臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(10月4日掲載・其のⅡ)

2010年10月10日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]

○ 秋野菜種まき終えて一合の酒にみたされ眠る幸せ  (蓮田市) 斎藤哲哉

 「やるべきことはやり終えた。後はワンカップ一本を引っ掛けて『眠る』だけが、蓮田の百姓である私の『幸せ』」という訳でありましょうか?
 並み居る傑作、特に二席の相原法則さん作をさて置いて、この穏やかな作品を首席に据えたところに、今の馬場あき子先生の優しいお気持ちと限界が見られるなどと生意気なことを言ってみたくなりました。
 でも、決して悪い作品ではありませんよ。
 それともう一点。
 詠い出しの場面を音読する場合は、「あきやさい⇒たねまきおえて」と、「秋野菜」の後に、連体格の格助詞「の」を補うような気分で音読するのでは無く、「あきやさいだねまきおえて」と、躊躇わず、何も補充すること無く、一気に読む必要がある。
 「種」も「たね」では無く、「秋野菜」と一緒になって一語を構成している「秋野菜種」であるから、「あきやさいだね」と濁音化して読まなければならないのである。
 恐らくは、作者・斎藤哲哉さんのお気持ちもそうしたものでありましょう。
  〔返〕 秋野菜種まき終えた後のワンカップそれに癒やされ眠れる哀れ   鳥羽省三

○ 突っぱって残暑あるいてゆく影は痩せてとがったわが肩である  (八王子市) 相原法則

 いくら熱いからと言っても、たかが「残暑」。
 その「残暑」の中を「あるいてゆく」のに、何で突っぱっる必要があるのかと思って地面に映っている「影」を見てみたら、それは他でもなく、「痩せてとがったわが肩」であった、という訳である。
 本作の作者・相原法則さんは、この場面で、「残暑」の中を「突っぱって」「あるいてゆく」自分自身を、改めて客観的に発見したのである。
 それも、全身や心では無く、「痩せてとがった」「肩」を見たことによって発見したのである。
 自分という者は、こんなものだ。
 この程度の者だ。
 この「痩せてとがった肩」を怒らせて「残暑」の中を「突っぱって」「あるいてゆく」のが他ならぬ自分だ、と知った時、本作の作者・相原法則さんは、どんな気持ちだったのでしょうか?
 どんなにか寂しかったに違いありません。
 それが、他ならぬ<相原の法則>というものである。
  〔返〕 残暑のなか痩せたる肩を怒らせて歩いて行くのが他ならぬ我   鳥羽省三


○ 秋の日の空を見ている何某の妻だったとは五年前まで  (ドイツ) 西田リーバウ望東子

 一首の歌の鑑賞を通じて、異国に住む<ミドル・ネーム>を持った美しい女性の、それなりに曲折のあった人生の一端に触れることが出来る。
 それも亦、短歌鑑賞者の<役得>と言えば<役得のようなもの>でありましょうか?
 それはそうとして、異国で暮す日本女性が日本名の<姓>と<名>との間に<ミドル・ネーム>が入っていたりすると、なんだか急に美しくなったような気がします。
 我が連れ合いにも、この際<ミドル・ネーム>を付けて、<鳥羽グレイス翔子>とでも名乗らせようかしら、とも思う。
 テニスのあの<伊達公子>選手ですら、<ミドル・ネーム>を入れて呼ぶと、あの日焼けした色黒も筋骨も全然気にならなくなりますからね。
 最も、伊達選手の場合は、<伊達クルム公子>では無く、<クルム伊達公子>なんだそうです。
 <ミドル・ネーム>は、出生した一族を誇示して付けているとか、と耳にしたことがあまますが、本当のところはどうでしょうか。
 それとは別に、近頃の<クルム伊達公子>選手は、急激に強くなりましたね。
 この分では、これから先、再びウィンブルトンのセンターコートに立つことさえ考えられますからね。
 スポーツ選手には、一旦引退した後や引退直前に、以前に増して強くなることが、よくあることなんだそうです。
 私のかつての同僚の山田先生は、教壇に立つ前に棒高跳びの日本代表選手として、アジア大会にも出場したことのある名選手でしたが、彼が自己最高記録を出したのは、引退を決意して数ヶ月選手生活を休んだ後のことだったそうです。
 それまで一度も跳べなかった、3メートル60センチという、その頃の日本選手では驚異的な高さを彼が跳べたのは、引退直前に、遊び半分で出場した大会での出来事だったそうです。 
 それでいい気になって、「これなら、もう一度選手生活に戻って、オリンピックに行こう」などと言い出さなかったところが、あの山田先生の山田先生たる所以ですが。
 つい、いい気になって、いささか駄弁を弄びましたが、再度、作品鑑賞に戻って、少しだけ、難点を申し上げましょう。
 これも一種の<倒置法>ではありましょうが、本作は、「五年前まで」の位置が適切では無く、誤解が生じる恐れ無しとしません。
 かと言っても、他に思案もつきませんから、これはこれで仕方が無いのかも知れませんが。
 それともう一点。
 これは、本作を読ませていただいて、私が勉強したことですが、私はこれまで、「なにがし」と読ませたい場合は、いささか躊躇いを感じながらも、杓子定規に「某」と表記していたのでしたが、これからは、「某」と表記したり、「何某」と表記したりして、必要に応じて書き分けたいと思います。
 ありがとうございました。
  〔返〕 グレイスを付けても隠せぬ顔のしみ鳥羽翔子さん六十四歳   鳥羽省三
      グレイスを付けて呼んでも顔のしわ鳥羽翔子さん六十四歳     々
 ご本人は、十万円のクリームの効果に期待しているようです。


