臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

一首を切り裂く(005:乗)

2010年02月17日 | 題詠blog短歌
(西中眞二郎)
   間違えたとわざと大きく呟いてエスカレーター乗り換えており

 富小路禎子氏は私の尊敬する歌人の一人であるが、彼女の第二歌集『白暁』に、「自動エレベーターのボタン押す手がふと迷ふ真実ゆきたき階などあらず」という作品がある。
 エレベーターは、エスカレーターと同様にデパートなどに在る乗り物であるためか、エスカレーターが登場する上掲の西中眞二郎氏の作品を目にした瞬間、私は、エレベーターが登場する富小路禎子氏のこの作品を思い出した。
 不況の煽りであちこちの老舗デパートの支店が閉鎖に追い込まれ、デパートという流通媒体が果たす役割りは終わってしまったなどという、気の早い話題がマスコミで囁かれている今日ではあるが、在職時の私たち夫婦の楽しみの一つは、たまの休日のデパート歩きであって、回数こそ減りはしたものの、その習慣は今でも相変わらず続いている。
 しかし、手工芸品や陶磁器漁りを趣味とする家内はともかくとして、家内のお供に過ぎない私は、せっかくのデパート歩きをしていても、「真実ゆきたき階など」は画廊以外には無かった。
 そこで、西中眞二郎氏の作品の場合と同様に、エスカレーターやエレベーターの乗り換えは再三再四のことであった。
 私は感情の襞の頗る荒く、何事につけても大雑把な人間であるから、そうした場合でも、西中眞二郎氏のように「間違えたとわざと大きく呟い」たりはしないが、そうせざるを得ない、西中眞二郎氏の気持ちのほどは、同じ男性としてよく解る。
 そうです。
 そうなんです。女性諸君。
 私たち男性は、エレベーターやエスカレーターの場合に限らず、何かにつけ、乗り物を乗り間違え、そして、「間違えたとわざと大きく呟いて」いるような、気の弱い存在なのです。
 でも、エレベーターやエスカレーターの乗り換えはしても、それ以外のものの乗り換えは決して致しません。  
  〔返〕 「間違えた」と言い訳などはしないけど乗り損ねたるあのエレベーターよ   鳥羽省三 

一首を切り裂く(004:疑)其のⅡ

2010年02月17日 | 題詠blog短歌
(髭彦)
   疑ふと信ずることの間をば歩みて行かむ六十路の旅も

 若い頃の私は、ひたすら疑うことを知らずに生きて来た。
 自分の若さと頭脳の柔軟さを信じ、恋人の美しさと純情を信じ、祖国日本と自分の教え子たちの未来を信じ、職場と職場の同僚を信じ、上司を信じ、組合を信じ、妻子と両親兄弟姉妹を信じ、何よりも全てを信じる自分自身を信じて、ひたすら生きて来た。
 そうした自分の気持ちに変化が生じ始めたのは、自分が病気入院し、世間の人々がバブルの崩壊騒ぎでおろおろし始めた頃からであった。
 それからの私は、日本や教え子たちの未来が政府与党の政治家たちの言うように、前途洋々たるものでも無いが、野党の国会議員たちが言うようなものでも無いように思い始め、自分の頭脳が、かつての自分が思っていたようなものでも無いが、連れ合いにに言われるようなものでもないと思うようになった。
 要するに、私は、疑うことと信じることとを使い分けて世の中を生きて行くことを知ったのである。
 さて、私も既に定年に達して職場を去り、六十路の旅も半ばに達した。
 私は、六十路の旅の残された後半の行程も、疑うことと信じることとを使い分けて生きて行きたい。
 以上、私の敬愛する髭彦さんの作品に因んで、その話者の思いに託して、自分自身の思いなどを述べてみたが、現実の私は、六十路の旅路の旅程のほとんどを既に終えているのは致し方ない。
  〔返〕 ふらふらと弥次郎兵衛のごと揺れながら進み行くのか七十路の旅   鳥羽省三
 

(西中眞二郎)
   それまでは生あることを疑わず十年日記を買う年の暮れ

 死ぬか生きるかの大病をしたのは、つい昨年のことであったが、私は、今日ある命が、来年も再来年もあることを信じて、このブログを立ち上げ、「一首を切り裂く」などという勇ましいタイトルの記事を書いている。
 したがって、自分の生命が十年後も在ることを疑わずに、「年の暮れ」に「十年日記」を買った西中眞太郎さんを、格別な愚か者とは思っていない。
 いや、むしろ、私には到底出来ないに違いない、遠大なことを為そうとしている彼に対して、格別な親しみの情と尊敬の念すら抱いている。
 それとは別に、本作の表現上の問題点を指摘すれば、私は、本作の上の句の「それまでは生あることを疑わず」という言い方に、いつもの西中眞二郎さんらしからぬぎこちなさを感じている。
 かく申しても、私には、これに筆を加えて添削するという格別な思案もつかないから、やや物足りないけれど、これはこれで致し方が無いのかな、と思って、筆を措くしかないのである。
  〔返〕 いつまでも続く生とは思はぬも床敷き替へる霜月晦日   鳥羽省三


