KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

セルフネグレクト(ちょっと追記)

2012-11-01 | KOFUKU日記




【一瞬の陽射しをお庭でキャッチ中のちびさんたち】
【お下がりを着せてみたけど、やっぱり個性が違うからしっくりこない】
【大人たちよりサイズも少し大きいからお洋服を用意してあげねばなぁ】



さてさて、やっと本題に到達したりして…( ̄▽ ̄;)
実は一個前の10月まとめの後半に書いたんですが
20000文字超えちゃいました…∩(・∀・)∩
ということで、改めて。
あっ、愚痴っぽい感じになるかもなので、ヤな方はスルーしてくださいね!



皆さん「セルフネグレクト(自己放棄)」ってご存知ですか?

もう、結構前になりますがNHKで高齢者のセルフネグレクトについて特集をしていました。
孤独死の手前にあるのが「セルフネグレクト」とも言える状態だそうです。
本当にたまたま、本当に偶然に、その番組を拝見したんですが、
その内容は非常に我が身につまされるものでした。

番組で取り上げられていた80代のおじいちゃまは、
遊びもせず真面目に生きてきた方で、ご夫婦にはお子様もなく、
退職後は奥様と睦まじく二人暮らし。
ところが数年前に最愛の奥様に先立たれてしまったそうです。
奥様が一番最後に言った言葉が「家に連れて帰ってね」という言葉だったとか。
その時の奥様の様子を思い出せば、何年経った今でも涙が溢れる。
日舞をやっておられた美しい奥様のお写真を飾り、
お食事を小さな食器に持って仏前にあげ、話しかけてはお経を読む。
一緒に暮らしていた家は思い出が溢れていて、
離れたくないけど、離れなくてはいられない。
複雑な気持ちの中、今は別の小さなお家を借りて、
奥様の生前から飼っていた白い猫ちゃんを唯一の家族として、
病をもつ体で一人暮らしをしておられる、というものでした。


ちょうど、実家の家族が仕事の内容や通う場所が変わったので
今まで朝に昼に晩に実家家族に逢えていたものが、
時間的にすれ違いになって、直接はほとんど会えなくなりまして…。
私は公共の乗り物に一人で乗れないので、実家と自宅を送り迎えしてくれる
じいちゃんに週に何回か会えるだけになっちゃいました。
そのおじいちゃんも、秋になって寒さから体調が悪いので、
毎日の行き来もなかなか難しい時期になりました。ますます疎遠です。

じいちゃんが甥っ子や妹を学校等まで送って行って、
その足で私を送り迎えしてくれて、私は実家で犬と一緒に留守番。
そして帰りはまたじいちゃんにお世話になり、その足でじいちゃんは妹家族を拾って帰る。
まあ、そういう感じでしょうか。
お互い、それぞれの時間帯で、お互いのおウチを行ったり来たりしながら、
じいちゃんの体調もあるので、それぞれのおウチに数日ずつ泊まったりして、
お互いの家やちびさんたちの管理をしながら今は暮らしています。

これは、どうやら春になるくらいまで続くらしい…
とにかく、ひじょ~~~~~に寂しい状況です(´;ω;`)

そんくらいで~?っと思うでしょ?
でもねぇ、これが本当に不安で淋しいものなんです。
特に不安症のある私にはいざという時に頼れる人が傍にいない、
というのは、今は本当に、本当にココロにハードな状況なんです。
おどろおどろしいBGM背負って、不安がガンガンと目前に迫ってくる様は
ある意味、死の恐怖を感じるのと同じくらいの出来事なんです。
そのくらい不安が襲ってくるものなのです。

そうなると、何をしていても、何を考えていても、
悲しいことにしかリンクして行かないの。
(この世に悲しみにリンクしていかないものが無いのからなんだけど…(^^;)
そこから離れようとしたって、気持ちが離れていきません。
もうこうなるとどーしよーもありません。

だから相方さんを失ってからは不安しか存在しなかったデス。
ここに帰ってくるしか人に迷惑かけず
(イヤ、家族には存在だけでめっちゃ迷惑かけてますが)
自分とちびっこたちの命を守る方法が私にはなかったんですよ。
何があったって、二人の忘れ形見のこの子達を路頭に迷わすわけにいかないものね。


な~の~に~(´;ω;`)これだよ、この状況だよ。
もうねぇ、9月からさらに茫然自失の人です。
あんまりさみしすぎて、全く見ないTVもつけっぱなしになりました。
実家に来てもパソコンを立ち上げっぱなしです。困ったものです。

人は言います。
「何か気を紛らわすことをしたら?」

何を?一体、何をすればいいのーーー?
あたしが気が紛れることは、大好きなことは、興味のあることは、
全部彼らと密接につながっているものなんだよ?
彼らのタマシイ、そのものなんだよ?そして、自分のイノチだったんだよ?
自分の人生とイノチそのものを失ったのに、他に何があるわけ??
「一つくらいあるでしょ」?
イヤ、ないって。
だって他に何かに目が行くような生き方してきてないもん。
いつも100パーで生きてきたのだから。

思い出と他の人が呼ぶ中にあるものは、
今も現実に私の中にあって、その現実をまだ受け入れられない。
未だに、彼らは同じ場所にいて、一向に思い出になんかならないのだから。
だから過去の記憶のあるものは聞けないし、見れないんだもん。
変わりゆくものや、新しいものしか、心が受け入れないんだもの。
でも、そういうふうにココロを惹きつけるものがこの世に残ってない。

そんな風に思っている時に、偶然にこの番組を目にしました。
不安がピークの時でした。(今もそう変わらないけれど)

目が釘付けになりました。
なぜならTVに映るご老人の姿は、間違いなく、今の私だったからです。

とても気になって番組を見ながら
「セルフ・ネグレクト(自己放任)」の定義を引いてみました。

成人が通常の生活を維持するために必要な行為を行う
意欲・能力を喪失し、自己の健康・安全を損なうこと。
必要な食事をとらず、医療を拒否し、不衛生な環境で生活を続け、
家族や周囲から孤立し、孤独死に至る場合がある。
自己放任


と、ありました。


さらに調べてみました。
セルフ・ネグレクトの特徴は以下のようなことが挙げられるそうです。

 (1)身体が極端に不衛生
 (2)失禁や排泄物の放置
 (3)住環境が極端に不衛生
 (4)通常と異なって見える生活状況
 (5)生命を脅かす自身による治療やケアの放置
 (6)必要な医療・サービスの拒否
 (7)不適当な金銭・財産管理
 (8)地域の中での孤立


