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中間玲子のブログ

仕事のこととか日々のこととか…更新怠りがちですがボチボチと。

『やる気とか元気がでるえんぴつポスター』

2013-12-10 12:17:24 | 読書日記
今年の5月はじめに、
『やる気とか元気がでるえんぴつポスター』
という本に出会いました。

待ち合わせの空き時間に本屋に立ち寄り何気なく手に取った本です。
適当にページを開いたところから読んでみると、
短い言葉をつづったたどたどしい文字がならんでいました。
1ページに1枚、といった感じで言葉が迫ってきていて
また、その言葉も、「字が書きたいです、がんばります」とか
「学校に行くのがたのしいです」とかで
きっと、字を覚え始めた子どもたちとか、
学校に行き始めた子どもたちとかの文章を集めたものだろうなと思いながら
楽しくページをめくっていました。
勉強するとか、字が書けるようになるとか、その他、
できるようになることが増えるって、
本当にうれしく、楽しいことだよねー!!と
改めてそのことを考えたりすると、
確かに、元気ややる気がでる思いでした。

ただ、書いている人が、私の予想とは違うことが途中で分かりました。
昔、学校に行けなくて、字が書けないままに年をとってしまい、
今、夜間中学に通っている、そういう方々の書いた文字でした。

「覚えられない」「忘れてしまう」とかの年との闘いや
「むがくといわれてかなしかった」というエピソードを
書いている方がおられて。

え?どういうこと?と思って、
まえがきを読むと、そういうことでした。

となると、さらにさらに、
学べずにいた人たちが学ぶ喜び、ということが
伝わってきました。

同時に、勉強することの苦しさを書いているものもあったりして
それもまた、リアルで。

それも含めて元気ややる気がでました。

しんどくても続けていると、できることが増えたり、
やりたかったことをやれるようになったりする。

きっと、何かができるようになりたい!と
向かっていっている人の姿それ自体が
たとえ、そこでブツブツ言っていたりすることがあっても、
それでも基本的には向かい続けているというその姿が
なんだか元気ややる気を呼んでくれるのだろうなあと思いました。

なんだか、とってもいい気持ちになって
あとがきを読んでいたらまたびっくり!!
なんと、大学時代の同級生の名前があるではありませんか!!
彼は出版社に就職したのですが、この本の作成を担当していたようです。

うわぁ、皆、がんばっているなあ~と
ますます元気ややる気が出たのでした。

お久しぶりです。。。

2013-09-15 09:52:26 | 読書日記
お久しぶりですm(_ _)m

気づけばもう9月も半ば・・・


皆様、お変わりございませんでしょうか。

半年近くも放置していたのに、変わらぬアクセス、
ありがとうございます。

この半期も怒濤のように過ぎていきました。

9月になって、少し疲れが出たのか、
なんだかこの2週間は停滞しています。

ボケッとしていたら、
こんな記事を見つけましたので
(原典は、Tamir, D. I. & Mitchell, J. P. (2012) Disclosing information about the self is intrinsically rewarding. Preceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America)
久しぶりにブログで自分語りでもしようかと思った次第です。


この数日、空き時間に没頭して読んでいる本は、
ワトソン&ベリー著『DNA:二重らせんの発見からヒトゲノム計画まで』という本です。

もともとは、心理学における遺伝と環境に関する研究に対する疑問から
そもそも、遺伝の研究って??という脇道に入り込んでしまった感じなので、
まだ自分の研究に対する還元は見出せないのですが、教養本としてはもちろん、
読み物としてもとってもおもしろいです。

メンデルの法則を見出したメンデルさんの不遇な人生、
ショウジョウバエを集めてモーガンの法則を見出したモーガン研究室の風景などは
高校の生物などで耳にした話でもあるため
親近感をもって、読むことが出来ます。

それらはワトソンがDNAの二重らせんを発見する以前の話であり
本全体としてはかなり前半部分に出てきます。
そして、ワトソンとクリックが二重らせん構造を発見した際のいきさつ、
なんともいえないスリリングな、ドキドキ感をもたらしてくれます。

その後、DNA研究とビジネスとの結合が始まったあたりからは、
欲望の権化、似非ヒューマニストなど、何種類かの悪役も登場し、
その中で心ある研究者たちの姿と必ずしもそれが実を結ばない様など
映画でも見るかのような、欲望渦巻く人間模様と共に読ませてくれます。

今、上巻を読み終えようとしているあたりなのですが、
欲望うごめくDNA界にフランシス・コリンズという人が登場し、
さて、彼の登場で、今後いかなる新たな展開が起こるのか!?といったところです。


彼はこのように評されています(上巻, p.303):
コリンズは、信仰篤い科学者という、きわめて稀な人類に属している。
学生時代には、「実に不愉快な無神論者だった」という。
だが医学部時代に彼は変わった。
「劣悪な医療環境の中で志と戦い敗れていった人たちを見て、
人は信仰にすがり、大きな力を得ることを知った」のだ。
彼はヒトゲノム計画に、優れた科学のみならず、
前任者にはまるで欠落していた精神的側面をももちこむことになった。


楽しみです。
ちなみに、心理学者について必要なことは、この逆だと思います。
心理学者はもともと、心や精神を大事にするので、
むしろ大事なのは、
それ以外のところにいかに関心をもつことができるかということ。
社会や歴史、そして、人間という種のもつ制限のなかで
人の心は生きています。
心理学は、現象を心の側面から説明するという新たな視点を提供していますが
時に、「ものごとは心のもちよう」といった極端な心理主義も助長してしまいます。
心理学者ですから、心理的側面を解明する、という役割を放棄する気はありませんが、
それが人間全体を考える上でいかなる意味をもつものなのか、
コリンズのような多層的な視点をもちあわせていたいと強く感じるところです。


閑話休題。
途中で、下巻の方もチラ見したのですが、下巻の最後の方に
「私たちは何者なのか-遺伝と環境」という章もあります。
この本が、どのような結びになるのか、楽しみに読み進めたいと思います。

『つぶつぶうた』2-答え

2011-03-23 13:13:39 | 読書日記
前々回の記事、『つぶつぶうた』2で紹介したもの、

それらは、下記のいずれかについて添えられたものでした。

えんとつ
とうがらし
げた
ひょうたん
トウモロコシ







さあ、どうでしょうか???







