今日は、斎藤美奈子さんの
『紅一点論』(筑摩書房)と『物は言いよう』(平凡社)の2点を読んで
気づかされたこと、改めて明確になったことについて
書きたいと思います。
これらは、内容的には、ジェンダー論というか
ジェンダー論論(ジェンダー論を論じる)というか、
とにかく、ジェンダーをめぐる話です。
『物は言いよう』は、政治家や文化人、雑誌記事などを取りあげ、
「フェミ・コード」(彼女の造語で、ドレス・コードの「コード」を
フェミニン、フェミニズム、フェミニ二ティなどにあてはめたもの)的に
どうよ?という見地から分析しているものです。
『紅一点論』は、日本におけるアニメ、物語、偉人伝を分析しながら、
そこに潜んでいる女性像の実体を浮き彫りにしていこうとするものです。
いずれの本も面白く、それぞれ、知的関心をかき立てる内容になっており、
ハッとさせられたり考えさせられたり、
その上、爆笑もさせられたりもしながら、ぐいぐい読ませてくれます。
ですがこの2点、たまたまですが、セットで読んだからこそ
「ああ、そうか…」と気づいたことがありました。
『物は言いよう』は、
より高度に(思考的盲点の少ない形で)言動するためのスキルを身につけるための
ものの考え方、見方について検討するトレーニングの本であるといえるでしょう。
(著者自身も、「実用書である」とあとがきで書いていました。)
「このような考え方が問題」、「考え方のポイントはここ」といったような、
いうなれば、自らの考え方やものの見方を直接的に対象化し、
それを客観的に分析・検討するという地平において論が展開されます。
日常の中で、ものの考え方や見方における習慣的落とし穴について
私たちは知らないうちにこういう間違いを犯しがちです、
あるいは、こういう時には立ち止まって考えるべきです、ということを
詳細な実例と共に呈示してくれているものです。
対して『紅一点論』は、私たちがどのように考えるべきか、
あるいはどのような考え方が問題か、ということについての
直接的な情報呈示はありません。
しかし、私たちがそもそも、なぜ、今、そのように考えるようになったのか、
つまり、ものの考え方や見方のクセを、問題としてとりあげるのではなく
それがどのように形成されたのかを
彼女なりの切り口で検討しています。
これを読むと、私たちは、生活の中で、それとは知らずに
実に多くのことを知識として学んでしまっている可能性があるんだ、ということを
しかもそのことに、与える側も与えられる側も気づいていないかもしれないんだ、
ということを考えるようになります。
『紅一点論』の読後感として、
「あ、こんなプロセスを生きていたんなら、今の私は仕方ないのかな」と、
自分が気づかないうちに、確かにもっているものの考え方や見方におけるクセを、
そのまま理解していく一助となりえたことがとても気持ちよく、
そのことによって、「じゃあその私がどうしたらいいのかな」と、
とても前向きな気持ちで『物は言いよう』の内容も「私なりに」理解しようと
思うことができたように思います。
* * * * *
私たちは日々の中で、知らないうちに多くのことを学んでいます。
自分なりに考えたり人に相談しながら導き出したり発見したりしたこと、
人から話として聞いたこと、教えられたことはもちろん、
経験の中から何となく自分なりに理解したこと、
日常の繰り返しの中で当たり前と感じられるようになったこと、など、
学んでいるとも気づかない間に学んでいることは実に多いです。
そういった多くのことから、今の私というものを支える、
その考え方やものの見方、基本的な世界への態度、価値観などが作られます。
それらは、経験の中で知らないうちに学習が進んでいる、
つまり、いつ学んだかが知られないことはもちろん、
何を学んだかさえも、自覚されないことは少なくないように思われます。
それらはいつしか、自分の足場となる基本的な足場となり、
自分にとっては至極当たり前な、ものの見方や考え方の基盤となります。
その、基盤となる足場に立って、私たちは、物事を考えたり検討したり
問題に対処したりしています。
それは、言うなれば、考えたり問題に向き合ったりする
主体の足場となるものであることから、
ここでは仮に、それを主体的知識とよぶことにしましょう。
それに対して、何か、問題になっている事柄、つまり、
考えられたり検討されたりする対象としての知識を
ここでは仮に、それを客体的知識とよぶことにしましょう。
主体的知識にせよ、客体的知識にせよ、
それらはいずれも絶対的な真理であるとは限らず、
時に問い直される必要があることがあります。
特に大学以降は、既存の知識を問い直したり
当たり前のことを疑ってみたりということが
必要になってきます。
その視点において客体的知識と主体的知識を比較すると、