(梅田啓子)
   次の日もけふと同じ日あることをつゆ疑はず白菜漬ける

 梅田啓子さんは、西中眞二郎さんよりはかなり若年であろうから、「次の日もけふと同じ日あることをつゆ疑はず」と詠んでも、誰ひとりとして不思議には思わないだろうが、私はつい先日、作家の立松和平の訃報に接して、人間の死というものは、年の順には行かないものだ、ということをしみじみと知った。
 それはそれとして、お題「疑」の投稿歌の中から、佳作として選んだ、梅田啓子さんと西中眞二郎さんの作品の趣向が、ほとんど異工同曲であることを知って、私は今さらのように驚いている。
 人間は、ある程度の年齢に達すると、性別を越えて、考えることはそれほど違わないものなのかも知れない。
 ところで、私は、この作品の書き出しにも、西中眞二郎さんの作品の書き出しに感じたような物足りなさを感じたので、一言述べておきたい。
 一首は、「次の日もけふと同じ日あることをつゆ疑はず白菜漬ける」となっているが、作者はまさか、「白菜」の漬かるのが、漬けた「次の日」であるから、書き出しを「次の日も」としたのではないでしょう。
 一首の意は、おそらく「昨今の私はとても元気である。私ぐらいの年齢になると、人間は健康であることが一番だと思うようになる。先日漬けた白菜の漬物を美味しく食べられたのも自分が健康だからである。私は、今日と同じように、明日も明後日も、その後も健康であることを信じている。そこで私は、今日もあの美味しい白菜の漬物を漬けた」といったものであろう。
 本作のテーマは、同年代の誰をも納得させるような普遍的なものであり、この作品の趣向は凡その読者の心に満足感を与えるようなものだけに、私は、この作品の「次の日もけふと同じ日あることを」という書き出しに大きな不満が感じられてならないのだ。
 朝日歌壇やNHK短歌の特選に選ばれた作品などは、私如き凡人などは、ただ脱帽して禿頭を曝すしか無いような万全の出来であるだけに、才女・梅田啓子さんがほんの時たま犯す、こうしたポカに対して、堪らないほどの残念さを感じているのだ。
 何一つの根拠も無いままに、ここまで厳しいことを述べたならば、私の敬愛する梅田啓子さんは、再び口を閉ざして寡黙の人はおなりになられるのでしょうか?
 でも、そうなったらそうなったで致し方無い。
 私は、これまで同様に、梅田啓子さんのほとんどの作品に共感の意を述べ、ほんのときたま感じた不満の意を、偽り隠さず述べて行くだけである。
 私がここまで心を空しくして、「題詠2010」の投稿歌の中から、梅田啓子さん、西中眞二郎さん、髭彦さん、今泉洋子さん、伊倉ほたるさんなどの作品を探し出して来て、時に賞賛の意を表わし、時に不満の意を隠さないで述べているのは、私が、短歌というこの手頃な文学形態を愛しているからであり、短歌を結社誌という閉鎖的かつ非効率的な印刷媒体で発表し観賞することに限界と終末を感じ、かと言っても、それにとって代わらなければならないはずのインターネツト歌壇や短歌関係のブログサイトに、未熟さを感じているからである。
 今回、この歌会を催されるに当たって、主催者の五十嵐きよみが「いろいろと迷いましたが」といった趣旨のことを一言お漏らしになって居られたのは、歌人層の高齢化と若年化の二極分解化に伴う投稿歌の質の低下を憂慮する余りのことでありましょう。
 それにも関わらずに、お名前を列挙させていただいた上記の方々を初めとした多くの優れた歌人の方々が、他に発表の場を確保されているにも関わらず、この企画へのご投稿をお止めになられないのは、それらの方々が、この企画の主催者・五十嵐きよみ氏の意を斟酌なされるからでもありましょうが、私の思いに重なる思いをお持ちになって居られるからでもありましょう。
 題詠企画に投稿歌観賞サイトを設置なさったのは、素晴らしいアイデァである。
 これに賛同し、多くの方々がご登録なさり、それぞれの遣り方で投稿歌の観賞活動をご展開なさって居られるが、その中でも、西中眞二郎さんのサイトは、私が目標とさせていただいている極めて卓越した企画である。
 西中眞二郎さんのお取りになられている方法は、多くの投稿歌を余すところ無くお読みになられた上で、これとお思いになった作品をお選びになり列挙する。
 思えば、途轍も無く単純ながら、途轍も無く真面目で、途轍も無く根気の要る作業である。