まどさんの詩を紹介しますね

ひょうたん
 なさけなや
 おなかを
 にぎりつぶされた

とうがらし
 なにを おこっているのか 
 あたま とんがらして
 まっかに なって

とうもろこし
 あかい リボンの
 プレゼント
 あきが とどけた
 ハーモニカ

えんとつ
 けむりの はたなど
 たてている
 だれも
 あそびに こないから

げた
 おおいばり
 かお いっぱいの
 八じひげ

『つぶつぶうた』2

2011-03-21 23:26:59 | 読書日記
ご好評につき、まど・みちおさんクイズです♪

あんまりやると著作権侵害になってしまう・・・
ので『つぶつぶうた』クイズは今日の5問までです。

今日は、マッチングではありません。

次の言葉たちは、何に対して添えられた言葉でしょう?

1)なさけなや
 おなかを
 にぎりつぶされた

2)なにを おこっているのか 
 あたま とんがらして
 まっかに なって

3)あかい リボンの
 プレゼント
 あきが とどけた
 ハーモニカ

4)けむりの はたなど
 たてている
 だれも
 あそびに こないから

5)おおいばり
 かお いっぱいの
 八じひげ

・・・絶対わからないだろうなあ
どういうヒントを出せばいいかなあ

1)~3)は、農作物です。2)は分かりやすいかな。
4)は、町の風景のものだね。
5)は、うーん、身につけるもの?

うふふ。

『つぶつぶうた』答え

2011-03-20 16:16:17 | 読書日記
前々回の記事、『つぶつぶうた』の答えです♪

1)はな
d)きがついたときには もうでしゃばっていました

2)ノミ
f)あらわれる ゆくえふめいになるために

3)いぼ
a)なにがほしいのか

4)ケムシ
b)さんぱつきらい

5)きんぎょ
c)うごくとドレスがずりおちそう

6)カメ
e)ウサギのきもちがようわかる -ねむいねむい

7)ちゃわん
g)「おなまえは?」「たたいてください」-ちゃわん

クスリ

『つぶつぶうた』

2011-03-20 03:22:46 | 読書日記
時にはまど・みちおさんの詩でほっこりしましょう。

この本は楽しいです。

食べ物や昆虫について、一言・二言、言葉が添えられています。

なので、クイズ形式♪

次の事物に対して、まどさんはどのような言葉を添えているでしょう?

1)はな

2)ノミ

3)いぼ

4)ケムシ

5)きんぎょ

6)カメ

7)ちゃわん

さあ、つぎのうち、どれかな?マッチング形式!!

a)なにがほしいのか

b)さんぱつきらい

c)うごくとドレスがずりおちそう

d)きがついたときには もうでしゃばっていました

e)ウサギのきもちがようわかる -ねむいねむい

f)あらわれる ゆくえふめいになるために

g)「おなまえは?」「たたいてください」-ちゃわん

『じてんしゃがくるよ』

2011-02-23 21:55:07 | 読書日記
仲良しおともだちのオカダケイコちゃんが
2冊目の絵本を出しました。


『じてんしゃがくるよ』です。
※画像はこちら「財団法人・自転車産業振興協会」のチラシからもらいました。

「はじめての自転車・あのわくわく感がよみがえります」
とあるように、
はじめての自転車を買ってもらう男の子が、
「自転車がきたらね・・・」とイメージをふくらませていきます。

→中身は編集の方のページからちらりと読めるようです。
(この絵本のしくみ(?)などもそこに書かれています。)

そのイメージのふくらみ方が・・・
うわあっと広がっていく感じで、絵本の世界が心に満ちていく。
一緒にわくわくさせてくれます

オカダケイコちゃん曰く「短い話なのに、ちゃんと盛り上がっていく」
そう、短い言葉で、こんなに心をひっぱってくれるんです。
絵本ってすごい

あんまりプライベートな関係はブログに書かない主義なんですが、
彼女が絵本の勉強を本格的に始めていて、
彼女がしてくれる絵本についての話は、
学問とは違う角度から
人の心というものを考えさせてくれるものになっています。
なので、お仕事ブログですが、紹介してみました。

うーん、それにしても、イラスト、かわいい
(結局、紹介したかっただけかな…

『おせん』

2010-08-05 11:32:29 | 読書日記
どこかに電車や飛行機などで移動する際には、
私は大抵、本(小説やエッセイなど)を読んでいます。
多忙な先生方は、電車の中で原稿を書く、とか、
文献を読む、ということをよくおっしゃってられますが、
そんなことをしようとすると、私はどうしても寝てしまうか、
電車であることを忘れて、書類を広げたくなってしまうとか、
とにかく、適切に作業をすることはできないので、
電車の中で仕事をすることは、滅多にありません。
(よっぽどの場合には、しています)