○ 海の香の厨に満ちて更ける夜を貝のひも煮る明日は宵宮  (山梨県) 高村和海

 遠慮無く難癖を付けさせていただきます。
 本作で描かれている出来事を因果関係で説明すると、「貝のひも」を煮ているから「海の香」が「厨に満ちて」いるのである。
 したがって、「海の香の厨に満ちて更ける夜を貝のひも煮る」という本作の、四句目までの記述は<本末>を<転倒>させた表現とも言えましょう。
 だが、其処は<短歌的表現>というものであるから、これ以上は追求しないことにしましょう。
 ところで、海に面していないで、<山が有っても山梨県>といわれる山梨県の名物として、あわび等の煮貝が幅を利かしているのはどうした訳でしょうか?
 本作の場合も、「宵宮」の前夜に「厨」で煮られている「貝のひも」は、県外から運び込まれたホタテ貝の「ひも」であると思われるから、考えてみると真に不思議なことである。
 思うに、甲斐の国には海が無いから、この国に住む人々は海産物に餓えていた。
 そこで、気の利いた商人は、相模や駿河などからあわび等の貝を馬の背に積んで運んで来て大いに儲けたのであるが、あまり日持ちのしない貝類の鮮度が運んで来る途中で落ちる堕ちることを懸念して、予め塩したものを運んで来た。
 そのことが発端となって、その後次第に甲斐名物の<煮貝>が定着していったのでありましょう。
 宵宮の前の晩に「貝のひも」を煮る。
 すると、その匂いが「厨」一面に立ち込める。
 その匂いを嗅ぎながら、男たちは葡萄酒の
入ったグラスを傾け、明日の「宵宮」や明後日の<本祭り>への想いを走らせる。
 ああ、これが古き良き時代の日本というものであり、日本のお祭りというものである。
 お祭りは、<本祭り>の日の一日だけで終わるのでは無い。
 <本祭り>の前の「宵宮」。
 そして、その「宵宮」の前夜には、翌日や翌々日の準備の為に、祭りに関わる人々は大忙しである。
 <本祭り>が終わったからといっても、それでお終いになるのでは無い。
 <本祭り>を終えた後には、<直会(なおらい)>と言って、その祭りに関わった人々が集まっての<ご苦労さん会>がある。
 本作は、「宵宮」の前夜の「厨」の風景を示すことによって、私たち鑑賞者に、そんした祭り全体の様子を想像させようとしているのである。
 そうした点が、この名作の名作たる所以である。
 選者の馬場あき子先生は、本作中の言葉としては言い表わされていない、そうした点
にまでお心を走らせて、この作品を入選作とされたのである。
 そうした点が、選者・馬場あき子先生と他の選者たちとの決定的な違いである。
  〔返〕 貝のひもを上げたる後の煮汁にて隠元を煮て一品とする   鳥羽省三


