どんまい

いろいろあるけれど、それでいい。

いにしえより贈り続ける感謝の気持ち

2006年04月23日 | travel
その昔、一人の天皇が、この地を去る時に、
民との別れを惜しんで植えた一本の桜の苗木は、
今もなお、花を咲かせる。
いにしえより伝わる桜。

三大桜の一本で、
名を根尾谷の淡墨桜と言う。

これまた観てみたかった一本。
これで、三大桜をすべて観たことになり、
同時に桜王の称号を得ることに相成りました。
2006年、桜大祭り。

淡墨桜は、三度、色を変え、三度、民を楽しませる。
一度目は、蕾の時、薄紅色に、
二度目は、満開の時、白色に、
そして、三度目は、散る時、淡い墨色に。

今年、桜を眺めている時に、
桜がでっかい花束のようだと思った。

別れを惜しんで植えられたこの桜は、
この地に住む民へのお礼として、
贈った贈り物。
贈り物のでっかい花束は、
毎年、一年に一度、咲く。
何度も、「ありがとう、ありがとう」と言うように。


その色、淡く切なく千五百余年。
いにしえより、贈り続ける感謝の気持ち。







一人の作家が愛した桜

2006年04月23日 | travel
風が吹き、時に静かに、時に豪快に舞う桜、
雨が降り、一片、一片、散りゆく桜。


「雨よ、降るんじゃねぇ」と俺は空に文句を言う。


観れる時に、観れるだけ、観たい。
今年は、桜大祭りと銘打ち、またまた桜を観てきた。


ある一人の作家が、その地に咲く桜を愛した。
その作家は、「ここの桜が日本一だ」と言った。

その桜は琵琶湖沿いに咲く。
数百本の桜が、数キロに渡り、咲く。


愛した作家の名は、遠藤周作。


この奥琵琶湖には、遠藤周作ゆかりの宿もある。
その宿から、碧い湖面を染める桜を観た。

そして俺もその場所から、その桜を観る。
「ここから、観た桜だな」と思い巡らしながら観る。


遠藤周作の愛した桜。
その話を聞き、俺もいつか観てみたいと思い続けて数年。



俺の念願が叶った2006年、桜大祭り。




名が知れていようが、知れていまいが

2006年04月18日 | travel
一日、一日大切にしようと、桜を見ながら想う。
俺がそんなことを想うのは珍しい。
やるな桜パワーと思う朝。

「桜が咲いたぞ」と聞けば、そこまで車をぶっ飛ばす。
どうせなら、名がついている桜は観ておきたいと、遠かろうが、桜を観るためだけに車をぶっ飛ばす。
けちるところじゃない。

桜の中には、名がついているものがある。
その名前がまたかっこいい。
「なんて読むんだ?」って思うことも多いけれど。

名がついているだけあって、またすばらしいものが多い。
が、今年は身近な桜もまたすばらしいと思う。
朝に観た桜も名はない。

人も同じ。
テレビや雑誌に出ている人もすごい人はいっぱいいる。
だけれど、名は知れていないが、身近な人でも、すごい人はいっぱいいる。

「花は桜木、人は武士」って言葉があるように、
俺もまた桜と人をだぶらせる。


「太く、短く」
桜を観ていると、この言葉が頭をよぎる。
人の生き様でも使う言葉、
「太く、短く」

「俺はどう生きたい?」と、自分に問う。
「太く、長くだな」ってことになった。
「長いにこしたことはないだろ?」と思う。


俺は欲張り。
長く、太く。
あれもしたい、これもしたい。
やりたいことがない時があったから、やりたいことができれば、
あれも、これも。






ロゼオコロネード

2006年04月16日 | travel
つい先日、煙草をふかしながら、「もう少しだなぁ」と、今にも咲きそうな桜の蕾を眺めていた。
春の陽気も増えてきた今日この頃。

ふと、顔を上げてみると、太陽の光とともに、いくつかの桜の花びらが咲いているのに気がついた。

「咲いていたのか」
待ちに待った桜の開花。


アメリカ合衆国、首都ワシントンD.C.のポトマック川河畔には3000本の桜並木がある。
時は明治、当時の東京市長からのプレゼントらしい。
「なかなか、粋なプレゼントだよなぁ」って、時は平成、開花した桜を観ながら思う俺。
「本場、日本の桜も見に来てほしいな。日本に来るのなら、4月だな」と外国人に日本を紹介する機会もないのに、一人納得する。