なので、電車の中は、うたたね&読書の時間となっています。

『おせん』(池波正太郎著)を読みました。

池波正太郎さんの小説を読んだのは初めてですが、
非常に後味のよい、なんとなく心温まる本でした。
いずれも女性を主人公とした、短編集で、それぞれに
個性豊かな、また、生き方も様々な女性の姿が描かれています。
中でも、表題作「おせん」は、いい作品でした。

妾として暮らすおせんは、ひょんなことから
なんの関係もない老婆・おみねを押しつけられます。
旦那もいやがるし…、と、初めはおみねをいやがっていたのですが、
次第に…。
最後は、おみねと屋台を出して暮らすようになります。

その心の移り変わりの様が、なんとも言えずよいのです。
決して扇情的でなく、しかし、じんわりと
心が次第に溶けていく感じが描かれていて、
電車で読みながら、涙ぐんでしまいました。

この『おせん』に収められていた作品を通して印象に残ったのは、
「きびきびと働く」「きりりとした」など、
身体の動きの様を描く言葉の響きです。
形容として書かれているこれらの言葉が
なんともすがすがしい印象でした。

Amazonレビューを見てみたら、
池波正太郎さんが女性を主人公にした作品は
そんなに多くないのですね。
有名な方なので何か読もうと思って、
一冊目としてこの本を読んだのですが、
イレギュラーなものから入ってしまったようです。
でも、とてもよかったです。
淡々とした筆致ながらも、全体として温かく、ほっこりしました。

この他に何を読んだっけ?と最近を思い返すと、
色々読んでいると思うのですが、
『おりょう』(大内美予子)
『出雲の阿国(上・下)』(有吉佐和子)
など、『おせん』同様、女性の生き方を描いたものばかりが
記憶に上がってきます。
他にも、読んだはずなのに、記憶に残っていない…。
偏っているなあ…。

『出雲の阿国』も、相当面白かったです。
「阿国歌舞伎」を始めた女性、阿国。
彼女の生き方はまさに壮絶。
踊りを通しての闘いの日々です。
でも彼女は、どんな状態にあっても、踊れないことが
つらくてたまらない。
踊るためなら、また、自分の理想の踊りのためなら、
と、激しく、強く、生き続けます。
こんなにも、人は、何か1つのことに
我が身を賭すことができるのか…と圧倒されました。

ハブ2:「ワニとハブとひょうたん池で」in『ナイフ』

2010-06-29 20:14:05 | 読書日記
たまたま先週、重松清著『ナイフ』を読みました。
そこに、別の意味のハブの話がありました。
「ワニとハブとひょうたん池で」という話です。

そこでいうハブは、村八分の略で、
無視される、つまはじきにされる、という意味です。

「ワニとハブとひょうたん池で」は、
自分を“ハブ”と自嘲気味に命名する女の子・ミキの一人称語りです。
ワニが出たという噂があるひょうたん池近くでの
奇妙なおばさんとの会話があって、
他のものに比べると、まだ少し、希望がもてる話になっています。

いじめを受けているミキに、先生や親は「話してごらん」と言いますが、
ミキは明るい自分を演じようとがんばります。

 あたしは、「そんなのあるわけないじゃないですか」と笑って答えた。
 先生にチクったりなんかしない。
 そんな恥ずかしいこと、できるわけない。
 プライド。
 それを先生たちは、親もそうだけど、みんな忘れてる。
 だから、
 「イジメに遭ったらすぐに相談しなさい」
 なんてことを平気で言うんだ。(p.42)


でも、ひょうたん池で知り合った奇妙なおばさんには
いじめを受けていることやそれを笑い飛ばしていることなど、
なんとなく話をします。
おばさんは「ふうん」という感じで、ミキの考えをいいとも悪いともいわず
黙って聞いています。
特に立ち入りもせず、また、特に関係を深めるでもなく。

 じゃあ、なんでおばさんには話せるんだろう。
 自分でもよくわからない。
 でも、おばさんはどうせ無関係な人だし、
 「あたし、学校でイジメに遭ってるんですよね。
  もう、まいっちゃって」
 なんて軽い口調で言うと、
 いまの自分ってそんなに不幸じゃないのかもしれないな、と
 なんとなく思えてくるから不思議だ。(p.43)


『ナイフ』は、5つの短編集からなる本ですが、
それらはいずれも中学生を主人公としています。
うち4編はいじめを主題としたもの、
1編が教師対保護者関係と、そことはねじれた位置に存在する子どもの話です。
なので、読んでてかなり暗い気持ちにさせられ、
重松清さんの本を読んだのは1冊目なのですが、
読むのにかなりエネルギーを費やしてしまいました。


ですが、大事なことが書かれているのは分かります。

子どもにもプライドがあり、それを守ろうと必死であることや、
子どもは大人の知らないところで形成した信念を貫こうと
頑張っていることなどから、
大人が子どものためと思ってやっていることが、
大人のエゴに基づいたひとりよがりであることに
気づかせてくれるものではあるように思います。


・・・とはいえ、やはり、かなり、しんどい本でもあります。
なので、何か問題にぶつかった時にではなく、
自分が絶好調で慢心してしまいそうな時にこそ、
読むべき本かもしれません。

母子関係の病理:『スピンクス』

2010-06-08 23:59:59 | 読書日記
今年度の「教育コミュニケーション論」という授業では
”異質性”をどう育てるかということについて話をしました。