 私は、西中眞二郎さんのこうした真面目さと根気に敬意を表しながらも、それとは反対の遣り方、考えようによっては、極めて身勝手、極めて不真面目な遣り方で投稿歌の観賞をさせていただこうと思った。
 時には故意に本筋を外し、時には大袈裟に誉め、時には向きになって作品への不満を述べ、時には駄弁を凝らし、時には作者と私語を交感するような観賞サイトの実現を目指したのである。
 そのため、観賞サイトのタイトルもできるだけ刺激的にと、「一首を切り裂く」などと、多くの方々の反感を買うようなものにし、投稿歌に対する<返歌>も添えることにした。
 その狙いが的中したかどうかは定かでは無いが、近頃の一日の読者数は数百人に及び、それに伴っての迷惑メールなども山積することとなった。
 世に短歌関係のホームページやブログは多い。
 その中の多くのサイトに目を通し、時には勉強させていただいているが、その内容は、短歌作者層のそれと同様に二極化していて、その傾向は、最近益々強化されているような印象である。
 二極の一方は、短歌関係の出版社や短歌の実作者、実作者では無い評論家の方々の高等かつ高踏な論評である。
 これらのサイトに掲載されている文章は、私などにとっては極めて有意義なものではあるが、時には仲間褒めや、自分自身の知識の披瀝に終始することも多く、サイトの管理者や筆者の方々には、今少し低いところに下りて来て、我々、一般読者にも十分に理解させ、楽しませるような文章を書いて欲しいとお願いするのみである。
 二極のもう一方は、主として、結社に所属している実作者の方々のサイトである。
 こちらのサイトの欠点は、閉鎖的かつ独語的なことである。
 こうしたサイトの筆者の多くは、短歌発表や論評の場としてのインターネツトの優位性を口にしながらも、サイトの玄関口に、決まったようにして、「このサイトに掲載している作品の版権は○○に属します」「このサイトに掲載されている作品や文章の無断引用は厳禁です」などと書いている。
 卑しくも、短歌関係に限らず、インターネツトを、印刷媒体に対抗する作品発表の場と信ずるならば、その主張に相応しいような作品を発表すべきであり、その作品の作者の名前や評者の名前を明示した上でなら、作品の是非に及ぶ論評を加えられても、名誉毀損に当る場合や、版権侵害に当る場合を除いては、文句一つ言えないはずである。
 その論評に不満ならば、自分自身のサイトにそれへの反論を掲載すれば済むことである。 作品発表の場としてのインターネットが、印刷媒体にとって代わるのは、もはや既定の事実であり、その必要を叫ぶ声も大きいが、その割りには未成熟である。
 私は、自分の名を明示したうえで、歌人と称する他の方々のサイトにコメントを寄せさせていただくことがあるが、その内容が、少しでも作品への不満めいたものになると、決まったようにして「削除」という名の出入り禁止措置を取られる。
 自分で言うのも恥ずかしいが、私がコメントを寄せさせていただく場合は、そのサイトに記載されている作品や文章に共感を覚え、賞賛の意を示したい場合だけであり、文脈を辿れば、その意は十分に伝わるはずなのであるが、それでも駄目なのである。
 「題詠企画」への投稿作品への多くは、その作者の創意と趣向を凝らした作品であり、それらの作品から、私は多くのものを与えられ、多くのことを学ばせていただいているが、時には、数百首に及ぶ作品群の中に、私が観賞対象にさせていただきたいと思うような作品がほとんど無いような場合もある。
 そうした場合はどうしても、力量の安定した、梅田さん、西中さん、髭彦さん、今泉さん、伊倉さんなどの作品を選ばせていただくことになる。
 上記の皆さんの作品は、どなたが見ても素晴らしいから、私が殊更に称揚するのも馬鹿げていて、可能ならば、選んだり、論評したりはしたくない。
 でも、困った時の神頼み、困った時の皆さん頼みなのである。
 そういう次第で、枉げてご許容下さい。
 ところで、手元に在る『大辞林』を開いたところ、「身体が丈夫であること・達者」を意味する語として、「まめ」という名詞が在ることに気付いた。
 この語については、多くの方々が方言のようにご理解なさって居られるようで、短歌作品に使用されることは極端に少ないが、源氏物語などにも用いられている、由緒正しい日本語であり、近代以後の歌人の中の幾人かも自作に用いている現代語でもある。
  〔返〕 のちのちもまめなることを疑はず今朝の晴れ間に白菜を漬く   鳥羽省三