上記のような事柄が1つでも当てはまる場合はセルフ・ネグレクトの疑いがあるとのこと。

ヮ(゜д゜)ォ! 一つどころか…ほぼ全部じゃんか…。

一人じゃ不安でお風呂にも入れない、
チビ達をおいて部屋を空けるのは不安、
頭を洗って目をつぶるのも不安。目を瞑りたくない。
本当なら掃除もしたくないし、何もしたくない。
誰にも会いたくないし、話すのも嫌だし、関わりたくない。
怪我しても病院になんか行きたくない。

………
ほーら、アタシだ…


何故このようなことが起こるのだろう?
以下のようなことが挙げられているそう。

 (1)家族・親族・地域・近隣等からの孤立
 (2)ライフイベントによる生きる意欲の喪失
 (3)認知症、精神疾患、アルコール問題などによる認知・判断力の低下
 (4)世間体、遠慮、気兼ねによる支援の拒否
 (5)サービスの多様化・複雑化による手続きの難しさ
 (6)家族からの虐待による生きる意欲の喪失
 (7)家族を介護した後の喪失感や経済的困窮
 (8)介護者が高齢あるいは何らかの障害を持っている場合
 (9)経済的困窮
 (10)引きこもりからの移行
 (11)東日本大震災の影響


これまた、パーフェクトといっていいほど当てはまってるじゃないかぁ…(´Д`;)


アタシは…今のアタシは、本当に脆い。悔しいけど、それが本当だ。
本当に簡単に疲れてしまうし、人の言葉や波動に思う以上に影響を受けてしまう。
相手から出ているものに驚異を感じれば、何にでも不安感や恐怖を感じるから、
実家の家族以外とは必要以上に直接的な交流を持ちたくない。
無防備なときに自分から傷つきに行くのはもう十分だよ。
私の心がそう言っている。

私は自分のやりたいと思うことを全てやってきた。
それをやるために、必死にやってきたのだ。それが生き方だった。
第一、なんで、やりたくないことして生きて行けんのか意味わかんないぞ?
なんで、やりたいことをする為に一生懸命になんないんだ?
なんで、みんな、やりたくもないことを、自分にできるって事だけで選んじゃうんだ?
あたしに言わせれば、夢に向かって歩かない世の中の方が100倍不思議だ。
だって「夢」は「現実」じゃない。
ずっと夢だけ見ててどうすんだ?人間は現実に生きてんのに?

だから相方さんと二人、夢を現実にしながら目標に向かってストイックに生きてきた。
そのためには、命をかけ、人生をかけ、かけられるものは全部かけて100%で走ってきた。
その為にお互い無理もしたし、色んなものも手放したし、
およそ普通の人の願う幸せは叶わないものと思って生きてきた。
それでも、後悔は全くなかった。
私たちには生すべきことがあり、その為に生きてることが幸せだったし、
周りには理解されることが少なかったから、いろいろ厳しいこともあったが、
お互い、一緒にそばに居て、一緒に走れれば、それが一番大切だった。

恥ずかしがり屋の相方さんが、私に時々、真面目に言った。
「こうして一緒にいることが何よりも大切なことだよ。それが全てだから」
私は愛しているという言葉よりも、ずっと嬉しかった。

そのすべての夢を叶える為の、いわば生きている理由を形成する
どうしても欠かせないものを失ったのに、
一体、私に何が残っているというのだろう?
何をすれば、それが埋まるというのだろうか?
これ以上これ以下のものなんか探せる訳ないじゃないか。
ずっと100の場所に居たんだもの。
私がどうしても欲しかったものはもう手には入ら無いのに。

いつになっても、思い出になってくれない人との日々は
すべてのことが悲しみにリンクしてしまうきっかけになってしまった。
彼らにリンクしてしまうものは、生きることに繋がっているものは
私にとって、最も大切で、最も悲しみを生むものだから。
だから、今は好きなことを思い出すのが、好きな事をする事が、一番辛い。
だから、サワレナイ。ミレナイ。キケナイ。

「全ては大地に立つ一本の木のように廻っている」
そう思って生きてる私にとって
「生きる」ことが「仕事」であって「生活」そのものなのに
生活と仕事が別だなんて分けられない。
だって、私の中で全てはひとつの輪の中にあるものだから。

さらにだよ?私には実質的に家族はいないのと同じ。
家族は金銭的に何もできない。自分で生きてくしかない。
この現在の自分の置かれた状況的にかなりハードな環境下で、
未来に、何を、どうやって、希望を持てばいいというのだろうか?


そりゃね、これまで自分のしたい事が分からないとか、
したいこともせず、我慢に我慢を重ねて来た人なら、
やることは見つけようと思えば見つかるだろう、と私だって思う。
こういうこともしたい、ああいうこともしたい、
これからは新しい人生を歩くのだ、と思えるかも知れないよ。
でも、そういうのは私には望めない。

「何も残ってないか」
と、言われたら、残ってないわけではない。
残された命だけは守らないと行けない、と思ってる。
託された命の為に私は生きていると言っても過言ではない。
あの子達がいてくれるから、今は生きている意味をもてている。
多分、あの子達がいなかったら、今、生きていないかもしれない。

あとは自分のイノチ。繋ぐイノチだから残されたのだ。
まだ、ここでやることがあるから生き残ってるんだろう。
でも、それがなんであるかは、今は分からない。

できることはたくさんある。多分、たくさんある。
あんなことも、こんなことも出来る、と思う。

だけど、それらは全部悲しみへとリンクしてしまう。
リンクしていく世界を乗り越えていくのは簡単じゃない。
私は過去に2度、同じ経験をしているからわかる。
命をかけて生きていた世界を忘れて、他で同じ快感を得るのは至難の業だよ。


今は何を見ても、何を食べても、何をやっても、楽しくないし、美味しくない。
いつか、おかしくなりそうな感覚ばっかりで、もう考えなんかまとまらないし、
今生きている日々のキヲクは前と違って目標がないからどんどん薄れてゆく。
アルツハイマーなんじゃないか?と思うほどに。