その中で、鷲田清一さんの『〈じぶん〉--この不思議な存在』を引用し、
R.D.レインの”他者の他者としての自分”というテーマに触れました。

授業では、鷲田さんにならい、次の4つの母子関係について、
「どれがいちばん危険な関係か?」を考えてもらいました。

 ①彼は母親に駆け寄り、彼女にしっかり抱きつく。
  彼女は彼を抱き返していう。〈お前はお母ちゃんがすき?〉。
  そして彼は彼女をもう一度抱きしめる。

 ②彼は学校を駆け出す。
  お母さんは彼を抱きしめようと腕をひらくが、彼は少し離れて立っている。
  彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。
  彼はいう〈うん〉。
  〈そう、いいわ、おうちへ帰りましょう〉。

 ③彼は学校を駆け出す。
  母親は彼を抱きしめようと腕をひらく。が、彼は近寄らない。
  彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。
  彼はいう〈うん〉。
  彼女は彼に平手打ちを一発くわせていう〈生意気いうんじゃないよ〉。

 ④彼は学校を駆け出す。
  母親は彼を抱きしめようと腕をひらく。が、彼は少し離れて近寄らない。
  彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。
  彼はいう〈うん〉。
  彼女はいう〈だけどお母さんはお前がお母さんを好きなんだってこと、
  わかっているわ〉。
  そして、彼をしっかり抱きしめる。


学生さんたちの話し合いの結果では、
前後の文脈(本当はどんな親子関係なのか)によって解釈が異なること、
母子関係の質としては、それぞれのパターンについて問題を指摘すること、
1人の人間がそれぞれのパターンに移行する可能性があること、
などの意見も出され、もっともだなあと思ったりしました。


鷲田さんは、この④の意味を、レインの論をもとに、

「あなたはじぶんがそのように感じていると考えるかもしれないが、
あなたはほんとうはそのように感じているのではないことをわたしは知っている」
というメッセージでは、《他者の他者》としてのじぶんは、
その存在を認められていない、だからこの関係は危険だ、

と説明します。


今日はこの授業の振り返りだったのですが、
授業では紹介できませんでしたが紹介したかった漫画があります。

だいぶ以前に読んだ漫画、『スピンクス』(山岸涼子)です。
初めて読んだとき、世界観の恐ろしさと、
思いがけないストーリー展開で強烈な印象を抱きました。

主人公は、主体性をすっかり奪われた青年・アースキン。
彼は魔女の館に閉じこめられ、監禁され、自由を奪われています。
壁一面真っ白な部屋で、椅子もベッドもなく、毎日毎日立って過ごしています。
つらい日々なのに、涙も出ません。
表現したいことはたくさんあるのに、表情さえ動かせません。
彼にとって恐怖の時間は、館の女主人・スピンクスとの対面。
スピンクスは動けない彼に、様々な精神的・身体的苦痛を与えます。
彼は自由になりたいと叫びながらも、
「地獄だ地獄だ」、「なんで自分だけこんな目に遭う」と叫びながらも、
なぜか(それでも彼女の腕は暖かい)、(それでも彼女の胸は暖かい)とも。

そのような状態におかれた彼の苦しみが視覚的にも表現されており、
彼の世界がどのように変わっていくのか、
そして彼がどのように生きてきたかが、
描かれている物語です。

線の美しさがまた、恐ろしさを際だたせています。
何よりも、関係性が根深い病理をもたらすというテーマには
背筋をゾクリとされられます。
それが決して作り話ではないように思えるからこそ恐いのです。
興味のある方は是非一度、その世界を覗いてみてください。

『ミッフィーとメラニー』

2010-06-02 22:58:03 | 読書日記
学生に紹介するたび、とても好評なお話を紹介しましょう。

ディック・ブルーナさんの絵本
『ミッフィーとメラニー』です。

この本は、ミッフィーちゃん(=うさこちゃん)シリーズ
第20作目にあたる本です。
20作の間に、ミッフィーちゃんは色々な経験をしてきました。
動物園や海水浴に行ったり、自転車に乗ったり、勉強したり、
おばあちゃんの死を経験したりもしています。

この本でミッフィーは、文通相手のメラニーと対面します。
ミッフィーは白いうさぎなんですが、
メラニーは茶色いうさぎ。
ミッフィーの周りには、今まで白いうさぎしかいませんでした。
ミッフィーにとってメラニーのような茶色いうさぎははじめて。

そこでのミッフィーの様子を、とても素敵に描写している文章があります。
以下、そのまま引用させていただきましょう。

-------------

人(?)生で初めて出会った、人(?)種の違う相手に向かって、ミッフィーはつぶやきます。「あたしのおなか、メラニーちゃんみたいな茶色だったらすてきだったのにな」
 おやすみ前に着替えたときに、それまでワンピースの下に隠れていたメラニーのおなかまでが茶色いことに、ちょっと驚いたんでしょう。そして、いいな、と思ったんでしょうね。
 あちらとこちらの違いを、違いのままに受け止める。すこやかでまっとうな人(?)に、ミッフィーは成長しているようです。ありがたい。肌の色が違うだけで、いわれなき差別や区別をする我ら人間をやすやすと超えるうさぎたち。安らかなふたりの寝顔で一巻の幕は下ります。この安らぎ、この希望。そうだ、これは、ブルーナさんのうたう「イマジン」(byジョン・レノン)だな。


