『生きながら火に焼かれて』を読みました。
ふと図書館で手にしたら、
表紙に白いマスクをした女性の顔がアップで写されていて
ギョッとしました。
それで読み始めました。
この本は、17歳の時に恋をしたことが原因で
義兄に火あぶりにされ、社会福祉団体によって
救出された女性・スアド(偽名)の記録です。
彼女は1957年か1958年に生まれた、とされるので
なので、彼女が火あぶりにされたのは
1970年代半ば、ということになります。
そんな昔ではありません。
彼女が育ったのは、中東シスヨルダンの町。
そこでは、女の子には学校に通う権利はない。
そもそも権利と呼べるものは何ひとつない。
ひとりで歩く自由さえない。
男たちが勝手に定め、盲目的に守り続けてきた法に従い、
朝から晩まで家事、畑仕事、家畜の世話を
奴隷のように黙々とこなし、10代の後半にさしかかるころ、
親の決めた相手と結婚し、夫となった者に服従しながら
男の子を産まなくてはならない。
女の子ばかり産んでいると夫から捨てられる。
そこでは、女の子は家畜以下なのです。
「羊は羊毛をもたらしてくれる。
牛は乳をしぼることができるし子牛を生んでくれる。
それらは家に金をもたらしてくれる。
しかし娘は家族の何の役にも立てない。」
女の子たちは、そう言い聞かされて育つのです。
女の子が生まれて、そのまま殺されたとしても
誰も何も言わないのです。
それはまったく「普通」のこと。
もしも娘が、結婚前に恋をしたら、
それは家族にとっての恥になり、家族は村にいられなくなります。
なので、結婚前に恋をするなどという娘は
生かしておく訳にはいかない。
それが事実かどうかは問題ではなく、村にそういう噂が立ったら
その責任を家族はとらないといけないのです。
それは「名誉の殺人」と呼ばれるのです。
スアドは恋をし、あろうことか妊娠してしまいます。
自分の行為を隠しようがありません。
そして、ある日、義兄によって火をつけられるのです。
幸いながら一命はとりとめましたがやけどはひどい。
加えて家族は彼女の死しか望まいため、
治療を頼むではなく毒薬を飲ませようとします。
そんな中で、社会福祉団体のジャックリーヌに出会い
スイスへと救出されます。
スイスの病院に着いた彼女は、病院で働く女性たちの命を心配し続けます。
「あそこの女性を見て、男の人と話してる。殺されてしまうわ。」
「あの女性は脚も見せてるわよ。脚を出して歩くなんて普通じゃないわ。」
「目にお化粧するなんて…」
ジャックリーヌは繰り返し、女性はお化粧するのが普通で、
外出もするし恋人を持つ権利もあることを繰り返しますが、
スアドはなかなか理解できません。
「あの女性には、もう二度と会えないわね。
だって、彼女は死んでしまうもの」
とジャックリーヌの顔を見る度繰り返し、その女性が
その後も病院で働いている姿を見かけると、
ほっとして神様に感謝したといいます。
重い火傷の跡を嘆きながらも、彼女は家族を得ます。
ですがその後も悪夢に苦しんだり鬱病にもかかったり、
自分の人生に苦しみます。
ようやく落ち着いてきた頃、スアドはジャックリーヌから
自分が生きた現実の証言をするように依頼されます。
「名誉の殺人」から人間を救う活動には、
それを知ってもらう必要があり、関心をもってもらう必要が
あったからです。
そこでのスアドの言葉、長くなりますが途中までのところを引用しましょう。
「私の生まれた国では、女性には暮らしと呼べるものなどないんです。多くの娘が虐待され、打たれ、首を絞められ、火あぶりにされ、殺されています。それでも、あの国ではそれが当たり前のことなんです。義理の兄の仕事を遂行しようと、母は自分の娘である私に毒をもろうとしました。母にとっては当然のことなんです。めった打ちにあって当たり前、首を絞められても当たり前、虐待されろことが普通なんです。父はよく言っていました。牛や羊のほうが娘などよりずっと価値があると。もし死にたくなかったら口をつぐんで服従し、はいつくばい、処女のまま結婚して息子を産むことです。もし私も野原で男性と会っていなかったら、こうした
生活をしていたでしょう。産んだ子供たちは私のようになって、子孫の子孫も、同じことを繰り返すでしょう。もし今でもあの国で生きていたら、母のように産んだばかりの女の赤ちゃんを窒息死させていたでしょう。娘が火あぶりに遭っているのを見ても、ほっておくでしょう。向こうではそれが普通のことだからです。
今は、こうしたすべてのことにぞっとします。凶悪なことです。でも、あの村で生きていれば、同じようにするのです。向こうの病院のベッドで死にかけていたときでさえ、死んで当然なのだと思っていました。それでも、ヨーロッパに来て、二十五歳ぐらいになり、まわりの人たちの話を聞くうちに、私にも物事が理解できるようになってきました。女性を火あぶりにするなどとんでもないと考えられている国がたくさんあること、女の子も男の子と同様に育てられている国のほうが一般的なのだということ。私は村のことしか知らなかったのです。村がすべてだったんです。市場を越えると、もうそこは異常な世界でした。というのも、そこでは娘たちが化粧をし、短いスカートをはき胸元を見せて歩いていましたから。彼女たちが異常で、私の家族は正常。私たちは純粋で、市場の向こうの人々は不純、そう頭に叩きこまれていました。
女の子はなぜ学校に行かせてもらえないか? 世の中のことを知ってはならないからです。私たちにとってもっとも重要な人物、それは両親。両親が言うことには、何があろうと従わなくてはならない。知識も教育も法律も、すベて両親から与えられるのです。だから女の子に学校は必要ないのです。通学かばんを手にバスに乗ったり、きれいな服を着たりしなくてすむように。書いたり読んだりできるようになると頭がよくなりすぎてしまいますから、女の子にとってはよくないんです。私の弟は家族で唯一の男の子でした。ヨーロッパの男性と同じような服を着て、学校にも映画にも床屋にも、自由に外出できるのです、なぜでしょう。それは両脚のあいだにおちんちんがついているからです。弟は幸いにもふたりの息子に恵まれました。でも、一番ラッキーだったのは彼ではありません。この世に生を享けなかった彼の娘たちです。生まれてこなかったという最高のチャンスに彼女たちは恵まれたのです。」
「普通」、「当たり前」ってなんなんだろうか?