(鳥羽省三)
   疑えばきりが無いけど横松はネタを尽くしたからじゃないのか?

 さて、「一首を切り裂く」に自作を持ち込んで、あの鳥羽は、どう<切り裂こう>としているんだろうと、読者諸氏は注目しているに違いない。
 私は別に、自作を切り裂くつもりは無い。
 それならば、誰に選ばれたのでも無い、この駄作を、何故に此処に持ち出したのか?
 私が、この作品を此処に持ち出したのは、この作品が傑作だからでは無い。
 この作品の内容が、前述の西中眞二郎さんの作品や梅田啓子さんの作品と少し関わりがあるからである。
 作中の「横松」とは、ある著名な作家の本姓であり、彼は「横」を「立」に替えて、「立松和平」というペンネームで、ごく最近まで旺盛な作家活動をしていたのであるが、つい先日、還暦を越えたばかりの年齢でご逝去された。
 彼の死は病死であって、自死では無いから、その原因については、特別詮索する必要が無いかも知れないが、ここ数年の彼は、環境問題や宗教に関心を示した作品を書くばかりで、作家として出発した当時の旺盛さ、元気さ、創作範囲の広さを失っていた。
 察するに、彼は、小説として書くべきネタを使い果たし、自分の創作範囲を極端に狭めた挙句に、ご逝去されたのではなかろうか?
 私は、彼・立松和平、本名・横松和夫の死に接して、人生の無常を今更のように感じた。
 数多い彼の作品の中で、私が最も愛読した作品は、連作短編小説『卵洗い』である。

一首を切り裂く(004:疑)其のⅠ

2010年02月17日 | 題詠blog短歌
(1年で1000首)
   書割の空に騙されないくらい疑り深きスズメバチたれ

 「書割の空」とは、演劇舞台の背景として描かれる、あの架空の「空」である。
 アルバイトで学習塾の講師をしている本作の作者は、その文字通りの架空を現空と間違えて突っ込んでしまい、あたら命を落としてしまったという慌て者の「スズメバチ」の話を、教え子相手の教訓話として語っているのであろう。
 そこで彼は、生徒たちに、「そんなスズメバチみたいな愚かな生き方をしてはいけない。人が生きて行くためには、もっともっと疑り深くなくてはいけない。ゆめゆめ他人を信じてはいけない。模擬試験の客観テストの答の選択肢も、いちばん正解らしいのが正解で無い。但し、私の話は信じること」などと、教え諭しているのでありましょう。
 でもそれは、評者如き常識人の社会とは、何ら関わらないことであるから、これ以上の詮索は止めましょう。
 とは言ってしまったが、「スズメバチ」といった、かつての短歌世界には決して飛び交ったことの無い獰猛な生物が出て来たので、疑り深さに於いては人後に落ちないはずの評者もまた、女郎蜘蛛のように魅力的な作者の仕掛けた巣網に捕らわれてしまったのである。
 短歌を評する者は、もっともっと疑り深く、もっともっと慎重な性格の人間でなければならないのでしょうか?
 もしそうならば、本作の作者の示した「スズメバチ」の教訓は、決して無視出来ない。
  〔返〕 書割のマニフェストとやらちらつかせ吾ら庶民を騙す宰相   鳥羽省三   

(nene)
   疑いをもたないもちますもったときもたげる首ともちつもたれつ

 この作品を、評者的、或いは文語文法的に書き改めると、「疑ひを持たず持ちたり持ちし時、擡ぐる首と持ちつ持たれつ」となり、その構造が、より明確になって来る。
 即ち、この一首は、「疑いをもたない・もちます・もったとき」と、文法遊び、語呂合わせ遊びをしているが、その遊びは途中までであって、一旦「もったとき」という語句に行き着くと、詠い出しの言葉「疑いも」が俄然頭を擡げ出して、「人間が誰かに、或いは何かに、疑いを持ってしまった時、その人間の心中には、<猜疑心>という、あの大蛇の鎌首のような得体の知れないものが擡げて来るのである。すると、その鎌首のオーナーである人間の心は、それによってコントロールされているはずの大蛇の擡げる鎌首と、持ちつ持たれつの関係になってしまうのである。だから、人間は決して、猜疑心を抱いてはいけない」と、猜疑心を持つことを戒めた歌に早変りするのである。
 本作は、遊び歌めかしてはいるが、実のところは、儒教倫理を説いた教訓歌なのである。
 とすると、本作の作者<nene>さんは、只の<ねんね>では無さそうだ。
  〔返〕 恋人を持たぬ持ちたい持った時持った貴女は蛇の前の蟇   鳥羽省三