客体的知識はその性質上、思考の俎上に乗せて云々
考え直したり検討したりすることが可能であるのに比べ、
主体的知識の場合は、そもそもの考える足場、検討する足場を
提供しているものであるため、それ自体を対象化することは
非常に難しいです。
しかし、「考え方自体を考える」、「ものの見方自体を考える」ことによって、
つまり、メタ的な視点をもつことによって、
主体的知識となっているところを客体的知識として対象化することは可能です。
そしてそこから、自身のものの見方や考え方のクセを対象化し
吟味・検討し、それらを必要に応じて変化させることも可能です。
最近は、そのような主体的知識、
すなわち、ものの考え方や価値観を理解したり問い直したりする
テクニックやスキルへの注目が集まっているといえるでしょう。
ここであげた2点の著書は、いずれも主体的知識を客体的知識へと転ずる
しかけがなされているわけですが、その性質というか目的が違います。
『物は言いよう』は、主体的知識の質を問い直し、
可能であれば矯正しようとするために、
それを客体的知識として検討するもの、
『紅一点論』は、主体的知識の実体を把握し、
無自覚的に自らが足場としているものへの自覚的理解を促すために、
それを客体的知識として呈示するものです。
* * * * *
先ほど、「最近は、そのような主体的知識、
すなわち、ものの考え方や価値観を理解したり問い直したりする
テクニックやスキルへの注目が集まっているといえる」と書きましたが、
その中で多いのは、『物は言いよう』に属するレベルでのもののように思います。
つまり、よりよい考え方やものの見方の習得をめざすもの。
ただしそのテクニックやスキルが、本当に主体的知識として
定着しうるかというと、それは少し難しい問題です。
なぜならば、あくまでもそれは、客体的知識として学ばれざるを得ないからです。
そのスキルやテクニックを使い続けることで、
それらがいずれ、その人にとって自然な主体的知識へと
変化していく可能性は十分考えられるでしょう。
ただ、時として、もともとの主体的知識、
対象化されないけれどもその人の主体として染みついている知識と
相性の悪い、あるいは、拮抗し合うようなものであれば、
身につけるべきとして学んだ客体的知識を主体的知識として
融合させていくのが案外難しいこともあるのではないでしょうか。
そんな時、人はそれらの融合のされえなさから来るしんどさを、
さらにスキルやテクニックを一生懸命上乗せすることによって
新たな足場を一から作り直そうとがんばることによって
乗り越えようとすることがあります。
* * * * *
このようなニーズに応えるべく、近年では、
ものの考え方、感情の持ち方など、様々な方面での
主体的知識の意図的統制を奨励・指南する知識が大いに商品化されています。
それは新たな生きる知恵になっている一方で、
過度になると、その人の足場となっている主体的知識を矯正する試みともなり、
その人がそれまでにせっかく得ていた安定をも
脅かしてしまう営みになってしまうこともあるように思います。
なぜならそれらは、学ばれる過程においては、客体的知識でしかないからです。
それが主体的知識として定着するまでは、
「別の客体的知識を考えるために、客体的知識を主体的知識として
維持するように、ものの考え方、ものの見方の枠として自覚的に維持し続ける」
という思考操作が必要になります。
ちょっと油断してしまった時には、既存の主体的知識が頭をもたげるため、
自分に強いている新たな主体的知識候補によるものの見方とは異なる、
従来通りのものの見方・考え方をしてしまい、自分の中でも混乱します。
つまり、既存の慣れ親しんだ主体的知識と、
新たにそこに根付こうとする主体的知識との対立構造が成立することがあるのです。
しかし、対立構造の中では、既存のものと新たなものとが戦い続け
いずれか一方のみが主導権を握る、という方向でしか解決されません。
まずはこの対立構造を解消することが必要でしょう。
そのためにはまずは、既存の主体的知識がどのようなものであるのか、
新たな主体的知識候補がどのようなものであるのか、それぞれ理解した上で
どのような方向性であれば新たな主体的知識候補をも主体的知識として
根付かせていくことが可能か、それを考えるプロセスが必要でしょう。
既存の主体的知識と新しい主体的知識とが対立構造にあって
ちょっとしんどいな、というようなときには、
ぐいぐいと新しい主体的知識で上書きすることに専念するのではなく、
そもそもその主体的知識がどう形成されたのかを対象化してみる、
つまり、既存の主体的知識の声も聞いてやることによって、
案外、解決の糸口が見えてくるのではないかと思った次第です。
そしてここのプロセスに該当するのが『紅一点論』的な水準での
主体的知識の分析・検討なんだろうなあと思った次第です。
