである。

幼い頃、ドラえもんで読んだ話が比喩になると思う。
暑い夏のある日。
のび太がいつものごとく宿題や家の手伝いやジャイアンにつき合うための
野球やらを嫌がって、ドラえもんに泣きつく。
そして、ドラえもんは道具を出して、のび太の「影」からのび太の人形を作る。
そしてその「影」はのび太の代わりに宿題や草むしりや野球をやってくれる。
のび太は喜んで影に色んなことをやらせて王様気分になっているのだが、
次第に影がのび太の言うことを聞かなくなり、自分勝手な行動をし始める。
ドラえもんがあわててやってくる。
あの影は、30分(だったかな?)以内に影に戻さないと大変なことになる、と。
もうすでに30分経っていた。
いつしか影は、のび太にはコントロールできなくなっていた。

そして、気づくと、実際ののび太の姿が少し影を帯びており、
このままでは、影と自分との立場が入れ替わることを知らされる。

そういった話であった。
この話を読んだときのいいようのない恐ろしさ。
その類のものである。
いうなれば、「主体性の所在」の揺らぎが、「ゾクッ」とさせていたのだと思う。


私たちは、日常、ごく当たり前に持っている感覚というものがあって、
それが私たちの当たり前の日常を支えている。
当たり前の日常は、ジグソーパズルにたとえることができるかもしれない。
それを構成しているピースはいっぱいあって、
そのうちいくつかはパズルにおさまることができなかったり、
違うところにはまっていたり、裏返しになっていたりと、
おかしなところがあるかもしれない。
だがおそらく、ある程度パズルの形を維持できる程度には、
ある程度以上のピースが然るべきところにおさまっている。
だから、私たちは、その「当たり前の日常」というジグソーパズルを、
いくつかいびつなところがあるにせよ、
細かく検証せずに、その中に住むことが出来ている。
だがふとした時に、そのパズルの中のピースの歪みを見つけ、違和感を抱き、
改めて自分がそのパズルを眺めてみたとする。
すると、そのパズルは、自分が仮定していたものとは全く違う、
全体像を維持できていない混沌としたものであることに気づき、
愕然とするのである。

自分の生きている現実が虚構であったと気づく驚きとはまた違う。
その場合ならば、生きていた世界を失うが、別の世界へ飛躍することが出来る。
それとは違い、世界が絶対的に存在しなかったという驚きであり、
「世界がない世界」を自分が生きるという事を自覚することからくる衝撃だと思う。
世界は揺らぐが、真実を覗き見たような興奮を覚える。

だがそれでもなお、何かしら秩序を持った世界が存在しているように感じ、
そしてその中で自分が主体として生きることができるという感覚を保持しながら
日常を変わらず進めている自分がいる。
何とも理屈を越えたたくましさであり、しぶとさである。
私のどこに、上記の混沌はおさまっていったのだろう。
それともその混沌は、実は驚くべき事ではなく、
すんなりと私の中に取り込まれていったのだろうか。

なんだか、説明しても説明しても、分からないことは尽きず、
結局、スッキリするのは難しいようであった。

石井桃子さん

2008-04-06 16:09:46 | 読書日記
 4月2日午後3時半、児童文学作家の石井桃子さんがお亡くなりになったそうです。

 “いしいももこ”という名前は、私にとっては、「うさこちゃん」の訳者として小さい頃からよく目にしていた名前でした。私は、うさこちゃんが大好きです。小さい頃、何度も何度も繰り返しては読みました。ぼろぼろになった当時の絵本は、私の落書き(リボンや眉毛が足されていたり、吹き出しが加えられていたり…)がいっぱいです。

 今回、インターネットのニュースではじめてお顔を拝見し、また、101歳という長寿だったこともはじめて知りました。4月3日のネットニュースをはじめ、4日以降の新聞でも、連日、多くの追悼記事が掲載されていましたね。それらを読んで、うさこちゃんシリーズ以外にも、石井桃子さんに沢山お世話になっていたことを知った次第です。
 うさこちゃんの訳者というだけでも、私にとっても十分尊敬に値していた訳ですが。