(飯田和馬)
   鉄骨の少し足りないマンションで出生について次女は疑う

 同じ疑惑話でも、昨今は、どなた様かの政治献金疑惑話で持ちきりである。
 今となってはその真相も知れないままに終わってしまったような感じではあるが、かつての我が国では、マンションの<耐震強度偽装疑惑>などという問題が世相を賑わしていて、姉歯一級建築士、ヒューザー、小嶋社長、木村建設、総合経営研究所、平成設計などといった固有名詞が、やたらに持て囃されていたのであった。
 あの疑惑に関わる人々は、いま何処で何をしているのだろうか?
 あれらの固有名詞を形作っていた人々は、未だにこの国の何処かに棲息して居て、また新たな偽装話を立ち上げようとして、その機会を狙っているのでないだろうかなどと、小心者の私は、最近少なからぬ不安を抱いているのである。
 あの騒ぎに隠れていて目立たなかったが、あの時代には、いや、今の時代に於いても、阪神・淡路大地震やハイチ大地震級の大地震には到底耐えられそうも無いマンションが在り、それをそれと知ってか知らないでかは解らないが、安さに騙されて買ってしまったサラリーマン夫婦が居て、その不安だらけのマンションで交接して子を孕み、その子を産み、その子を「可愛い、可愛い」とあやし育てているに違いない。
 本作の作者の飯田和馬さんもまた、その片割れでありましょうか?
 その片割れの片割れである愛娘から、「パパもママも嘘吐きね。嘘吐きは泥棒の始まりって言うから、わたしのパパもママも嘘吐きで泥棒で、このわたしは嘘吐きの泥棒の子ってことね。昨日、お隣の佳音(かのん)ちゃんのママから聞いたんだけど、ママがわたしを妊娠した時、パパはこの家に居ないで、大阪に単身赴任してたって言うじゃない。そうすると、このわたしはパパの子供では無いことになる。そう言えば、お姉ちゃんはパパ似だけど、わたしはちっともパパに似てない。この始末はどうしてくれるの。弁償して。弁償して」と言われた時の、飯田和馬さんの驚愕振りは推察するに余りある。
 あっ、飯田和馬さん、怒ってる、怒ってる。
 でも、この話はあくまでも架空の話であって、大阪に単身赴任しているのは私の長男であって、実の娘の出生に疑いを抱いたのは、私の連れ合いの実家の婿養子であるから、この話は、決して飯田和馬さんや飯田和馬さんの御次女の純香ちゃんのことではありません。
 それにしても、この話に出て来る愛娘さんも酷いね。
 一旦生まれてしまった命を、「弁償して、弁償して」などと言って、駄々を捏ねるなんて。
 耐震強度偽装疑惑のマンシヨンならまだしも、一旦生まれてしまった命を弁償する方法はありません。
  〔返〕 大阪に単身赴任していたが地震騒ぎで帰宅していた     
      その宵は大阪ほどでは無いけれどダブルベッドがぎしぎし揺れた   鳥羽省三   


(中村あけ海)
   宮下と社長は同じシャンプーのにおい疑うべくもないです    

 連作マンガ短歌「庶務課中村が承りました」シリーズの一コマとは言え、庶務課員風情が、社長様とお局様のスキャンダルに口出しすることは論外。
 そんなことより、仕事をしなさい、お仕事を。
 さもなくば、事業仕分けで栗鼠寅されますよ。
  〔返〕 お局は高齢臭がひどいから二代目社長が因果含めた   鳥羽省三


(マメ)
   剥かれても何も残らぬ玉ねぎの悔しさ募る疑いの日々

 文法的なことについて説明すると、三句目「玉ねぎの」の「の」は、格助詞「の」の比喩の用法であるから、「玉ねぎの」の意味は「玉ねぎのような」ないしは「玉ねぎのように」となる。
 したがって、この作品の「剥かれても何も残らぬ」という一、二句は、それに続く「玉ねぎ」を導き出すための<序詞>であり、一首全体の意味は、「玉葱は剥かれても剥かれても皮ばかりで何も残らないから、剥いた人も剥かれた玉葱も悔しさばかりが募るが、私が世間の人々から高額脱税容疑者として疑われていた日々は、その玉葱のように悔しさばかりが募る日々であった」ということになる。
 ところで、作者<マメ>さんの分身と思われる、本作の話者は、一体どんな理由で、どんな人から疑われていたのだろうか?
  〔返〕 玉葱を剥いて涙を流さずに涙腺不備かと疑われてた   
      実母から数億円も頂戴し知らんぷりだと疑われてた   鳥羽省三


(はこべ)
   疑問符が二つ並んだメールには返事に迷う告白があり

 「日曜日の翌日は月曜日かしら? それとも火曜日かしら?」というメールには、「疑問符」が二つ並んでいる。
 このメールの何処に「返事に困る告白」が在るのかしら?
 もし在るとしたら、それは<言外の告白>であって、このメールの送り主は、このメールの文中では何一つ「告白」していない。
 だが、メールを受け取った者からすれば、こんな馬鹿馬鹿しい内容のメールを送ってくる者は、自分が狂人であることを「告白」しているようなものだと思うに違いない。
  〔返〕 われ思ふ故にわれ在る人の世に国を思わぬ宰相在りや??   鳥羽省三


(翔子)
   エコという経済理論いずこより猜疑心のごと春の雪降る

 一首の意味は、「最近は猫も杓子も『エコ』『エコ』と言い、史上空前のエコ流行りであるが、私からすれば、『エコ』という言葉は、科学的にも経済学的にも、何ら確たる裏付けを持たないもので、こんなつまらない言葉を、一体どこの誰が言い始めたのだろう、と思う。しかし、世間のエコ好きどもは、そんな私の思いを理解しようともしないで、私を時代遅れの馬鹿者扱いするばかりである。だから、昨今の私は、猜疑心の虜となってしまうのである。そんな私の心を占めている『猜疑心』にも似て、春になった今日の空から、冷たい雪が降って来る」といったところでありましょうか?
  〔返〕 エコというケチ哲学が流行るから箪笥の肥やしの服も着られる   鳥羽省三