誰か話せる人がいたほうが…と皆がいうけれど
自分の人生を一緒に背負ってくれて走ってる人以外に誰に話せるの?
アタシは無理デス。だって友達は大切な宝と同じ。
そういう人には自分の苦しみで迷惑かけたくない。
相方さんの家族にも、友達にも同じ。
それ以外の人なんて、友達でもなんでもない。知ってる人でしょ。
そんな人に、何を話すの?気を使って疲れるだけ。

そんな中で今までの人生考えて、自分の実家の環境考えたら、
未来に安心なんかこれっぽっちも生まれるわけがない。
助けてもらえるお金なんか一円もないし、
死んだら無縁仏になるような運命なのに。
それでいて、こんな感じで、
どうやって生きていけばいいのか検討なんかつかないよ。

それでも、再び、死の影は忍び寄る。
寝たきりの母を見るのは死ぬほど辛い。
また大切な人を失ってしまうという事実を見せつけられているみたい。

チビ達を見ていたって、彼らの最後の日ばかりを考えてしまう。
犬たちが居なくなったら、気が狂ってしまうかもしれないな、とも思う。
間違いなくペットロスになってしまうだろうな。

また地震が起きたら?この子達を一人で助けられるの?
買い物行ってるあいだに何かあったらどうするの?
目を離した瞬間に何かあって死んでしまうかもと思うと、
一瞬たりとも離れられないし、目を離せない。

そのくせ、一人ではいられないし、夜パジャマにもなれないし、
いつも荷物はそばに置いておかないと不安だし。


「これからは自分の好きなことをしたらいいじゃない」と人はいう。

それが私ねぇ、昔から自分のために何かしても、
なんにも嬉しくないし、楽しくないのよ。
誰かの為に何かすることが、自分のもっとも好きなことなの。
中には、自分が幸せになるのを喜べない人がいる、なんて言い方する人もいるけど、
私に言わせれば、自分のことでしか喜べないアナタのごとく、
他の誰かの為に動くことが、何よりの幸せの人もいるということだけどねー。

とにかくね、手仕事も、芝居も、生活も、
誰かの為にあるものだから楽しかったし、頑張れたの。
ご飯を食べるのだって、生きるのだって、その為にしてきたんだもの。

それに、そばにいてくれる人がいたからだよね。
彼らがいたから、御飯を食べても美味しかったんだよ。
何をしても、幸せで楽しかったんだよね。
だから、今は何も楽しくないし、美味しくないの。

後悔しないように覚悟を決めて歩んできたから、
大事なものは、大切なものは、その時、その時で全部出し尽くしてしまった。

でも、何も残っていないし、残るようなやり方はして来なかったことが誇り。
今、何もないことが、逆に私のタマシイには唯一の救いです。

実際、今更、自分のために無理になんかしたって、なんにも楽しくないよ。
いろんなこと思い出して虚しくて悲しくなるだけじゃないかな。

誰かとしか作れない世界を作っていて、その相手ありきの事ならば
その相手が死んだら、夢も希望も、全部相手が持って行ってしまうのに、
そこに100%で命をかけた人はどうしたらいいのでしょう?
何かで埋められるとでもいうのだろうか?そう思えるのだろうか?
私はそんなのは到底無理だと思うなぁ。


そうやって考える私を、人は「引きこもりでは、死んだ人もかわいそう」とか言う。
ホントに?ホントですか? それ、ご自分の都合いいように考えてないデスか?

あたしが死んだら、そりゃさ、生きてる人には幸せでいて欲しいと願うけど、
長いあいだ、一緒に世界を作り、一緒に必死で道を歩んでた人が、
過去にサッサと見切りをつけて歩みだしたら相当なショックだぞ?
その道のりの先につなぐ道なのだから、大切に考えなくちゃ簡単に歩けないよ。

私は彼らとの日々を思うたび、いろんな悲しみが自分の中にハッキリあると感じてる。
この、とめどなく生まれてくる、苦しさの、そして痛みの存在だけが、
これまでの愛と日々が確実に自分の人生にあったんだ、
と教えてくれる唯一の方法なのだと強く感じてる。
そして、自分の愛の深さを測る方法はそれしかないと感じてる。

それを自己憐憫という人も言うだろう。
それは相手がいないのが悲しいんじゃない、相手を失った自分がかわいそうなのだ、と。
それをまことしやかに、諭す様に言ってくる人に、私は
「あんた、人も物事も本気で愛したことないだろ?」と覚めた気持ちで思う。
愛したら、相手と自分はひとつだとわかる。人でも、モノでも、仕事でも。
イヤ、実際に愛さなくても、この世にいる人は究極、自分とひとつのものなのだ。
それを知るためにここに居ると、私は無条件にそう感じてる。

だいたいね、自己憐憫とは、相手がなくちゃ起きない事象という事に
そう言ってくる人のほとんどは気がついていない。
人は、自分を憐れむことですら、何かがなければ出来ないのに。
自分への哀れみは、悲しみは、苦しみは、相手を想うことなのに。
多分、そう言う人は、本当に究極まで悲しんだことがないのだろう。


犬ごときに人生かけてバカみたい、人間様の方が大事だよ、
捨てちゃえばいいじゃん、あげちゃえばいいじゃん、と人はいう。
でも目の前にある、この残された、私の腕に預けられた
この小さい命たちだけが、私に生きる力を与えてくれているのは確かなのだ。
こういった感覚がなかったら、この人生が本当か嘘かも感じられない。
それほどに、今回の喪失感、無常観は深い。

それなのに、なぜ、ここから、せめてもの安定した場から出ろとみんな言うのかな?
ここから出ないと不幸だよ、そのままじゃいけない、と言うのだろうか?
分からない。

だから早く時が過ぎてくれないか?と思う。願う。
わたしは少しでも早く老けて、少しでも早く老人になりたい。
今は中途半端な年だから、人は私に立ち直れ、元気になれ、
というのではないのかと思ってしまう。
これが70、80歳なら、みんなはそう言うのだろうか?
イヤ、きっと言うまいよ。

とにかく、これ以上どうしろと?
少なからずとも、普通の人の何倍も働いてきた。
精一杯できるところまで命かけた努力もした。
力抜いた生き方なんてしてきてない。

そして、それは、今も同じ。
今日死んでも後悔しない毎日を、こんなだらけた毎日の中でさえも歩いてる。
ボロボロでも精一杯で、と思って生きてるから、自分の命と生き方に後悔は何もない。
それだけが自分のプライド、生きてるという証。先に逝った人への愛の証。