○ 法要を済ませし僧がおもむろに一座を月見の席に変えたり  (神戸市) 内藤三男

 古き良き時代のお寺さんと檀家との睦まじい関係がよく描かれているとも言えましょう。
 だが、この一首を読んで、「気の利かない坊主であること! お寺さんは読経が済んだら、いただくものをいただいて、さっさと腰を上げたらいいのに!」と、仰る方もいらっしゃるに違いない。
 ことほど然様に、お寺の坊さんは、檀家の家庭環境や経済状態に注意して、事に当たらなければならないのである。
 したがって、住職の長男として、下にも置かずに育てられた息子が、住職である父親が亡くなったからといって、急に住職を襲えるわけは無い。
 こうした点からも、<葬式仏教>と言われる、日本の寺院制度は崩壊の危機に陥っているのである。
  〔返〕 直会を月見の宴に変へたきも生憎今夜は新月なりき   鳥羽省三


○ 猿の群れスコールのごと里に来て南瓜を抱え落花生も掘る  (三重県) 高山幸子

 「スコールのごと里に来て」という直喩に新味が感じられる。
  〔返〕 猪が山津波のごと襲ひ来て甘薯畑をたちまち荒らす   鳥羽省三


○ 絶やさじと送りてくれし心意気目黒のサンマは宮古の秋刀魚  (奥州市) 大松澤武哉

 「目黒のサンマは宮古の秋刀魚」という措辞にユーモアが感じられる。
 「絶やさじと」と「秋刀魚」を「送りてくれし」「心意気」の優れた人は、東京・「目黒」の住人だったようにも読み取れるが、まさか、そんなことはあるまい。
 と言うのは、みちのくの奥州市の住人である大松澤武哉さんに、わざわざ「宮古」産の「秋刀魚」を、東京の「目黒」から送ってくれて「絶やさじ」という「心意気」を示そうとする人もまさか在るまい、と思われるからである。
 ところで、埼玉県川口市に住んでいる私の姉宅に、毎年、中国産の<わらびの味噌漬け>を送って下さる、秋田県の住人が居ることは、ここに特筆して、皆様方にご披露に及んでも、私は、それほどお喋りとして嫌われたりはしないだろうと思われる。
  〔返〕 思ひみれば韓国産の松立てて年を迎へし春もありにき   鳥羽省三


○ 片足を無くした蜘蛛が巣を張りて嫌いだけれどそっと見に行く  (大阪府) 村上まどか

 「嫌いだけれどそっと見に行く」という下の句が、この作品を入選作にしたのである。
  〔返〕 嫌いだがそっと見るのは汲み取りの汚いトイレの便槽の中   鳥羽省三 

○ 秋あつし露も結ばぬ萩の下 蟻は粛々と塩辛蜻蛉(しおから)を曳く  (岐阜県) 棚橋久子

 グリム童話にも在るが、働き者の「蟻」は、この夏の私のように、いくら熱いからとて、クーラーを点けた部屋で休んではいられないのである。
 「塩辛蜻蛉」を「しおから」と読ませるような狡い手を用いるのは感心しない。
  〔返〕 宮城野の露を結びし萩のした花妻恋ひて泣くは誰が子か   鳥羽省三


[佐佐木幸綱選]

○ 夜を惜しみ夏を惜しんで蝙蝠のひたすらに舞う朝空けの空  (大阪市) 灘本忠功

 少し細かいことを申せば、作中の「蝙蝠」は「ひたすらに」「朝空けの空」を「舞う」のだから、詠い出しの「夜を惜しみ」は、無駄な表現ということになりはしませんか?
 夜通し舞い、「朝空けの空」でも「舞う」と言いたいのでありましょうが。
  〔返〕 朝空けの空の下でもまだ舞って夏を惜しむか黄金バット   鳥羽省三


○ 吸取紙に吸わせゆくがに在日の憂さを詠みにき一万五千首  (大阪府) 金 忠亀

 彼の金亀忠さんともなれば、「吸取紙に吸わせゆくがに」「在日の憂さを」「一万五千首」も「詠みにき」と仰るのも、当然のことかと思われます。
 その中の何首かは、あの「朝日歌壇鑑賞会」の餌食になったりもしましたが。
 「吸取紙に吸わせゆくがに」という一、二句目は、そういった点も踏まえての、苦しく切ない表現であろう、と拝察致します。
  〔返〕 砂浜に水を注ぐが如くして歌を詠みたり在日の日々   鳥羽省三