(冥亭)
   何くわぬ顔をしてゆく人混みにわれにはわれの疑惑ありけり

 何くわぬ顔をして、原宿の竹下通りの人込みの中を歩いていた。
 考え事をしていたうえに、年齢に不足が無いから、つい足取りが乱れてしまい、バンクーバーオリンピック大会のスノーボード・ハーフパイプ競技の日本代表選手のような格好をした青年にぶつかりそうになってしまった。
 すると、その青年は、私の顔に唾を吐きつけそうにして言うのだ。
 「てめえー、爺のくせして、原宿の竹下通りを歩こうなんて上等だ。ここはアメ横ではねぇーぞ。てめえーのような老いぼれは、アメ横でも歩きゃがれー」と。
 そんなにまで言われて、腹が立たないことも無いが、理性の塊のような私は、ぐっぐっと堪えて、心の中で呟くのだ。
 「とは言うが、若者よ。両耳に開いた穴にぶら下がっているチャラチャラしたものを外し、その序でに鼻に開けた穴から待ち針の頭のように光る物を外して、よくよく考えてみなさい。人間は考える葦と言うが、君の今の言動は、考える葦に相応しいものであったか? 私は、見掛け通りの高齢者ではあるが、柔道は講道館の三段、剣道は錬士五段の免許を持っているのだぞ。私がその気になったら、たかだか五尺五寸程度の背丈しか無い君の身体は、そのスケートボードもろとも、青山墓地の斉藤茂吉の墓標に叩き付けられてしまうはめになるのだぞ」と。
 その言や壮んなれども偽り在り。彼の呟きに疑惑在り。
 本作の作者・冥亭氏は、当代もてもての<草食系男子>であって、柔道三段、剣道錬士五段はおろか、奥方の支え無しでは自宅の梯子段も昇れないような酩酊者なのである。
 〔返〕 冥亭のハンドルネームに疑惑在り誤記を正せば酩酊なるか?   鳥羽省三  
 
 
(木下一)
   神様も疑わないこと一つだけ だいたひかるを愛しています

 昨年の「あなたのパンティ」シリーズに替えて、木下一さんの今年の投稿歌は「だいたひかるを愛しています」シリーズとお見受けする。
 その内容はともかくとして、一連の事柄を為すに当って、予め定まった一つのテーマや課題を持って臨むことは決して悪いことでは無い。
 だから、木下一さんよ。今年一年、どうぞ「だいたひかるを愛しています」シリーズを貫き通して下さい。
 下の句が「だいたひかるを愛しています」に決まっているなら、後は上の句を創るだけのこと。
 「春寒やぶつかり歩く盲犬 だいたひかるを愛しています」「暇だからファンレターを書いてます だいたひかるを愛しています」「公園の染井吉野が咲き出した だいたひかるを愛しています」「ストーカーと疑われても困るけど だいたひかるを愛しています」「乗車券握り締めつつ思ってた だいたひかるを愛しています」などと、本の数秒で「お題001」から「お題005」までの作品を創りましたが、問題は、その作品が人の心を魅惑し、多くの人の支持を勝ち得るかどうかなのです。
 そこで、具体的な提案ですが、この一年貴方は、「だいたひかるを愛しています」シリーズの作品を百首詠み、その中から私が佳作と認め、選評を書きたくなるような作品を五首以上創って下さい。
 もしそれが適ったら、「題詠2010」の参加者の誰もが、木下一さんは只の悪戯坊主では無く、「題詠2010」に参加するに相応しい歌人だと認めることでありましょう。
 何卒、宜しくご奮闘下さい。
 ところで、本作を前にして、私はしばらく腕組みをして考え込んでしまいました。
 貴方が、下の句を「○○○○○○を愛しています」と固定して、「題詠2010」に挑戦するのは少しも構わないが、その句の中の「○○○○○○」に相当する人名を、「だいたひかる」にしなければならなかった理由が、私には少しも解らなかったからです。
 世に女性は星の数ほど居るが、その中で<だいたひかる>というお笑いタレントは、格別な人気者でもありませんし、格別な美形でもありません。
 その<だいたひかる>を、木下一さんともあろう好青年が、何故に、百回も「だいたひかるを愛しています」と言わなければならないのでしょうか?
 「抱いた<ひかる>なら未だしも、抱いてもいない<だいたひかる>を何故、木下一さんは愛さなければならないのでしょうか」と、私は小一時間に亘って考えました。
 その結果、私は次のような結論を得ました。
  ① だいたひかるは、格別な人気者でも美人でも無いが、程々に名が知れていて、程々に男好きのする女性であるから、仮にもし、木下一さんが彼女を愛人にすることが出来たとしたら、彼の虚栄心は程々に満足し、彼の性欲は程々に満たされるに違いない。
  ② だいたひかるは、あの南海キャンディーズの<木偶の嬢>程ではないが、俗に言う「牛蒡を抱いているよりは少しは増しな女性」であるから、彼女の愛を得たいと願っている男性がそれ程多いとも考えられず、仮にもし、今は無名の木下一さんが、彼女にラブコールをしたとしても、彼女がそれを受け入れる可能性が、必ずしもゼロでは無い。  以上。
 考えてみると、一見、出鱈目とも思われる行為にも、それなりの理由が在るものである。
 「題詠2010」参加者切っての好青年・木下一さんが、「だいたひかるを愛しています」と言わずに居られないのは、彼にとって彼女は、お構い頃、お手頃な女性だからであろう。
  〔返〕 桃の香が部屋一面に薫る夜は抱いてひかるを愛してみたい   鳥羽省三  