でも残された魂は死んだ人たちの魂を繋いで、この世に生きていかねばならない。
預かったイノチは、命をかけて守らなくてはならない。それはイノチとしての使命だ。
それに、何ができなくても、外側が変わってしまっても
自分の内側で一番大切な「ココロ」は全く失っていない。
それを失ったら自分じゃなくなるし、過去も現在も未来も失う。
それを手放すことは亡くなった人のためにも、
歩んだ人生でであったすべての人や世界に対しても申し訳ない。
何より、私自身に申し訳ない。

ただ、今はしんどい。とっても疲れてしまう。
まあ、今の年だと、何を言ったところで、
年齢的なものでは?と言われちゃったら笑うしかないが…(^^;
ただ、せめて今はひっそりとひっそりと静かに暮らしたいと思う。
手元にいるこの子たちをすべて見送るまで、
そっとしておいてくれないのだろうか?
ここまでたくさんの人と関わり、助け合って生きてきたけど、
それじゃダメ?まだ全然、足りないのかな?
どうしても外で激しく誰かにかかわらないと生きていてはダメなのだろうか?
それとも、それすらも、ないないづくしの貧しい人間には許されない事なのか?

…なぁんて、ねー。
私はこの2年、心の奥で変わらず、そう感じながら生きてる。


…………………。

ホラね、
間違いない。
間違いないよ、アタシってば、セルフネグレクトとやらだ…。
ここまで書いたことは、番組を見ながら心の中に駆け巡ってた想いデス。


そして、これは高齢者だけのモノじゃない、と番組を見ながら思った。
これは年齢的な問題ではなくて、人生の上での立場や経験に関わる問題であって、
そして、それは何よりも、その人の生き様に関係している、と感じたのです。

セルフネグレクトの定義には、いろんな面から自分に当てはめてみて納得できたものの、
一つ気になったのは「自己放棄」「自己放任」というその表現。
私の立場から、この状況を眺めたとき、それは違うな、と感じたのです。

もし、当てはめるとしたら「自己虐待」の方が近い気がします。
私は生きることを感じるために、私の性格では一人で生きていくためには、
あえて、この生き方を魂が望んでやっている気がするのです。
だから、痛みを感じる生活を選んでるのじゃないか?と思う。
もちろん、その痛みから解放されたいと底では願ってるのかもしれないけど。
それが「叶う」と言う確信が自分の中にこれっぽっちも生まれないだけで。

自分を当てはめたとき「違うな」と思う部分は
「本当に自分を放棄しているのか?」というところです。
私の場合、それは大きく違う気がします。

確かに現状は何もできていません。
じゃあ、なにもしたくないのか?と言ったらそうではないのです。
生きている以上は、やっぱり何かしていないとしんどい。
私の性格は特にそうだと言えるでしょう。
誰かの為に生きることが喜びで生きてることを一番感じられるからです。

だから、できる限り実家の手伝いをする、料理も掃除もさせてもらう、
死んだ人たちに向けて何かを作る、友に手紙を書く、ちわわンずのお世話、
今できることを、できるだけ頑張りたいと思っています。
そう思っているんだけどネ…なかなかうまくいかない、というのが現状です。

年齢もあるんだろうけど、このところ本気で、若年性アルツハイマー?
と疑うくらいモノを忘れるしなぁ…(*´д`;)…。
昨日の夕飯どころか、さっきのことも思い出せなかったりする。

ある日、すごく悲しくて落ち込みすぎた日が続いた時に、
家族や相方さんの名前も出てこなくなった事すらあった。
不安すぎてカウンセリングで話してみたが、心配することはないと…。
年齢的なものだと思います、と…。
ええっ?(°°;)"((;°°)家族だよ?相方さんだよ?
どう考えたって、そんなに簡単に忘れるレベルかい?
自分の名前忘れたのと同じくらいの事なのに。
ものすごく年ならまだしも…この歳で、そこまで行く?
そんな軽く言われたら、余計不安でまぢで焦るよー(ノД`)

そんな風に努力をしてても、今まで出来てたことや、
大切な何かが削り取られて行くような感覚があるから怖い。
自分の中の計り知れない力が、自分を侵略してくる感じがする。
この恐怖感や不安感は多分語ったところでなかなか伝わらないんだろうな。

とにかく、そう言う理由で満載で、「したくてもできない」というのは
「放棄」や「放任」ではない気がしている私です。


突然なんですが、マザーテレサがね、彼女の様なかたが、
日本にも居てくれればな、なんて思ったりするんですよね。
身寄りのない人が心配なく最後を迎えられるような場所、
そこにいつもいてくれる人がいる場所があればいいのに、と。

そういうところが在って当たり前の世界になったら、
姥捨て山じゃないけれど、自分で悟った時に行ける場所があれば
人は必要になった時に、自分からそこに行く気もするんです。

日本では、そういうことになれば恥ずかしい、周りに迷惑かけては申し訳ない、
人からよくは思われないだろう、などなど理由は色々あると思うけれど
そういった意識から、孤独死を選んでいく人、選ばざるを得ない人も多い気がするからです。
それは、本当に日本人の孤高の魂のなせる技でもあると思うし、
素晴らしい意識だし、けっして悪くもないのだけれど、、、。

でも、全員が全員、自分の死後のことまで、全て段取りしていけるわけでもない。
死んだあとはどうしたって、誰かの手を借りねば骨にすらなれないだから。
死んでから知らない人などに迷惑かけるくらいなら、
その前に救いの道があったらいいな、と思っているという事なんですけどね。

福祉の発達している海外のように、死にゆく人、身寄りのない人を
孤独に死出の旅次へ送り出すことこそ、隣人として恥ずかしいことだ、
人の命はどんな立場の人であっても尊敬されるべきもので、
最期の時こそ、どんな人にも手を差し伸べるべき、と言った意識があるので、
皆、国民のボランティアや寄付的な税に含まれる資金などを使って、
ほとんどの人があたたかなベッドの上で人に看取られていくのだと聴きますが、
日本でもそういうことが当たり前の世であるならば
もう少し、救われる人も多いのではないかな、時折と思ったりします。

不正をする外国からの移住者の方や、心無い人には正直深く憤りますが、
人はいつ何時、自分も困る立場になってしまうかなんて分からないから、
税にしろ、何にしろ、困難にある人に、快く自分の持っているものを
分かち合える意識というものは忘れずに持っていたいと思います。