(かわべしょうこ/『MOE』第22巻第5号, 2000年5月1日)
-------------

ミッフィーちゃんはその後も色々な経験をしていきます。
これからもミッフィーちゃんの成長を見守りたいと思います。

矛盾を引き受けて生きる:『悼む人』

2010-06-01 23:47:29 | 読書日記
天童荒太さん著『悼む人』を読みました。

人が死んだ場所を尋ねては、その人がかけがえのない人間であったこと、
その特別な人が確かにこの世に存在し、人生を送っていたことを胸に刻む、
そしてその人の存在を、忘れないように努めると誓う。
そんな生き方をしている男性の話でした。

読み始めた辺り、この主人公の設定が明確になった辺りでは、
何とも強烈な…というのが率直な印象。
しんどそう…というか、わからない…というか。

実のところ、本人も、わからないし、人にうまく説明できないのだそうです。
でも、そうせざるを得ないのだそうです。
上記の一連の行為も、どう説明したらよいか分からず、
彼なりに考え、「悼んでいる」と表現しているのです。

とはいえ、この行為には他者が伴います。
しかも、上記の過程を遂行するためには、
死者について情報を集めなければなりません。

彼の一連の行為は、遺族の神経を逆なでしてしまい
感情を害してしまうことも少なくありません。
「それで死者が喜ぶと思うのか」
「それで冥福を祈っているつもりか」
「お前が立っているその足下がまさに亡くなった場所だ」

また、彼の行為の不可解さから、
彼の行為に対する疑問も多く投げかけられもします。
「十分な情報がないのに悼みを行えるのか」
「自己満足じゃないのか」
「偽善ではないのか」

なぜそんなことをするのか。
自分が与える影響をどう引き受けるのか、
その行為をすることに伴う多くの矛盾にどう答えるのか。
悼むことをやめることができない彼は、
それらから逃げることは出来ません。
しかしそれらの問いは、早々に答えの出るものではありません。

彼は、それらの問いをしっかりと考え抜くことで、
いくつかの問いには「彼なりの」折り合いをつけていきます。
それは他人に合点のいくものであるとは限らないのですが。
そうやって、少しずつ、自分なりに「悼む」ということが
わかりかけてきた、そんな時期の彼が
小説では主に描かれています。
それでもまだ、この「悼む」という行為には、
彼なりの折り合いもつけられない矛盾や、
理解されないことからくる問題や、
彼自身にも説明できない混沌などが付随しています。

それらを背負いながら、悼む行為を続けている彼が描かれています。
それらの問いにも、今後少しずつ、大げさに言うと人生かけて、
「彼なりの」折り合いをつけていくのだろうなと思いました。

この話には色んなテーマがあるように思いますが、
彼が、その中でゆっくりと時間をかけて
変化しているらしいことが、とても印象的でした。

自分に突きつけられる問いに向き合い、考え続けることでしか、
乗り越えられない問題に、
彼は“悩み”に逃げることなく直面し続けます。
それがしんどそう…という印象を私には与えたのですが、
でも、しんどくても向き合わないと余計にしんどくなる、
そういう問いってありますよね。
人生において向き合わねばならない重要な問いは、
逃げても逃げても、後からどこまでも追いかけてくる気がします。

それに向き合い考え抜くというのは、
相当の覚悟や勇気やエネルギーがいるけど、
また、きちんと考えるという力がいるけど、
だからそれらが整うまでも時間がかかるかもしれないけど、
また、それらが整ってもさらに時間がかかるかもしれないけど、
でも、そんな問題は、
考え抜くことでしか前に進めない、
逆に言うと、考え抜くことで前に進める、
そういうことでもあるのだと思います。

とはいうものの、
彼が気づけていない重要な問題もあります。
その問題は、最も大きな矛盾を象徴しているように思うのですが、
彼はそこについては信じられないほどに楽観的で
考えようともしません。
それはとても不条理なものを感じさせますが、
だからこそかえって本質を象徴しているようにも思われます。
不条理を孕み、矛盾を抱え、それに気づくたびに苦しみながら
その都度向き合える問題を考え抜いて、
彼は生きていくのでしょう。

『チョコレート工場の秘密』

2010-05-18 23:10:44 | 読書日記
以前、「チャーリーとチョコレート工場」について書きましたが
原作本『チョコレート工場の秘密』を読みました。

原作本を読んで思ったのは
「しまったこちらを先にしたらよかった
ということでした。

ワンカさん(Wonkaさん:映画ではウォンカさんと訳されていました)の
チョコレート工場では、
チョコレートの滝が川に流れ込んでいて、
それによって絶妙のホイップが可能になっており、
ホイップされたチョコレートが流れる川には太いパイプが突き刺さっていて
そこからチョコレートが吸い上げられていって…
といったように、ものすごいしかけでチョコレートが作られています。
チョコレートを作っているウンパッパ・ルンパッパ人。
くるみ割りを担当するのはリス。
タテ・ヨコ・ナナメどこにでも行ける不思議なエレベーターもあります。

おお、どんな風景なのでしょう

時間があれば、「一体どんなところかなあ」と
いくらでも想像することができるような描写が続くチョコレート工場なのですが、
私は先に映画を見てしまっていたので
「ああ、あんな感じあんな感じ」というように、
映画の映像をあてはめて理解してしまうということをしてしまうのです。

それはそれで、イメージが湧いて理解しやすくていいのですが、
先に映画を観ていなかったら、どんな想像をしたんだろう?と
不可能なことを考えたりするのでした。

以前、京都の三十三間堂に行った時、
有名な千体千手観音立像の両脇に、風神像、雷神像が置かれているのを観ました。
その時にも、「あ、これ知ってる」という気持ちになりました。