○ 四つ足をふんばり牛は拒絶する遠足の子らの乳しぼり体験  (須賀川市) 中山孤道

 数在る中には、それを経営の柱にして、採算を取っていらっしゃる酪農家も在るそうですが、ただでさえ忙しい酪農家が、体験学習としての「遠足の子ら」を受け入れて、「乳しぼり体験」をさせるのは、真にご苦労なことだと思われます。 
 馴れない手に、無理矢理「乳しぼり」をされるのは、牝牛にとってもねかなり辛いことだと思われます。
 訳の解らない理由で薬殺されたりもして、今年は「牛」にとっての<厄年>でした。
  〔返〕 四つ足をふんばり牛は拒絶せむ家畜輸送車で運ばれむ時   鳥羽省三 


○ 研修に遅刻の生徒がせかせかと座席に着いて居眠りをする  (さいたま市) 黛 衛和

 教師が無力感に苛まれるのは、こういう時である。
 そこで、仕返しという訳では無いが、こういう教師も確かにいる。
  〔返〕 四時限に遅刻の教師がのろのろと教壇に上がり煙草吸ひたり   鳥羽省三


○ 授業などに何の期待もせぬと言う子らに向かひてやはり授業す  (八尾市) 吉谷往久

 「やはり授業」するしか無いのである。
 教師には、授業という限定された役割りの中で、「授業などには何の期待もせぬと言う」生徒らの信頼を勝ち得て行かなければならない側面もあるのであり、それは真に哀しく切ない側面である。
  〔返〕 授業になど何の期待もせぬと言いながらも我に向ける視線よ   鳥羽省三


○ 死刑という重たき場面(シーン)は執行の一平方メートルの赤き踏板  (長浜市) 廣瀬耐子

 四句目の字余りを避けるためには、例えば、<一平米>という言い方もある。
 好き好きではありましょうが。
 過ぎし参院選で落選して再任され損なった、あの前法相が置き土産のようにして公開して行った、あの死刑執行現場の、空疎で生々しい有様は、今でも私たち国民の記憶に新しいのである。
 私の今の思いの一つは、「いくら何でも、あそこにだけは行きたくない」と、いうものである。
  〔返〕 あの場面(シーン)を国民我らに見せなむとしたる法相いかなる女性   鳥羽省三


○ 散風機の消毒の粉の青田這ふ猛暑の果ての大き夕焼け  (西条市) 亀井克礼

 本作の場合は、格助詞「の」五箇所連続使用がやや煩わしい。
 そこで、三つ目の「の」を、「の」と同じように主格を表わす、「が」に替えたらいかがでしょうか?
 尤も、この作品を評して、「格助詞<の>の五連続がリズミカルで好ましい」などと仰る優しい評者もいらっしゃるでしょうが。
  〔返〕 源五郎も泥鰌も既に死に絶へぬ青田を這へる消毒薬よ   鳥羽省三


○ 湾内を行き交ふ航路孤をえがき船影二つ距離を保てり  (鹿児島市) 杉村幸雄

 「湾内を行き交ふ航路孤をえがき」という上の句と言い、「船影二つ距離を保てり」という下の句と言い、真に観察の行き届いた傑作である。
  〔返〕 ほどほどの距離を保ちて添ひ行きぬ父に従ふ母の小舟は   鳥羽省三


○ カラコロと浴衣の下駄を鳴らしをり郡上踊りの渦にもまれて  (相模原市) 松並善光

 「郡上踊りの渦にもまれて」、「カラコロと浴衣の下駄を鳴らし」ている人物を、評者は、本作の作者ご自身と思ったが、それで宜しいのでしょうか?
 そうした推測が評者の間違いであったとしたら、この作品の趣きもかなり変わったものになるだろう。
 評者は、「郡上踊り」の群集の「渦にもまれて」、「カラコロと浴衣の下駄を鳴らし」ている自分をもう一人の自分が発見した、という内容であってこそ、この作品が傑作である、と思っているのである。
  〔返〕 コトコトとスーツの靴を鳴らしをり西馬音内踊りの闇に紛れて   鳥羽省三


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