そうして、俺も早速行ってきた。
ロゼオコロネード。桜並木。

500メートル手前の駐車場に車を止め、
歩道沿いにある桜を見上げながら、桜並木を目指す。

そこは、さくら名所100選にも数えられる桜並木。
デジカメを手にし、写真を撮ろうと思った。
すると、電源が入らない。
そうだ。
ここに来る途中、車の中で、電池を充電しながら来たのだ。
イージー。
やっと桜が見れると思いきや、やっちまった、おっちょこちょい。
今更、車まで取りに行くのもめんどくさい。
手に飾りのデジカメを持ち、目に焼き付けた2006年、桜祭り開幕。



まあ、今年もこれでもかと味わうよ。



さあ、豪快に舞ってくれ。桜。




市長になる男

2006年04月15日 | little story
「俺は政治家になりたいんだ」


あれは俺達が18か9歳の頃。
友達が俺に語った夢。


俺は呆気にとられた。
当時の俺には思いもしなかった夢。政治家。
そいつが、本気で言っているということはわかった。
だから、俺はずっと忘れていなかった。


あれから10年。
試される大地、北海道のとある町で、そいつはあいかわらず、その夢を追いかけている。


この前、北海道に帰った時にも、少しだけその夢の続きを聞いた。

「この前、会った時、話した俺の提案が採用されて、動き出してる」と黙々と語り始め、
「今度は、こういうことがやりてぇんだ」と熱く語る。


その男は、一段、一段、自分の夢の階段を登っている。


「俺は小さい所でやりたいんだ。だから、市長か知事になりたい」


俺は確信に似たものを感じた。
「こいつは、市長になるな」って。

なぜ、そこまで政治家になりたいかはわからない。
いつも、その発想、提案していることを聞くのが、おもしろくて、なんでなりたいかは聞いていなかった。
なんで、あいつはそこまで政治家になりたいんだろう。
今更になって思う。


俺達が生まれた北海道。
俺達が育った北海道。
ある友達は「この街を盛り上げてぇんだ」とフリーペーパーを作り、
その友達は「俺は市長になりてぇんだ」と今できる町おこしをその町で提案している。
形は違えど、北海道を想う気持ちは変わらない。

日々の業務に流されない志の高さ。
提案しろと言われているかは定かではないが、志の高さがなけりゃあ、そんな発想、提案なんかできない。
聞いている俺がわかる。
世界が違えど、そんな志の高さは俺にとっても大切なことは同じ。


俺は年が若かろうがやりたいことはその時にやっちまえ派。
年をとったら、違うことがやりたくなるかもしれない。
だから、その時、その時にやっちまえ派。
俺等は、すでに舞台に立っている。
いつか、いつかって思っていたら、その舞台の幕が降りちまう。
だから友達に「今、立候補しろよ」と言ってみた。
その友達は、「長になる人は、周りから求められると思っている」と静かに答えた。

まあ、俺がそんなことを言おうが言うまいが、
自分のペースで、自分のスタイルで、
さらに自分の夢の階段を登っていくのだろう。


どれくらい先かはわからないけれど、北海道のとある活気づいた街の市長の名は、たぶんそいつの名だ。




嘘よりも嘘みたいな日々を送ればいいや。

2006年04月11日 | little story
早いもので、あっという間に4月。
こんなふうに、気づけばまた1年が終わっていくのだろう。
エイプリルフールに、どでかい嘘でもかまそうかなあと思いきや11日が経過。
まあ、嘘よりも嘘みたいな日々を送ることにすればいいや。

普段の生活でも波があるように、楽雲庵塾もひさびさに書くことがない。
それだけ行動をしていないのだろう。
それだけ刺激をうけていないのだろう。

仮に楽雲庵塾の更新を楽しみにしていてくれる人がいたら、本当にごめんなさい。
もうしばらくスローペースだと思います。



2006年1月。
俺は鳥取砂丘にいた。
そして、ふと不安になった。


「いつか、いつかと思っていたら、この歳になった」


28歳。
20代最終章。


いや、その時、その時は燃焼していると思うし、
振り返った過去は、やっぱり大切なものとなっているんだけれども、
「まだだ、まだだ」と心が叫ぶ。
「たぶん、このまま満足をするこたぁねえな」とも思う。


今年は無性に焦りと不安が交差する。
その漠然としたものは、1年のもう一つの区切りの、4月にも訪れる。
なんなんだ。今年は妙に区切り、区切りが頭をよぎる。

20代最終章を意識しているわけじゃないんだけど、
いや、無意識に意識しているのかはわからないけれども、
この漠然とした不安やら、焦燥感はここから発生しているのだろう。
まあ、解消することはないと思っている。
不安や焦りをパワーに変えればいい。
20代にやりたいことをやっとけば良い。