でも、風神も雷神も観た事がないのですから、なんか変な感じもしました。
でも、雷神様といえば、こんな太鼓をしょっていて(高木ブーの影響?)
風神様といえば、風を操作する大きな袋をもっていて、
2人とも、ちょっと怖い顔をしていて(でも人間をアレンジした感じ)
というのが、「正解」だと思っています。
私の中の典型的なイメージは俵屋宗達の「風神雷神図屏風」の風神雷神です。
それ以外の風神雷神をイメージすると、パロディになってしまいます。
つまり、原形(俵屋宗達の風神雷神)をベースにして
アレンジしたものを考える事はできるけど、
まったく自由なものを思い描いた時には、むしろ
「え?これって風神&雷神?」と思ってしまうわけです。
「正解がない」とは思えないんですよね。

などと考えた事も思い出したりしながら、
一旦イメージを与えられて、それで理解してしまうと、
それに縛られずに自由にイメージするのは難しいもんだな、
と改めて思いました。
私の頭が固いだけかもしれませんが。

とはいえ、先に与えられたイメージと照らし合わせながら
ここのここがこうなっているなら、あそこはどうなんだろう?など
与えられたイメージをベースにしながら遊ぶ事ができたのは、
映画を先に観てたからでしょう。
結局、映画を観ていなくても、挿絵などに助けられながら、
イメージを広げていくわけですから、
イメージを先につけられてしまったことを特に残念がることもないのかもしれません。

余談ですが、本の挿絵もとっても素敵でした。
Quentin Blakeという方だそうです。

因襲の支配力:『生きながら火に焼かれて』

2010-05-03 17:06:36 | 読書日記
『生きながら火に焼かれて』を読みました。
ふと図書館で手にしたら、
表紙に白いマスクをした女性の顔がアップで写されていて
ギョッとしました。

それで読み始めました。

この本は、17歳の時に恋をしたことが原因で
義兄に火あぶりにされ、社会福祉団体によって
救出された女性・スアド(偽名)の記録です。

彼女は1957年か1958年に生まれた、とされるので
なので、彼女が火あぶりにされたのは
1970年代半ば、ということになります。
そんな昔ではありません。

彼女が育ったのは、中東シスヨルダンの町。
そこでは、女の子には学校に通う権利はない。
そもそも権利と呼べるものは何ひとつない。
ひとりで歩く自由さえない。
男たちが勝手に定め、盲目的に守り続けてきた法に従い、
朝から晩まで家事、畑仕事、家畜の世話を
奴隷のように黙々とこなし、10代の後半にさしかかるころ、
親の決めた相手と結婚し、夫となった者に服従しながら
男の子を産まなくてはならない。
女の子ばかり産んでいると夫から捨てられる。

そこでは、女の子は家畜以下なのです。
「羊は羊毛をもたらしてくれる。
 牛は乳をしぼることができるし子牛を生んでくれる。
 それらは家に金をもたらしてくれる。
 しかし娘は家族の何の役にも立てない。」
女の子たちは、そう言い聞かされて育つのです。

女の子が生まれて、そのまま殺されたとしても
誰も何も言わないのです。
それはまったく「普通」のこと。

もしも娘が、結婚前に恋をしたら、
それは家族にとっての恥になり、家族は村にいられなくなります。
なので、結婚前に恋をするなどという娘は
生かしておく訳にはいかない。
それが事実かどうかは問題ではなく、村にそういう噂が立ったら
その責任を家族はとらないといけないのです。
それは「名誉の殺人」と呼ばれるのです。

スアドは恋をし、あろうことか妊娠してしまいます。
自分の行為を隠しようがありません。
そして、ある日、義兄によって火をつけられるのです。

幸いながら一命はとりとめましたがやけどはひどい。
加えて家族は彼女の死しか望まいため、
治療を頼むではなく毒薬を飲ませようとします。

そんな中で、社会福祉団体のジャックリーヌに出会い
スイスへと救出されます。

スイスの病院に着いた彼女は、病院で働く女性たちの命を心配し続けます。
「あそこの女性を見て、男の人と話してる。殺されてしまうわ。」
「あの女性は脚も見せてるわよ。脚を出して歩くなんて普通じゃないわ。」
「目にお化粧するなんて…」
ジャックリーヌは繰り返し、女性はお化粧するのが普通で、
外出もするし恋人を持つ権利もあることを繰り返しますが、
スアドはなかなか理解できません。
「あの女性には、もう二度と会えないわね。
 だって、彼女は死んでしまうもの」
とジャックリーヌの顔を見る度繰り返し、その女性が
その後も病院で働いている姿を見かけると、
ほっとして神様に感謝したといいます。

重い火傷の跡を嘆きながらも、彼女は家族を得ます。
ですがその後も悪夢に苦しんだり鬱病にもかかったり、
自分の人生に苦しみます。
ようやく落ち着いてきた頃、スアドはジャックリーヌから
自分が生きた現実の証言をするように依頼されます。
「名誉の殺人」から人間を救う活動には、
それを知ってもらう必要があり、関心をもってもらう必要が
あったからです。