 さて、“うさこちゃん”。
 今は、miffyちゃんという英語名の方が主流ですね。これは、NHKの番組になり、また、さまざまなキャラクターグッズが売られ始めた時期に、日本での呼び方が変わったと、私は認識しています。
 しかし、私は幼い頃から「うさこちゃん」という名前であのうさぎに親しんできました。(miffyちゃんという名前もそれはそれで可愛いですが。)

 うさこちゃんの生みの親、Dick Brunaさんは、オランダのユトレヒトで生まれ育った方です。ユトレヒトは、落ち着いた大学町という風情で、非常に穏やかな気持ちにさせてくれるところです。ユトレヒトにある小さな公園には、ブルーナさんの息子さんが作ったうさこちゃんの彫像が建てられていますよ(→写真)。
 cf. ディック・ブルーナさんの公式サイト

 もともと、オランダ生まれのうさこちゃん。本名(オランダ名)はnijntje(ナインチェ)といいます。なので、この「うさこちゃん」という名前は、石井桃子さんがうさこちゃんを訳す際に命名したものでしょう。
 石井桃子さんが「うさこちゃん」と命名したプロセスは、作者であるDick Brunaさんが「nijntje」と名づけたプロセスと似ているのではないかな、と勝手に想像しています。
 なぜなら…。

 オランダ語でうさぎは、konijnといいます。
 そして、オランダ語では、「小さいもの、愛らしいもの」を表す時は、語尾に「(t)je」をつけるのです。英語で猫はcat, 仔猫はkittenと言いますね。オランダ語だと、猫はkat, 仔猫はkatje(カッチェ)になります。発音上、tが抜ける場合もあります。コップ「kop」が小さい時には、「kopje」(コピェ)となります。
 よって、オランダ語で「小さいうさぎ」というと、「konijntje」(コナインチェ)です。つまり、nijntjeという名前は、「小さいかわいいうさぎ」というのをもじった名前なのです。それ以上でもそれ以下でもない。非常にシンプルですが、実に愛着のもてる、愛情のこもった名前だなあと思います。そして、「うさこちゃん」という名前は、そういうニュアンスをぴたりと訳しているように思うのです。

 小さい頃から、私にうさこちゃんの世界を楽しませてくださった石井桃子さん。石井桃子さんが開いてくださったうさこちゃんの世界は、そこから、Dick Brunaさんの表現世界へと広がって、私は本当に影響を受けています。ありがとうございました。
 謹んでお悔やみ申し上げます。

『あぁ、阪神タイガース---負ける理由、勝つ理由---』

2008-04-03 08:50:34 | 読書日記
 この本は、野村克也さんが、阪神監督時代を振り返って、阪神という球団について考えたところを書いたものです。

 野村さんが阪神の監督をつとめたのは3年間。それ以前もその間も、阪神は「最下位」の定位置についていました。その後、星野仙一監督が就任し、阪神は18年ぶりの優勝を果たします。2003年のことでした。
 何が阪神に必要だったのか。この本は、副題にあるように、阪神が「負ける理由、勝つ理由」について、夜明け前の深く暗い時代を過ごした野村さんによって、冷静に、多面的に細かく分析されています。

* * * * * *

 この本を読んでいて、プロ野球というのは組織なのだということを改めて思う。プロ野球は選手と監督、コーチといった、表に出る人々のみによって成り立っているわけではない。オーナー、編成部、そしてそれをとりまくマスコミ、そして、ファン。野村さんによると「弱い阪神」は、過保護なファンにおだてられて中途半端にプライドの高い選手、記事を書くため選手に迎合するマスコミ、適材適所とは言いかねる監督、それでも人気があることにあぐらをかくオーナーと編成部という、組織的な構造をもつものであった。「弱い阪神」を立て直すには、組織改革が必要だったと野村さんは言う。なぜその状態が成り立ち、しかも長年継続しているのか。それを立て直そうとする時、何が待ち受けていたか。それらについての野村さんのぼやき(?)が展開される中で、組織というものを動かし、変えていくことの難しさが伝わってくる。

 今、ぼやきと書いたが、しかし、野村さんの書き方は、歴史的経緯をおさえているものであるため、それらは非常に説得力をもって響いてくる。野村さん自身が選手であった南海時代、ヤクルト監督時代含め、外から見た阪神の姿も言及してくれている。外から見てこう思っていた阪神、内に入って見えてきた阪神について、経験した本人の言葉を生で聞くことのできる本だ。