話がそれっちゃいましたが…( ̄▽ ̄;)
とにかく、人によっては、気持ちが落ち着くまでに、ひとりの長い時間が必要なんだと思うのです。
だって、私のような立場の人にとって、ひとりの時間は決してひとりじゃないから。
少なくとも私は、大切な誰かとの人生の延長をまだリアルに生きてるのだと感じているし。
相手が見えない、触れられないからこそ、余計その人と二人で居たいんだと思うし。
「一人」なようで「二人」だったり、ここにいても以前の世界から
今の自分を見ていたりするんじゃないかな?なんて思ったりします。
多分、この世で一番大事な人や場所と長くいられなかったからだとは思うけど。

人間、本気で生きて来ていたら、そんなに簡単に離れることはできない、そう感じます。
そこにかけてきた思いが違うのだから。
だから、せめて人生が「善い思い出」になるまでは、
誰にも邪魔されず、一人で「二人」を感じていたいと魂が思うのではないだろうか?
その孤独な場所から、誰かを求めたり、何かを求めたりする気持ちが生まれてきて
初めて本当の意味で「独り」になれるんじゃないだろうか。
そんな気がしてます。

それより、人間、大事なのは最後じゃないかな、とも思うのです。
多分、人間、最後の瞬間は誰でも一人は心細い。
未知の世界への旅立ちはとてつもない恐怖でもあるし。
だからホームレスでも欧米の最後は病院に収容し、
暖かく看護し見守りを付けるという形は私は好ましく思うし、
マザーテレサの死者の家のような存在は大きいと思っています。

このところ、どうしたって、何にもできないものだから
いつも不安になっちゃって、文章もマイナーになっちゃいますが…。
でも、根っこは諦めてはいないから。根っこのココロは失っていないから。
それがなかったら、もう、私じゃなくなってしまうし。

ただ、真剣に出来て無いだけです。
ただ、真剣に未来が見えてこないだけ。
だから不安。本当に先が未知だから大きな恐怖感があるのです。
今はその2つの心をくるくるくるくると回っているんです。


昔、本当に困っていたとき、おんなじ位生活が大変だった心友が
本当に、なんの迷いもない、あたたかな優しい笑顔で、
「あのね、今、あたし○円持ってるんだ。半分こしよう!」と言って、
なけなしのお金を、本当になんの見返りも持たずに、渡そうとしてくれた事があります。
もちろん、その大切なお金を借りたりはしなかったのですが、
あの時、私はお金より大事なモノをこのココロに握らせてもらったと思っています。

私は若い頃、今よりも家庭の状況がハードで生きるのが大変でした。
だから早く死んで、早く生まれ変わりたいとばっかり思ってました。

その時に、たくさんの外国人の友が、それこそ、なんの見返りも要求せず、
生きることが出来るように手助けをしてくれた日々があったんです。
その時、友たちは、
「人は愛し合うためにココロがあるんだよ。
助け合うために手があって、足があって、カラダがあるんだよ。
そうして、お互いの笑顔を見るために目があって、
笑い合うために口があって、幸せな笑い声を聞くために耳があるんだよ。
なぜって?そりゃ、目の前にいる人が大好きだからだよ!知らなかったの??」
いつもそう言って笑ってくれました。

そう言う言葉や出来事や出会いは種になってココロに根付き、
おかげで自分も同じような気持ちを持ち続けることができて、
自分たちは本当に食べられる位しか残らなかったけど、
仲間でお金を出し合って、全国各地でボランティアで公演をしたり、
仕事をする傍ら、自分たちのできる事も続けてこれたと自負しています。

私は今は本当に何もできない。ぼーっと時間が過ぎてゆくのです。
けれど、これまで出会った人や、モノや、自然や、たくさんの世界から教えてもらった、
およそ、お金なんかでは得られない、変えることのできない、とても大切なもの達が
心の奥ふかくで根っこを張っているのだけは、自分で確信しています。
多分、この種は、私が忘れない限り、枯れることはないのだと思います。
いつも、ピンチの時、この種が自然に育っていて、
いつしか助けてくれていたから、きっと今度もそうだと思います。

そう思う反面、いろんな経験から、一度ついた傷は、
かさぶたにはなっても、決して消えないことを自覚しています。
というか、忘れたくない。きっと、そうなのです。
そのバランスを取るのが本当に難しいって思う。
だから、多分、長い長い時間がかかるとも感じています。

表舞台から、裏に回ることになったとき、舞台に立つ喜びと
同じ喜びを裏の仕事で得られるようになるまで8年もかかりました。
10年前に居なくなってしまったソウルメイトも、
2年前に亡くなった相方さんも、まだ思い出にはなりません。
反対にどんどん悲しみにリンクするものが増えてく一方です。
今は、それを避けるので精一杯だったりします。

私は人に相談して解決していくということは、まずありません。
唯一、胸の中にある「辛さ」を語れる相手が相方さん達でした。
思いを語れるのは母と仲間でした。

でもね、大切だから、彼らに重荷は決して背負わせたくないのです。
だから、ある程度しか、話しません。
話すってね、人生背負わせるのと同じ気がするから。
なんて言いながら、自分のためにココでこれを書いているのですが(笑)
(基本誰にも発信してないのと同じ感覚なので。長いつぶやきですねー)

だからね、いつも、自分で光が見えるのを待つしかないなぁ、って思います。
でも、今回はさすがに、先が見えなさすぎて。
可能性が本当に見つからないせいなのかもしれないけど。
命をかけたモノを、自分のココロを超えていくというのは難しいですね。


先日、同じように最愛の奥様をなくされ、
3年間引きこもっていた友人が送ってくれた言葉があります。


《同じようなご経験をされ、同じような諦観と同じような喪失感を、
そして今でも同じ悲しみを共有されている、そう勝手に思います。
自分の経験も、これまで相当に壮絶で、波乱に満ち、
そして今は相当に困難かつ不幸だとは思いますが、
「弱い人なら何回か死んでる」というのは不遜かも知れませんね。
自分は強いと言っているようなものですから。
もちろん、カラ元気ですけどね(笑)。
また遊びに来てください。》