  
(越冬こあら)
   疑似餌だと知って飲み込む熱帯魚そんな私の結婚記念日

 「疑似餌だと知って飲み込む熱帯魚」が、本当に在るかどうかは私には分からない。
 仮に在るとしても、その「熱帯魚」が利口なのか馬鹿なのかも私には分からない。
 分からない事尽くしの作品ではあるが、その意味は、「この世の中には、疑似餌を疑似餌だと知っていながら飲み込む、利口か馬鹿か判らない熱帯魚が居るが、よく考えてみると、私の結婚もまたその熱帯魚の行為に似て、利口か馬鹿か判らない行為であった。今日は、そうした私の結婚記念日である」といったところでありましょうか。
 それはそれとしても、私は、本作の表現に大きな疑問を抱いているのである。
 その疑問とは、本作は、上の句が「疑似餌だと知って飲み込む熱帯魚」となっていて、それに対応する下の句が「そんな私の結婚記念日」となっているので、上の句と下の句とがあまりにも付き過ぎていて、鑑賞者の介入する余地が残されていないことである。
 つまり、本作は、下の句の句頭の連体詞「そんな」が邪魔なのである。
  〔返〕 疑似餌だと知って喰い付く熱帯魚 今日は私の結婚記念日   鳥羽省三


(チッピッピ)
   伸ばす手が繋がれること疑わず娘と歩く川縁の道

 本作の作者の<チッピッピ>さんはお母さんでありましょうか?
 だとすれば、本作は、母と娘との、ほんの一瞬に過ぎない<黄金時代>のスケッチなのである。
 晴れ上がった冬の一日、猫柳の綿毛が飛び交う「川縁の道」を母と娘とが連れ立って散歩している。
 先になった母が、後ろから来る娘の方に手を伸ばす。
 危ないから手を繋いで歩こう、というつもりでも無かったが、自分が伸ばした手を娘が握り、これからの道を母子が手を繋いで歩こう、という潜在的な意識はあったかも知れない。
 また、自分が伸ばした手が、必ず娘の手と繋がれるだろうということも疑ってはいなかった。
 案の定、母が伸ばした手を、すかさず娘が握り、母と娘の手が繋がった。
 でも、<チッピッピ>さん、母と娘の意思がぴったりと重なるなんて時期は、ほんの一時期なんですよ。
 こうした黄金の一時期は瞬く間に過ぎて、やがて娘は産みの母に悪態をつくようになる。
 「うちのばばーったら、朝から晩まで一日中、チッピッピ、チッピッピって、うるさい
ったら、ありゃーしない。同じチッピッピって騒々しいヤツでも、雀や椋鳥なら捕まえて焼き鳥にしてしまうって手もあるけど、あのチッピッピは加齢臭が酷くて犬も食わない」なんちゃって。
  〔返〕 手を出せば握る手が出るひと時を冬の川面に鴨が飛び立つ   鳥羽省三


(如月綾)
   疑っているわけじゃない 浮気しているんでしょ?って確信してる

 「浮気しているんでしょ?って」言い方は「確信してる」って言い方では無く、疑問を感じているって言い方である。
 したがって、本作には表現上の内部矛盾が存在する。
 単なる思い付きと感覚だけで詠んではいけない。
 歌人ちゃん仲間からなら、「素晴らしい歌ね。綾の気持ち、私も解るわ」などとのメールが来るかも知れないが、「一首を切り裂く」の読者の目は厳しい。
  〔返〕 疑っているわけじゃない<浮気率100%>って、確信してる   鳥羽省三
 