この20代にやっておきたいこと。

2つ。

1つは、本を作ること。
自伝プロジェクト第2章も細々と進行し、
今のところ、出版社から何のリアクションもなし。

まあ、最終章が残されている。
最後の作戦が残されている。
まもなく、最終章の準備に取りかかる。

ここで、できなければただの馬鹿。
言った言葉を実行にうつせないのはカッコが悪い。

いまのところ、作戦はあるけれども確実じゃない。
調べてみないとわからない。
まずは調べて、そして後ほどお知らせします。
それで、本を形にできなければ言ってください。
「カッコ悪いよ」と。


そして、もう一つ。
47都道府県制覇の旅。
なんとなく、どうせなら全部の都道府県を旅してみたいなあと思っていたら、現在、40都道府県制覇。
あと、7県。
ゴールが見えれば、一気にダッシュ。
計画性のない俺が計画を少しずつたててる。



この2つをもって、20代の最終章を締めくくる。



最後に、この文章を読んでくれた人に言っておく。




俺も不安だよ。

遅れてきたルーキー。流れについて考える。

2006年04月06日 | little story
花粉症か、はたまた風邪かと周りの人は言いますが、あいかわらず風邪。
風邪が治らない。
次の症状は耳。
唾を飲み込むと右耳が痛い。
まあ、幸いにして俺の住んでいるところでは、桜が咲いていないので、そんなに慌てることもない。
プロ野球は開幕したけど、俺はまだまだキャンプ状態。調整段階。
桜が訪れるまでの間に治っていればいいや。
のどから鼻。鼻から耳という流れで風邪は終焉を迎えています。


それはさておき。
俺は山男で有名であります。
山に囲まれ、山とともに育ちました。
夏といえば、キャンプは欠かかせない。
朝日が昇っているのに、肝試しをしていたくらいの山男。
そんな山男の俺は、海を見たのは餓鬼の時に数回だけ。
海に家族と行けば、「海はひろいなあ~。大きいなあ~」と合唱してしまうくらい海に行くのは一大イベント。
そんな俺は、海を見たときに驚いた。

「川は海から流れているのではないのか?」

びっくり。
「あの大量の水は海から流れているのではなく、山から流れているのか」ということになったわけです。
まあ、馬鹿ですね。

まあ、いまだに不思議なんだけどね。
天気によって、川の水かさは若干違えど、やっぱり枯れることはない。
これからもきっと変わることはない。
常に山から海へと川は流れる。


それはさておき。
最近、「流れ」について考えていた。
野球ではよく聞く「流れ」。
「流れが変わりましたね」という言葉。

俺は野球小僧だったわけで、当然、野球をしていた時もこの「流れ」という言葉は耳にしていた。
しかし、理解できなかった。

「勝負の勝ち負けは、実力だろ。なんだその流れって?」と考えていたわけ。

まあ、確かに勝負の分かれ目において、実力の差は当然ある。
だけど、試合中にある流れも、確かにある。
やっと、その「流れ」を理解し始めた今日この頃。
あまりにも遅い遅れてきたルーキー。

野球には攻撃と守備があり、その2つは関連性がある。
表裏一体。

例えば、
一人の選手が守備でファインプレーをしたとする。
その選手の次の打席はヒットが出やすい。
ファインプレーした直後の攻撃で打順が回ってくるとなると、さらにヒットがでやすい。
どうしてか。
それは、守備をしている人も攻撃をしている人も同じ人だから。
一つのプレーで気分が良いと、また次のプレーにも影響する。
そして、一人の選手がチームの流れの小さな源流となる。
その小さな源流はチーム自体の流れに変わる。

チーム自体の流れで見れば、
点数をとった直後の守備では点数を入れられない方が良い。
どうしてか。
点数を入れたチームがリードしていれば、その試合の主導権をつかむことになる。
それがたかが1点のリードだとしても、追っている方は、やっぱり追っているのであって、気持ちとしては、どうしても焦りみたいなのが生じる。
そこで、すぐに同点なんかになっちゃうと、あっという間に一度できた流れが途切れることになる。
だから、どうせ追いつかれるにしても、直後はまずい。


この「流れ」は、いたるところに存在している。
俺の今の生活も存在している。

良い時もあれば、悪い時もあり、
パチンコに行けば、勝つときもあれば、負ける時もある。


それにしても、ギャンブルの流れを読むのは難しい。