このメールをもらったとき、正直に、嬉しくて、ホンの少しだけ安心したんです。
あたし、悲しくていいんだよな、って思えて。

いえ、毎回、こうやって、自分を納得させるから
成長がないのも重々承知なんですけどね。

でも、とにかく、今は何もできなくてもイイや、って。
明日の朝、目を開けて光を見ることができればイイや、って。

今は多分、何をしていても悲しみは、そして涙は、
まだまだ尽きぬ程に私の中に存在してて、
降って、降って、降って、降ってくるんだなぁと思います。

でも、それは、あたしの中で愛が廻っているからだと、
私はそう信じて、雨に降られることの方を選んでいるのかもしれません。
今はそんな私を許してあげようと思っているんです。


《追記》

内容に心配して連絡をくれた方がいます。
だから、少しだけ追記。

今回は感じることを書いたら、どうも単純に暗い感じになってしまいましたが、
未来が見つからない一番の理由は私の中に「やり尽くした感」が溢れているからです。
やってきたことには全く後悔がないし、ある意味、このままいつ終わってもいい感覚デス。
正直、ここで終われれば、一番幸せな状況に近いままで向こうに行けるくらいです。
好きな事を全部やってきて、今その続きをやるのは物理的に無理があるから同じことができないだけ。
今も私の中で、それが最高のものだから、それ以外で何かと言われても、
それ以上のモノが、本当に真剣に探しても周りにないのですよ。
だから、この自分が停滞している感覚は、底のようであり、天井のようでもあるのです。
そして、満たされていてもなお、こうして痛みを感じる心がある事こそが
未来を信じている、未来を見ている、自分の魂のシビレの様なものだと感じています。
今はしびれきって無感覚なときもあるのかもしれないけど。
それでも凍傷でなく、シビレなら大丈夫、切り落とすことはないから。

そして何よりも、私の人生の目標は変わっておりません。
いつでも、何時でも、私の目指すところは同じです。
愛をベースに我が魂とこの身を持って、我が身に宿ラせていただいた才を使い、
この世にあるすべての、私が必要なところや、どこであっても我が身が使えることあれば、
心を込めて精一杯の働きをすることで役立てることです。
それが、昔も今も変わらず、私の中の幸せである限り、そうであると思います。
そして天国にいる愛する人々も、彼ら亡き後の私が、今までと同じ思いで生きていることを
いちばん喜んでいてくれるのではないか、と感じているのです。

ということで、決して不満だらけの中にいるわけじゃないから、ご安心をね。


10月まとめ

2012-11-01 | KOFUKU日記




【今日もしあわせ(*^_^*)まろとーちゃん&むすこさんのふう君】


先週末近くの金曜日、穏やかな我が家にて大事件が起こりました。
上記写真の左、ブラックタンちわわんのまろたん3歳1ヶ月が
なんと、家の前で車にはねられました(°д°)

そうなんです、交通事故です。

おじいちゃんが車で帰ってきて、それを喜んで興奮して作を飛び出し、
勢い余って道路にでたところを、減速もせず突っ込んできた車に当たったのです。
「どん!」という鈍い音に嫌な感じがして、飛び出したら、
おじいちゃんが、まろたんを抱っこしておりました。
本人、切っくりした様子で、歩けてはいましたが、そのまま、速攻で病院へ!

本当に不幸中の幸いで、当たり所が良かったので、カスリ傷一つなし。
大事をとって半日入院をさせて、今はすっかり落ち着きました。

車にはねられて死ななかったのは奇跡、と先生も言っていました。
本当に何事もなくて良かったです。
もし、大怪我や死んじゃったりしてたら、きっと立ち直れませんでした。
本当によかった(´;Д;`)



【まろたん、もう絶対におんもに飛び出しちゃダメだよっ!(´;Д;`)】


心配しすぎて(*´д`;)もうグッタリ疲れました…_ノフ○
いやっ!(`・ω・´)、今日こそは書かないともう31日やん!(°д°)

♪This is Halloween, This is Halloween
Halloween Halloween! Halloween Halloween!♪




余談ですが、私は昔からナイトメア・ビフォア・クリスマスのサリーに
顔と根っこの性格がそっくりだ!と言われています…
イヤ、サリー大好きなんで嬉しいんだけどね(´∀`*)

と、いうことで、今日のこの日記に着手してから、
早やくも25日以上が過ぎてました!Σ(|||▽||| )
…自分でもびっくり…
初の月に五本指足らずの更新じゃぁあるまいか…

ひとつ前の日記を書いたとき、始まったばっかりだった10月も今日で終わり(;・∀・)
その間、お月様もおっきくなったりちっさくなったり、
台風もきたし、灰も降ったし、雨も降ったし、寒気も来たし、
出水には冬の名物の鶴さんもやってきて、季節は目まぐるしく変わっています。

ああ、だのに、それだのに~_| ̄|○
オイラ、ほんまに何も出来とらんがな…(;´д`)
まぢでぼーっと生きてるだけやんけ…。
特にこの2週間くらいはまるで化石にでもなったんかいな?という流れが…。
時はまるで夜空を流れる流星のごとく過ぎゆくのに、
オイラだけがまるでおいてけぼりをくらってオリマス…(*´д`;)…。




【微妙に腐りかけて危ない同居人(私)をよそに、
ちわわんずは10月もおゲンキで暮らしてました!】
【南国ちわわンず年長組のまろ君とぴーちゃん】



先日、そんな人生スローモーなアタクシに、
生き様と根性を見せつけるように叩きつけるような大粒の雨の中、
渦巻く水を横切って森に帰っていくヤル気まんまんのカマキリ君に遭遇!




【覚えときな。カマキリだってな、ヤルときゃヤルんだぜ( ̄ー ̄)】



かなりイケてるカマキリ君でした!
無事、向こう岸の草木に到着して、雨に濡れそぼった姿で、
ゆっくりとアタシを振り返ったあたりなんて
まるでスポットを浴びたミュージカルの主役かと思ったわよ。
もう冬になるし、弱肉強食の世界は厳しいと思うけどさ~、ガンバレよっ( ノ゜Д゜)

だってねぇ、人間以外の動物や虫や植物の世界では
自分がお食事にされてしまう可能性の方が大なのだもんね( ̄◇ ̄;)
いや~、人間もそういうシステムだったら生きてるの、めっちゃスリリング…
えらいよなぁ、あなたたち。自然に生きるってのは凄いことだ!
なのに、なのに、あたしって奴は…ハァ(*´д`;)…すみません…ハイ


 