 加えて、阪神監督時代の苦闘を振り返る中で、随所で「野村野球」論が説かれる。野球とは何か、そこにどのように選手、編成部、ファン、マスコミにどう存在してほしいのか、が説明される。選手にはもちろん個性がある。しかし、それを尊重することと、指導者が大きな意味での野球観、人間観をもって向き合うこととは両立する。指導者側が足場をもつことの大切さも確認させてくれる。

 この本は、前半はそういう「阪神」という組織に対する批判的見解が述べられるのだが、後半では、自身に対する省察が行われる。最初は、野村監督自身が、自分の在籍期間を振り返って何が間違っていたか、どうすべきであったかについて、選手の見極めという点、自分の動き方の点から考察される。
 「孤独感――阪神監督試合の3年間をひと言で総括すれば、そうなる。私は孤立無援であった。これほどの孤独感を感じさせられたことはこれまでになかった。」そう逡巡する野村さん。その中での自分の姿を改めて問い直している。
 おもしろいのは星野仙一さんとの対比だ。自分になくて星野さんにあるもの。それが冷静に書かれており、「タイプ」と「与えるタイミング」の妙について考えさせられる。

 この下り以降は、2003年の阪神のリーグ優勝と絡めて書かれているので、読み手としてはとても楽しい部分になる。星野さん就任以前に、野村さんが赤星選手、藤本選手を獲得する話もあるのだが、その辺りは、阪神改革が形となり始めた序章のようで単純に、うれしいところだ。そして、星野さんがいかにして金本選手を獲得し、金本選手がその後、どのように動いたことで「阪神」が優勝にたどりついたのか。沸きに沸いた2003年の優勝が、改めてドラマチックに回想される。野村さんは、「チームには中心が必要だ」と言い続けているが、それを立派に金本選手が果たしていると本著で書かれているのは、ただただ単純にうれしい言葉だ。そして、桧山選手をはじめ、かつての選手たちが「野村監督の言っていることがあのときは分からなかったけど今はわかる」と、野村さんのやってきたことを理解しはじめているという。野村さんの持論を理解し、当時どのような苦労をしてきたのか、その思いを共有して読みすすめたので、これまた、単純にうれしいし、翻って、自分を信じてもいいのだ、と励まされもするシーンだ。

 阪神は強くなったのか。最後にこの問いへの考察が続く。

* * * * * *

 ここまで書けるということ自体、野村さんが、いかに、考え続け、格闘したかということの証だと思いました。野村さんの阪神論が正しいかどうかはさておくとして、リーダーシップということ、人を育てるということ、組織を変えるということ、そしてその成果をどう見るかということ、さらにはメディアのあり方、組織のあり方、組織の中の人としてのあり方。それらについて野村さんの考えるところが織り込まれていて、その際の構造的な考え方には非常に感銘を受けました。おそらく、監督ということを通して、考えざるを得なかったのでしょう。
 では、自分ならどう答えるのだろう?自分の置かれた立場、対象との関係を考えてみて、あれ…まだきちんと答えられない部分が多いなあというのが率直な気持ちでした。まだ考える機会に直面していないからかもしれませんが、その機会にさえ気づけていないのかもしれません。考える機会があっても、考えなかったのかもしれません。
 「考え続ける姿勢」という点において、人にもの言う立場にある者のはしくれとして、よいお手本を見せて頂いた思いでした。


 ちなみにこの本は、2007年に書かれているので、楽天移籍前後のこと、そして現在の思いも書かれてあって、東北に住む者として、これは楽天も応援しなければ!!と思った次第です。楽天に移ってからの野村さん、特に、田中選手入団以降の野村さんインタビューを見るのはとても楽しいですしね。
 そういう思いがふくらんだところに、なんと、4月3日現在、楽天6連勝でリーグ2位(しかも首位と0.5ゲーム差)、阪神は開幕以降5連勝でリーグ首位というミラクルな成績となっております。日本シリーズで阪神vs楽天が観られるか!?
 …ちょっと気が早いですね。でも、夢をふくらませることができるのもこの時期ならでは^^