ということを改めて考えさせられます。
私たちは、因襲の中で生まれ育ちます。
そこにはその文化における価値観や常識が盛り込まれています。
それはあまりに当たり前すぎて、
たとえその因襲が、
自分に対してどれだけひどい仕打ちを与えるものであっても、
それとは違う価値観が存在すること、
あるいはその因襲を疑ってみることなど、
なかなかできることではないのかもしれません。
つまり、因襲の力、特定の価値を普遍的な価値と感じさせる力に、
私たちは知らないうちに支配されているのだと思います。
彼女自身も、自分が育った因襲から抜け出した生き方をするのは
大変難しいことのようでした。
たとえば、
上記において彼女は教育を受けられないことを
批判的に述べることができるようになっていますが、
その前は、タイミングが悪くて語学学校に行けなかったことについて
「当の私は学校のことなど考えもしなかった」と言っています。
村では学校に通う娘は、
「学校なんかに行くと結婚できない」とばかにされていたからです。
彼女自身もそれを信じて学校に通うことをばかにしていたのです。
また、イスラム教徒である彼女は、
ユダヤ人の経営する精肉店にはどうしても行けなかった、と言います。
幼い頃からユダヤ人に近づいてはいけないと教えられてきたからです。
なせなら、彼らは「ブタ」だから。
ユダヤ人を見てもいけないと言われていた。
ユダヤ人は私たちとは違う存在。昼と夜ほど違う存在。
あるいは羊毛と絹のようなもの。羊毛はユダヤ人、絹はイスラム教信者。
「さんざんそう頭に叩き込まれてきたので、疑問を持つことさえなく、
そういうものだと思い込んでいた。」
のだそうです。
「今になって思えば、本当にばかげた考え方だ。
そもそも、私自身、ユダヤ人から痛い目に遭わされたことなど
一度もない。」
と思えるようになっても、
どうしても、ユダヤ人の経営する精肉店にはどうしても行けなかったのです。
一度そこの肉を食べたらとてもおいしく店もきれいだったのに、
それでも、チュニジア人の経営する肉屋に足が向いてしまう。
「単純に彼らがチュニジア人だからだ。
なぜなのか自分でもよくわからない。
心の中では、ユダヤのお肉屋さんにおいしいお肉を
買いに行きたいと思っているのに。」
さらに、結婚前、人生においてもっとも恥ずかしいと感じていたのは、
結婚していないことだったと言います。
村では、結婚していないことは何より恥ずかしいことだったのです。
彼女自身も言うように、
村での暮らしを忘れたいと切望しているのに、
一方では村に根づいた考え方を以前として引きずって
生きているところが、確かにあったのです。
自分がとらわれている因襲が、問題のあるものだと気づき、
それに対して批判的に検討することができるようになるだけでも
きっととても難しいことだろうと思います。
「当たり前」、「普通」。
その言葉は安易に使われますが、一度その言葉を掘り起こすと
私たちが何を当たり前とし、何を普通としているか、
そこにどのような価値観が含まれているか、分かるでしょうか。
そしてその価値観を批判的に考えていくことができるでしょうか。
「普通」によって支えられている日常において、
どこから手をつけたらいいのでしょうか。
そしてそれができたとしても、その後、さらに、
自分自身が、その「当たり前」「普通」から
脱却して生きるには、どうしたらいいのでしょうか。
それはもう一段、ハードルの高い問題のようであるなあと
そんなことも考えました。
そしてもう1つ、スアドのこの物語は、
私にとっての「普通」「当たり前」からはかけ離れています。
私たちの「普通」「当たり前」と
スアドの村の「普通」「当たり前」とは対立します。
そのような状況に、どう向き合ったらいいのか、
これも本当に難しい問題です。
価値観の対立による紛争の根深さを垣間見た気もしました。
大きすぎて、私には解けない問題も含まれていますが、
色々なことを考えさせられた本でした。