『紅一点論』(筑摩書房)と『物は言いよう』(平凡社)の2点を読んで
気づかされたこと、改めて明確になったことについて
書きたいと思います。
これらは、内容的には、ジェンダー論というか
ジェンダー論論(ジェンダー論を論じる)というか、
とにかく、ジェンダーをめぐる話です。
『物は言いよう』は、政治家や文化人、雑誌記事などを取りあげ、
「フェミ・コード」(彼女の造語で、ドレス・コードの「コード」を
フェミニン、フェミニズム、フェミニ二ティなどにあてはめたもの)的に
どうよ?という見地から分析しているものです。
『紅一点論』は、日本におけるアニメ、物語、偉人伝を分析しながら、
そこに潜んでいる女性像の実体を浮き彫りにしていこうとするものです。
いずれの本も面白く、それぞれ、知的関心をかき立てる内容になっており、
ハッとさせられたり考えさせられたり、
その上、爆笑もさせられたりもしながら、ぐいぐい読ませてくれます。
ですがこの2点、たまたまですが、セットで読んだからこそ
「ああ、そうか…」と気づいたことがありました。
『物は言いよう』は、
より高度に(思考的盲点の少ない形で)言動するためのスキルを身につけるための
ものの考え方、見方について検討するトレーニングの本であるといえるでしょう。
(著者自身も、「実用書である」とあとがきで書いていました。)
「このような考え方が問題」、「考え方のポイントはここ」といったような、
いうなれば、自らの考え方やものの見方を直接的に対象化し、
それを客観的に分析・検討するという地平において論が展開されます。
日常の中で、ものの考え方や見方における習慣的落とし穴について
私たちは知らないうちにこういう間違いを犯しがちです、
あるいは、こういう時には立ち止まって考えるべきです、ということを
詳細な実例と共に呈示してくれているものです。
対して『紅一点論』は、私たちがどのように考えるべきか、
あるいはどのような考え方が問題か、ということについての
直接的な情報呈示はありません。
しかし、私たちがそもそも、なぜ、今、そのように考えるようになったのか、
つまり、ものの考え方や見方のクセを、問題としてとりあげるのではなく
それがどのように形成されたのかを
彼女なりの切り口で検討しています。
これを読むと、私たちは、生活の中で、それとは知らずに
実に多くのことを知識として学んでしまっている可能性があるんだ、ということを
しかもそのことに、与える側も与えられる側も気づいていないかもしれないんだ、
ということを考えるようになります。
『紅一点論』の読後感として、
「あ、こんなプロセスを生きていたんなら、今の私は仕方ないのかな」と、
自分が気づかないうちに、確かにもっているものの考え方や見方におけるクセを、
そのまま理解していく一助となりえたことがとても気持ちよく、
そのことによって、「じゃあその私がどうしたらいいのかな」と、
とても前向きな気持ちで『物は言いよう』の内容も「私なりに」理解しようと
思うことができたように思います。
* * * * *
私たちは日々の中で、知らないうちに多くのことを学んでいます。
自分なりに考えたり人に相談しながら導き出したり発見したりしたこと、
人から話として聞いたこと、教えられたことはもちろん、
経験の中から何となく自分なりに理解したこと、
日常の繰り返しの中で当たり前と感じられるようになったこと、など、
学んでいるとも気づかない間に学んでいることは実に多いです。
そういった多くのことから、今の私というものを支える、
その考え方やものの見方、基本的な世界への態度、価値観などが作られます。
それらは、経験の中で知らないうちに学習が進んでいる、
つまり、いつ学んだかが知られないことはもちろん、
何を学んだかさえも、自覚されないことは少なくないように思われます。
それらはいつしか、自分の足場となる基本的な足場となり、
自分にとっては至極当たり前な、ものの見方や考え方の基盤となります。
その、基盤となる足場に立って、私たちは、物事を考えたり検討したり
問題に対処したりしています。
それは、言うなれば、考えたり問題に向き合ったりする
主体の足場となるものであることから、
ここでは仮に、それを主体的知識とよぶことにしましょう。
それに対して、何か、問題になっている事柄、つまり、
考えられたり検討されたりする対象としての知識を
ここでは仮に、それを客体的知識とよぶことにしましょう。
主体的知識にせよ、客体的知識にせよ、
それらはいずれも絶対的な真理であるとは限らず、
時に問い直される必要があることがあります。
特に大学以降は、既存の知識を問い直したり
当たり前のことを疑ってみたりということが
必要になってきます。
その視点において客体的知識と主体的知識を比較すると、
客体的知識はその性質上、思考の俎上に乗せて云々