そこでのスアドの言葉、長くなりますが途中までのところを引用しましょう。

「私の生まれた国では、女性には暮らしと呼べるものなどないんです。多くの娘が虐待され、打たれ、首を絞められ、火あぶりにされ、殺されています。それでも、あの国ではそれが当たり前のことなんです。義理の兄の仕事を遂行しようと、母は自分の娘である私に毒をもろうとしました。母にとっては当然のことなんです。めった打ちにあって当たり前、首を絞められても当たり前、虐待されろことが普通なんです。父はよく言っていました。牛や羊のほうが娘などよりずっと価値があると。もし死にたくなかったら口をつぐんで服従し、はいつくばい、処女のまま結婚して息子を産むことです。もし私も野原で男性と会っていなかったら、こうした
生活をしていたでしょう。産んだ子供たちは私のようになって、子孫の子孫も、同じことを繰り返すでしょう。もし今でもあの国で生きていたら、母のように産んだばかりの女の赤ちゃんを窒息死させていたでしょう。娘が火あぶりに遭っているのを見ても、ほっておくでしょう。向こうではそれが普通のことだからです。
 今は、こうしたすべてのことにぞっとします。凶悪なことです。でも、あの村で生きていれば、同じようにするのです。向こうの病院のベッドで死にかけていたときでさえ、死んで当然なのだと思っていました。それでも、ヨーロッパに来て、二十五歳ぐらいになり、まわりの人たちの話を聞くうちに、私にも物事が理解できるようになってきました。女性を火あぶりにするなどとんでもないと考えられている国がたくさんあること、女の子も男の子と同様に育てられている国のほうが一般的なのだということ。私は村のことしか知らなかったのです。村がすべてだったんです。市場を越えると、もうそこは異常な世界でした。というのも、そこでは娘たちが化粧をし、短いスカートをはき胸元を見せて歩いていましたから。彼女たちが異常で、私の家族は正常。私たちは純粋で、市場の向こうの人々は不純、そう頭に叩きこまれていました。
 女の子はなぜ学校に行かせてもらえないか? 世の中のことを知ってはならないからです。私たちにとってもっとも重要な人物、それは両親。両親が言うことには、何があろうと従わなくてはならない。知識も教育も法律も、すベて両親から与えられるのです。だから女の子に学校は必要ないのです。通学かばんを手にバスに乗ったり、きれいな服を着たりしなくてすむように。書いたり読んだりできるようになると頭がよくなりすぎてしまいますから、女の子にとってはよくないんです。私の弟は家族で唯一の男の子でした。ヨーロッパの男性と同じような服を着て、学校にも映画にも床屋にも、自由に外出できるのです、なぜでしょう。それは両脚のあいだにおちんちんがついているからです。弟は幸いにもふたりの息子に恵まれました。でも、一番ラッキーだったのは彼ではありません。この世に生を享けなかった彼の娘たちです。生まれてこなかったという最高のチャンスに彼女たちは恵まれたのです。」

「普通」、「当たり前」ってなんなんだろうか?
ということを改めて考えさせられます。
私たちは、因襲の中で生まれ育ちます。
そこにはその文化における価値観や常識が盛り込まれています。
それはあまりに当たり前すぎて、
たとえその因襲が、
自分に対してどれだけひどい仕打ちを与えるものであっても、
それとは違う価値観が存在すること、
あるいはその因襲を疑ってみることなど、
なかなかできることではないのかもしれません。
つまり、因襲の力、特定の価値を普遍的な価値と感じさせる力に、
私たちは知らないうちに支配されているのだと思います。

彼女自身も、自分が育った因襲から抜け出した生き方をするのは
大変難しいことのようでした。

たとえば、
上記において彼女は教育を受けられないことを
批判的に述べることができるようになっていますが、
その前は、タイミングが悪くて語学学校に行けなかったことについて
「当の私は学校のことなど考えもしなかった」と言っています。
村では学校に通う娘は、
「学校なんかに行くと結婚できない」とばかにされていたからです。
彼女自身もそれを信じて学校に通うことをばかにしていたのです。

また、イスラム教徒である彼女は、
ユダヤ人の経営する精肉店にはどうしても行けなかった、と言います。
幼い頃からユダヤ人に近づいてはいけないと教えられてきたからです。
なせなら、彼らは「ブタ」だから。
ユダヤ人を見てもいけないと言われていた。
ユダヤ人は私たちとは違う存在。昼と夜ほど違う存在。
あるいは羊毛と絹のようなもの。羊毛はユダヤ人、絹はイスラム教信者。
「さんざんそう頭に叩き込まれてきたので、疑問を持つことさえなく、
 そういうものだと思い込んでいた。」
のだそうです。
「今になって思えば、本当にばかげた考え方だ。
 そもそも、私自身、ユダヤ人から痛い目に遭わされたことなど
 一度もない。」
と思えるようになっても、
どうしても、ユダヤ人の経営する精肉店にはどうしても行けなかったのです。
一度そこの肉を食べたらとてもおいしく店もきれいだったのに、
それでも、チュニジア人の経営する肉屋に足が向いてしまう。
「単純に彼らがチュニジア人だからだ。
 なぜなのか自分でもよくわからない。
 心の中では、ユダヤのお肉屋さんにおいしいお肉を
 買いに行きたいと思っているのに。」

さらに、結婚前、人生においてもっとも恥ずかしいと感じていたのは、
結婚していないことだったと言います。
村では、結婚していないことは何より恥ずかしいことだったのです。
彼女自身も言うように、
村での暮らしを忘れたいと切望しているのに、
一方では村に根づいた考え方を以前として引きずって
生きているところが、確かにあったのです。

自分がとらわれている因襲が、問題のあるものだと気づき、
それに対して批判的に検討することができるようになるだけでも
きっととても難しいことだろうと思います。

「当たり前」、「普通」。
その言葉は安易に使われますが、一度その言葉を掘り起こすと
私たちが何を当たり前とし、何を普通としているか、
そこにどのような価値観が含まれているか、分かるでしょうか。
そしてその価値観を批判的に考えていくことができるでしょうか。
「普通」によって支えられている日常において、
どこから手をつけたらいいのでしょうか。