(南雲流水)
   弱いから自信ないから疑って潰してしまう牛乳苺

 「牛乳苺」とは、苺に牛乳と砂糖をかけた食べ物。
 その牛乳苺を食べながら、本作の作者は、先程から何事かを考えているのである。
 その「何事」とは何ごとか?
 察するに、彼が勤務する住宅販売会社では、最近、社員のリストラ問題が浮上しているのである。
 業績不振、売り上げ高激減に対応して、社員の半数を首切り。
 会社のこうした方針に対して、単なる営業部の平社員に過ぎない彼は、何一つ意見具申出来るはずも無く、かと言って、今の会社から解雇されたら、女房子供を養って行けないから、最近の彼は不安で堪らないのである。
 昨日の午後、営業先に出掛けようとしていたら、彼は人事部長に呼び止められ、玄関先で立ち話をした。
 人事部長は彼と同期で、同期の出世頭でもある。
 「南雲君、元気無いね。どう。最近釣りに行ってる」「はい、先週行きました」「場所は何処。相変わらず外房かしら」「はい、相変わらず外房です」「外房の今頃は、メバルかしら、鯛かしら」「はい、鯛が二匹。かなり小型ですけど」「小型でも鯛。腐っても鯛か。釣りも宜しいけど、営業成績も・・・・・・・」。
 立ち話の途中で、部長のケイタイが鳴り響き、「営業成績も・・・・・・・」の後は聞かず終いであった。
 彼は押しが「弱いから」営業には不向きである。したがって、勤務する会社の業績向上に貢献出来る「自信が無いから」、同期入社の人事部長の言動をつい「疑って」しまうのである。
 そこで、昨日の出来事のことを思いながら「牛乳苺」食べていると、匙を持つ手が狂ってしまい、「牛乳苺」を「潰してしまう」のである。
  〔返〕  強いから自信あるから力入れ苺ミルクの匙を曲げちゃう   鳥羽省三

 
(高松紗都子)
   遮光カーテン閉めればふいに闇になり疑心暗鬼がくっきり浮かぶ

 昔通った池袋の人世坐のようだ。
 暗幕を閉めれば館内が闇になり、シネスコ画面のスクリーンに、羅生門の鬼婆の姿がくっきりと浮かぶ。
 本作の作者は、高松紗都子さん。
 人間は、特に女性は、聡ければ聡いほど、自分自身で「疑心暗鬼」を生むことになる。
 「最近、夫の帰宅が遅い。さては、新入社員の女の子と何してるんではないかしら」
 「中三の息子が元気無い。もしかしたら、模擬試験の成績が下がったのではないかしら」などと。
 そう、何もかも遮光カーテンのせいなんですよ。
 あなたは、リビングルームだけで無く、あなたご自身の心の中にまで、遮光カーテンを下ろしているから、「疑心暗鬼」を生んでしまうんですよ。
 ご主人様もご子息様も、何一つ心配要りません。
 お二人とも、貴女のご家族なんですよ。
 大切なご家族を信用なさらないで、どなたを信用するんですか。
  〔返〕 とは言えど息子も夫も疑わし昨日も今日もものを言わない   鳥羽省三


(南葦太)
   積年の疑問 どうして弁慶は股間蹴られて平気だったか

 あまりにも馬鹿馬鹿しいので、股間に手を当てて大笑いしてしまった。
 「人間は考える葦である」と言うが、その葦を名に負う南葦太さんの「積年の疑問」が、事も有ろうに「どうして弁慶は股間蹴られて平気だったか」であると言うのだ。
 積年と言えば、少なくても二年以上。
 この日本の自分たちと同時代に、「弁慶が股間を蹴られて平気だった」理由を、二年以上もの長い間考え続けていた人間が居て、その人間が自分たちと同じように、歌を詠むことを楽しみにしていたとは、思うだに悔しい。
 そんな人間は自分の股間を自分で蹴り、すたこらさっさと彼岸の彼方に消え去るがいい。
 と、そこまで言われても、考えない葦である南葦太さんは、自分の股間を自分で蹴る算段がつかないから、相変わらずのうのうと生きているであろう。
 そこで、一手ご指南、これでおさらば。
  〔返〕 両足で地面踏ん張り跳び上がり利き足使って股間を蹴りな   鳥羽省三
 

(理阿弥)
   銀雪にペスは眠ったああ僕が疑うことを覚えた冬だ

 「冬に疑うことを覚えた」という修辞は、「夏に処女を失った」という修辞と対を成し、洋の東西を問わず、様々な詩人の口に拠って言い古された、極めて文学的、かつ古典的な表現である。
 この古典的な表現が、今、ここに、私の敬愛する歌人・理阿弥さんの口腔から漏れ出でたのは、全てこれ、歌神の導きである。
 そう言えば、昨今は、雪を「銀雪」として詠う詩人もほとんど見られなくなったし、「ペス」という犬の名も耳にしなくなってしまった。
 この一首に接し、私は高村光太郎以前の詩の世界に戻ったような気がした。
  〔返〕 泥土にペスの胸毛が濡れたあさ初潮知りたるユダの妹  鳥羽省三