【朝は光がいっぱいでいいねぇ】


さて、まだ秋頃までは桜島からの風向きが市内方面のときもあるので
たまーに自宅や実家のあたりも桜島の火山灰が直撃です( ̄◇ ̄;)
まね、火山灰は放射能を吸着浄化してくれるので歓迎なんですけどね。

オイラ、こんな後ろ向きな気持ちがとどまっちゃう状態だから
他からのサポートが必須の療養中&生活環境でございますゆえ、
必然的に実家さんにチビ達とお世話になってることが多いのでございますが、
そんな心の安らぎ場の実家の窓から森を覗いてますと灰が降ると、
強風で大地や木々に積もった灰が風が吹くたびにぶおぉ~っと舞って、
あたり一面煙るのが見え、光を浴びてホコリが薄茶に染まり、
ここは西部の荒野かOK牧場かって感じになりますのデス。

そんな風景を窓越しに西部の風に吹かれているような錯覚に陥っておりますと
後ろで我が家のちわわンずたちも六畳一間の自宅とは打って変わって部屋が広いので
西部の暴れ者のごとく、あちこちで大暴走を始めるのであります(;^ω^)




【南国のちいさき暴れ者の皆さん( ̄▽ ̄;)】


それが、ちっさいくせに、あんまりにも元気すぎるので、
そのうち、ご近所からクレームとか「うるさ~い!もう来んじゃねぇえええ!」
と言われそうな勢いで、密かに非常に恐れております(; ̄ェ ̄)
でもチビっ子たちは毎日ハイテンション!&ハイテンション!
(まあ、近所の犬もものすごい元気だから大丈夫だろうけど)
とりあえず、彼ら的には家の人を守る番犬のつもりらしい、デスが(⌒-⌒; )


 
【とにかく走る!そして、遠吠える!( ̄▽ ̄;)】


特に、この写真の走って遠吠えている方が「ろま(朗真)くん」と言うのですが
家中では一番小さくて、のほほんとしたお顔と仕草にだまされそうになりますがぁ、
実は一番やんちゃで、キレやすく(ーー;)、さらに暴れん坊さんなんですワ…(; ̄ェ ̄)
ちびっこの中ではダントツの怖がりさんで、過敏なので、吠えてしまうのかもなんですが。



【普段はこのような可憐な容姿でみんなを翻弄する「ろまさん」】


この人ねぇ、お母ちゃんのぴぴさんに似て「野生児」なんですのよ。
多分、人の言葉をあまり解しておりません。
というか、自分に必要のない言葉は完全スルーって感じ?( ̄◇ ̄;)
なので、怒っても、怒っても、怒っても、すかしてみてもぉ~、

「ありぇ?なんか怒ってるぅ?んじゃ、とりあえず転がっときゅ?(´∀`*)」

と言わんばかりに、かわいらしくコロンと転がって見せますが、
でも顔はしっかり笑顔です…うん、全然、反省の色なーーし。
何を怒られているのか全くわかってないから、
当然ながらイタズラはエンドレスざます( ̄▽ ̄;)




【ろまさんの趣味はお庭での宝探し。今日の収穫は笹の枯葉。時々、生きた虫とかも(;´д`)】


まあ、あれですよ。ヘレン・ケラーとサリバン先生ですよ。
もうね、このちっさい人たちと真剣に渡り合うにはですね、
サリバン先生とヘレン・ケラーの関係にならなきゃ無理なんですよ。
彼の中に「水」、つまりは「これはダメ」「これはいけない」
という概念が自ずから浮かび上がってこなきゃ無理なわけです。

それまではアタクシのできることはひたすら繰り返し。
「いい、ヘレン、これは水よっ!モノには名前が、意味があんのよー!」
と真剣に真面目に叫び続けるしかないのでありますわ。

まあ、そのうち、目をキラキラさせながら
「( ゜д゜)ハッ!コレは水? う、うぉぉぉぉ~~~!(ウォーター)」
と理解してくれる日の到来に期待しておりますんデスが(^_^;)
今はそう叫ぶ代わりに、ちょこっと物音しても
「うぉぉぉぉぉぉん」と遠吠えしていますけれどもね…_| ̄|○




【寝てると間違いなく天使ちゃんなのに、ねぇ?(^_^;)】


でもね、私は彼らが元気で、考える暇もないくらいアレコレやってくれるので
こうして訳わからなくなって正気を失う事もなく生きてられますのですよね。
面倒を見なきゃいけない方が目の前にいてくれるというのは、
これまた、本当に本当にありがたき事なのでゴザイますね(*^_^*)




【と、いうことで今日も南国の暴れん坊ちわわんファミリーの皆さんはおゲンキ♪】


 

【全くチワワに見えないマッチョな4キロ児ふう君。「オレ、ハスキーになる!」(笑)】
【おとうさんのまろくん。この人もチワワにしてはマッチョでかっこいいノダ♪】



 

【南国ちわわンずのお仕事はお庭遊びに追いかけっこに日向ぼっこ(*^_^*)】





【庭の草花も秋仕様♪】


さてさて見上げる空も高くなり、木に絡まる蔦も赤くなり始め、秋だから…
というわけではありませんが、このところタマシイが停滞気味なんですよねー…。

冒頭にも書いたごとく、時間が経つのはめっちゃ早いんだけど、
全てがスローモーな感じで過ぎてゆき、とどまってる感じ。
かつ集中力がないから、何かやりたくてもその気にならず、
なーんも、なーんにも先に進まないのですよ…(-。-;
おかげでほんとーに日々がドンドン過ぎて行っちゃって困ります。

そうなの、困ってるんだよ。困ってるんですよ、あたいー!
本気で困ってるけど、なんともならんのよ、コレが…
もうお手上げっ∩( ・ω・)∩

モノをかけるうちは、まだしゃべれているのと同じ、
という感覚なので、できる限り頑張って来たブログも、
手紙とかも、本当になかなか書けなくなってきちゃった(´;ω;`)
もう、焦るばっかりだ。ここまで怠惰になってくるのは初めてで結構な危機感がある。

一応、書きたいことを次々と下書きにクリップしていくものの、
どんどん時期が過ぎて、書くまでに至らなくなるんですよ。
ブログなんか、書きたいタイトルだけが10個も20個も溜まっていく。