そしてそれができたとしても、その後、さらに、
自分自身が、その「当たり前」「普通」から
脱却して生きるには、どうしたらいいのでしょうか。
それはもう一段、ハードルの高い問題のようであるなあと
そんなことも考えました。

そしてもう1つ、スアドのこの物語は、
私にとっての「普通」「当たり前」からはかけ離れています。
私たちの「普通」「当たり前」と
スアドの村の「普通」「当たり前」とは対立します。
そのような状況に、どう向き合ったらいいのか、
これも本当に難しい問題です。
価値観の対立による紛争の根深さを垣間見た気もしました。

大きすぎて、私には解けない問題も含まれていますが、
色々なことを考えさせられた本でした。

『いい奴じゃん』:暗闇にとどまらない力

2010-04-17 06:39:45 | 読書日記
とある本によると、A.スミスは『道徳感情論』で
以下のように述べているそうです。

 あなたが逆境に陥っているのなら、
 孤独の闇の中で1人で悲しんでいてはいけないし、
 親しい友達の寛大な同情によって自分の悲しみを調節してもいけない。
 できるだけ早く世間と社会の白日の下に戻りなさい。

至極もっともな意見です。


でも、こういうことは、どのようにして可能になるのでしょう?


大好きな作家の1人に、清水義範さんという方がおられます。
彼の文章は、いつも冷静かつハートウォーミングで
心を穏やかにさせてくれます(とはいえ毒もあっておもしろい)。

その中の『いい奴じゃん』(講談社)という本は、
清水氏の作品の中ではちょっと異色かもしれませんが、
まさに、上記のことを考える上でヒントになる本です。
今日は、このことをテーマに『いい奴じゃん』の紹介をしましょう。

* * * * *

『いい奴じゃん』は、荒木鮎太という青年を主人公とした
清水氏曰くの「明朗青春小説」です。

この本には、全篇通して、
鮎太の心に沿うことで癒されるシーンがいくつも出てきます。
たとえば、、、

・そんなふうに、年齢で人生を制限しなくてもいいのにな、と鮎太は思うのだった。あんまり自分を追いつめては、苦しいばかりなんだから。その年までに自分にできることを発見しなきゃ負け組の生き方になる、というのは生きるってことを狭く考えすぎている。

・いつだって強烈な皮肉を口にして世の中を笑いのめしているようなこいつにも、口に出せない心の傷があるってことなのか、と鮎太は思った。それはとても人間らしいことなんだ、というのが鮎太の心に浮かんだ感想だった。

・「やっぱ私って駄目なんだよ。今度のことで私にはわかったの。私って、つまらない人間で、いいとこなんかひとつもないの」その言葉を聞いて、鮎太の中で何かに火がついて、メラメラと燃えだした。そんな風に考えさせてはいけない、と思ったのだ。人間はまず第一に、自分が好きでなきゃいけないのだ。根本にそれがなければ、ものすごく生きにくい人生になってしまう。

・「一番になりたいと願うのはいいことかもしれないが、一番じゃなきゃ受け入れられないというのは、生きにくくなるだけだよ。そんなふうに思うんじゃなくて、自分らしく生きてそれで満足だっていう生き方もあると思うよ」(略)鮎太がじっくりと主張したのは、ありのままを生きる事にも価値はあるんじゃないか、ということだった。

などなど…。

ああ、でも、こうやって抜粋するとなんだか、せっかくの言葉が
なんだかきちんと響かないような気がします。
清水氏には本当に申し訳ない限りです。
読んでいると、こういう言葉が、本当に、
とても素直に響いてくるのです。
鮎太がそう思うなら、きっとそうなんだろうと、
そう思わせてくれるのです。
清水氏が展開するハートウォーミングな世界のもつ力だと思います。
その世界の中で、これらの言葉は、本当にごくごく自然におさまっているのです。


さて。
で、冒頭の件についてです。


鮎太がよく行く定食屋のアルバイトにナオちゃんという女の子がいます。
ナオちゃんは次第に鮎太に心理的に頼るようになるのですが、
ある日、ぼろぼろの状態で鮎太に連絡をとります。
鮎太は、ナオちゃんを助けようと向き合います。
その時の行動や考え方は、
誰かを支えようとする時にも、自分自身が立ち上がろうとする時にも
とっても本質的なところをついたものがちりばめられています。

そんな中で、私にとって、もっとも印象に残ったのは下記のくだりでした。

・ちゃんと外出着に着替えることは、生活にメリハリがつく、いいことのような気がした。

・食事をすませて、鮎太は皿を洗った。ナオは洗ったものを布巾でふいて、しまう役をした。今日のようなナオには、段取りよくテキパキと生きる姿を見せるのがいいんじゃないか、と思ったからだ。台所の流しに洗い物がだんだんたまっていく、というような生活は人間をゆっくりと蝕んでいくからだ。

「世間と社会と白日の下に戻る」というのは、
こういうところから始まるのかもしれません。
「生活する」ことの大切さ。
それが何よりも、その人を支えるということ。
暗闇に落とされた時でも、とにかくまずは、生活すること。
それが何よりの、「暗闇にとどまらない力」なのだと改めて思わせてくれます。

そんな、本質的なことが、さらりと書かれてあって、
清水氏は本当にすごい人だと思いました。

重たいトーンで書いてしまいましたが、全篇通してとっても明るいです。
興味を持たれた方は、是非是非、読んでみてください