考え直したり検討したりすることが可能であるのに比べ、
主体的知識の場合は、そもそもの考える足場、検討する足場を
提供しているものであるため、それ自体を対象化することは
非常に難しいです。
しかし、「考え方自体を考える」、「ものの見方自体を考える」ことによって、
つまり、メタ的な視点をもつことによって、
主体的知識となっているところを客体的知識として対象化することは可能です。
そしてそこから、自身のものの見方や考え方のクセを対象化し
吟味・検討し、それらを必要に応じて変化させることも可能です。
最近は、そのような主体的知識、
すなわち、ものの考え方や価値観を理解したり問い直したりする
テクニックやスキルへの注目が集まっているといえるでしょう。
ここであげた2点の著書は、いずれも主体的知識を客体的知識へと転ずる
しかけがなされているわけですが、その性質というか目的が違います。
『物は言いよう』は、主体的知識の質を問い直し、
可能であれば矯正しようとするために、
それを客体的知識として検討するもの、
『紅一点論』は、主体的知識の実体を把握し、
無自覚的に自らが足場としているものへの自覚的理解を促すために、
それを客体的知識として呈示するものです。
* * * * *
先ほど、「最近は、そのような主体的知識、
すなわち、ものの考え方や価値観を理解したり問い直したりする
テクニックやスキルへの注目が集まっているといえる」と書きましたが、
その中で多いのは、『物は言いよう』に属するレベルでのもののように思います。
つまり、よりよい考え方やものの見方の習得をめざすもの。
ただしそのテクニックやスキルが、本当に主体的知識として
定着しうるかというと、それは少し難しい問題です。
なぜならば、あくまでもそれは、客体的知識として学ばれざるを得ないからです。
そのスキルやテクニックを使い続けることで、
それらがいずれ、その人にとって自然な主体的知識へと
変化していく可能性は十分考えられるでしょう。
ただ、時として、もともとの主体的知識、
対象化されないけれどもその人の主体として染みついている知識と
相性の悪い、あるいは、拮抗し合うようなものであれば、
身につけるべきとして学んだ客体的知識を主体的知識として
融合させていくのが案外難しいこともあるのではないでしょうか。
そんな時、人はそれらの融合のされえなさから来るしんどさを、
さらにスキルやテクニックを一生懸命上乗せすることによって
新たな足場を一から作り直そうとがんばることによって
乗り越えようとすることがあります。
* * * * *
このようなニーズに応えるべく、近年では、
ものの考え方、感情の持ち方など、様々な方面での
主体的知識の意図的統制を奨励・指南する知識が大いに商品化されています。
それは新たな生きる知恵になっている一方で、
過度になると、その人の足場となっている主体的知識を矯正する試みともなり、
その人がそれまでにせっかく得ていた安定をも
脅かしてしまう営みになってしまうこともあるように思います。
なぜならそれらは、学ばれる過程においては、客体的知識でしかないからです。
それが主体的知識として定着するまでは、
「別の客体的知識を考えるために、客体的知識を主体的知識として
維持するように、ものの考え方、ものの見方の枠として自覚的に維持し続ける」
という思考操作が必要になります。
ちょっと油断してしまった時には、既存の主体的知識が頭をもたげるため、
自分に強いている新たな主体的知識候補によるものの見方とは異なる、
従来通りのものの見方・考え方をしてしまい、自分の中でも混乱します。
つまり、既存の慣れ親しんだ主体的知識と、
新たにそこに根付こうとする主体的知識との対立構造が成立することがあるのです。
しかし、対立構造の中では、既存のものと新たなものとが戦い続け
いずれか一方のみが主導権を握る、という方向でしか解決されません。
まずはこの対立構造を解消することが必要でしょう。
そのためにはまずは、既存の主体的知識がどのようなものであるのか、
新たな主体的知識候補がどのようなものであるのか、それぞれ理解した上で
どのような方向性であれば新たな主体的知識候補をも主体的知識として
根付かせていくことが可能か、それを考えるプロセスが必要でしょう。
既存の主体的知識と新しい主体的知識とが対立構造にあって
ちょっとしんどいな、というようなときには、
ぐいぐいと新しい主体的知識で上書きすることに専念するのではなく、
そもそもその主体的知識がどう形成されたのかを対象化してみる、
つまり、既存の主体的知識の声も聞いてやることによって、
案外、解決の糸口が見えてくるのではないかと思った次第です。
そしてここのプロセスに該当するのが『紅一点論』的な水準での
主体的知識の分析・検討なんだろうなあと思った次第です。