しかも集中力が持たないから、書き出してもバランバランな思考が余計まとまらない。
文章を見れば一目瞭然で、ただでさえ文章が論文になるタイプなのに
構成すら無意識下でできんから、ただの羅列でどんどん長くなっていく。
しかもスグ書けないから、まとめていくつもの話題になっちゃうので、
到底10000文字くらいの文字数じゃ足りなくなってしまうのです、、、。
とにかく、ちゃんと頭が使えていない、心がうまく回っていない証拠です、コレは(-_-;)

でも、それを無理やりやろうとすると、あたしって跳ねっ返りがオオキイのよ…。
こないだも、病院で先生とトークしてから立て直すのに
もうすでに20日以上を要しているけれど、まだ完全復活ならず…
もう一回診療受けても衝撃減らず…。
まあ、通院2年目ともなればね、話がコアになってきたからなんだけどさ。
話せる先生だから全然ラッキーなのだけどさ…。

しかし、このところマジでやりたいことにすら着手ができてない…
これは焦る、(°°;)"((;°°) 焦る領域に達してしまっている…。

かと言ってだよ?
こう言う気持ちの入らない時や魂の働いてない時に、
我が身の中に、タマシイに生まれてきてもいないのにだよ?
モノを書くのも、手仕事して創造するのも本当に嫌なんだなーコレがぁ(´Д`;)

だってぇ、感性をもって構築すべき世界をね、
他から牛耳られている意志の力で積み上げたって
絶対にいいものなんかできっこない。
そのための努力とか忍耐と、無理に行うってのは全然違うんだよ。
少なからず、私には。

イヤ、それだってきちんと出来るお人もあるのだろうが、
あたしの中にはその感覚が無い。やりたかない。
だって、それは私の人生の美観に大きく反するのよ。
それを押してやってしまったら、それこそ無くなるのよ、ワタシってものが。
基本、自分の為のもの作らないから余計そうなのかもとは思うんだけどさ。

タマシイの根っこがそう思ってるからなんでしょーかね?
こうなってくると、ますますヤル気が起きてきません…。

「あんさん、ほっといたかて時が解決しますわ。人間そういうもんやで」

と、人様は言うけれど、私のバヤイ、時間が経つにつれて
気持ちがどんどんヘビーな方向になってく感溢れてるんですけど…?(; ̄ェ ̄)
来月は相方さんのメモリアルデイもやって来るし、悲しい思い出は重なるし、
ますます沈んでいきそうな予感だよ…ハハハ∩(・∀・)∩
もう笑うしかないよねー。

………まあ、ね?
とにかく生きてればなんとかなる!と思うしかない、ね?うん…( ̄▽ ̄;)
解決するにもさ、とにかく生きているしか糸口はない気がするわ…。





【朝が冷え込む日もおおくなりました。チビ達も時々お洋服を着用】
【曇でお日様もない日は皆で毛布の上に丸まっています(私もです)】



まあ、そんなこんなでですね、もう3週間以上前の話になりますが、
2週間ごとのカウンセリングで病院に行ったんですけれどもね、
先生との会話でなんだかなんだかグッタリ疲れちゃって
(先生はいい人なんですが、その分、とても真面目に話をしているから)
お決まりのごとく熱が出て、次の日はほぼ起きられず、
その次の日は体調に出てしまって本当に死にかけでした(ーー;)

でもこういった事は、ホメオパシーや代替療法などにおける好転反応みたいなもの、
ある種の浄化が起こっているのだとは思ってるんですが。
まあそんでも、自分の場合、体調に出てくると言うのは、
マジで心身の状態がラスト近くの時なんで結構キツいです。
しかも今回、それをもう2週間引きずってしまっているし…。

そんな私を知ってか知らずか、病院の優しいセンセは
「これから毎回レポートを書いておいでなさいね」
と、ニッコリ笑顔でおっしゃったのですわよ。

工エエェェ(´д`)ェェエエ工…
…書くよ…書けって言うなら書くけどさ、
正直、もう書く前から疲れておりますわ( ´Д`)=3 フゥ

あたしは文章書くのは好きですよ。ええ、好きですとも。
でもね、面と向かって自分の気持ちを書くってのは難しいものなのよ。
こうやってブログ書くのとはまた違うんだわよー。
第一さぁ、誰かに書くのって、誰かと直接しゃべるのと疲れ方ぜんぜん変わんないし…。
文章ならOKでしょ?ってのは安易だってーーーー!(と、どこに向かうでも無く叫んでみる)
はてさて、どうすべな…(||´Д`)o

そんな感じでもんもんと2週間がすぎ、すでに次のカウンセリングを終えまして( ̄▽ ̄;)
(結局、レポートは話し合いの末、持ち越しになりましたのデス)
その後もワタクシの秋は無情にも、ただ呆然と暮れていっておりますヽ(;▽;)ノ


10年ほど前、本当に辛かった時があり、これではイケないと感じ
せめて文章くらいは幸せなことばかりを書き残していきたいなーと、
振りでも元気にいようと書き始めたのだけれど、
いつしか魂の叫びブログになっていますわ(ーー;)
さすがに人生において最愛の人と、しかも2度目の別れとか体験しちゃいますと
そう簡単に元気になっていく為のふりもできないものと分かりました。

しかも前回の時と違い、目の前に広がる喪失感が違うんですよ。
今回の喪失感というのは、本当に果てしない感覚があります。
もう、どうしようもできない、と言ったような…
「諦めてガックリ」と言うのではなく「さもあらん」と感じるのです。

まあ、以前はまだまだ若かったという事なんでしょうね。
そこそこの年齢ではあったけど、ものすごく絶望感もあったけど、
相方さんと出会いもあったし、まだ未来はあると感じられたんだと思います。
身体の面も、まだギリギリ思ったことを行動できた年齢だったけど、
そこから10年、やっぱり年を取ったんだなー、きっと。
実際、当時は「コレあと10歳年上だったら無理だったなー」
って思いながら動いてたわけだから、そりゃ今じゃキツいわね( ̄▽ ̄;)
まあ、もう根底からひっくり変わるくらい、前とは違う感覚。

でもまあ、このブログがあるから、心のバランスが保てて
なんとかやってこられているんじゃないかとも思っています。
当然ながら、心底からの気持ちを書けるわけでもないけど、
なんというかカラ元気(人生にはこれは大切と思う)も出せるし、
それなりに書く事である程度きもちを発散できているのも事実。
何にしても有難いもんだね。

そんな事をつくづく感じつつ、秋の日々を、
この10月は毎日過ごしておりました。

ということで、11月もよろしくお願いいたします(笑)