珈琲もう一杯

3月6日、2010年Jリーグ開幕

思い出のフットボール11 1999年の東京

2009-10-13 03:37:46 | 思い出のフットボール
PCに取り込んでいた写真等を改めて見直していたところ、画像に記したようなデータが出てきました。
これは1999年のJ2・36節(最終節)後、J1昇格を決定づけた東京の選手およびスタッフが
喜びを表している姿。場所は新潟市陸上競技場ですね。

この画像は99年当時東京の胸スポンサーに入ってくれていたampmが、東京のJ1昇格を記念して
作成してくれたステッカーです。確かampmで500円か600円か以上の買い物を行った際、
おまけの景品としてつけてくれていたような気がします。なにぶん10年前のことですので、
記憶が定かではないですし、おまけの景品という表現も大概なものですけど(笑)。なお中段真ん中の
選手の胸にampmのロゴが窺えますが、この選手が若かりし頃のオク(奥原)ですね、おそらくは。
またオク(おそらくは)の前に座っている選手がコバ、コバの隣アディダスのロゴの上にいる選手が
カブですね。

この新潟での最終戦、僕はなぜか新潟には行けず、自宅で東京の試合をTV観戦しておりました。
東京は90分で勝利したのですが、東京と昇格を争っていた大分が延長に突入、そのまま
引き分けで終わってくれたなら東京の逆転昇格という状況となり、僕はパソコン通信の画面を
何度となくリロードしていたものでした。そしてついに大分の試合が大分1-1山形のままで終了、
東京が2位に滑り込み逆転昇格を決めたという画面を確認した時、僕は本当に絶叫いたしました。
「やったー」とね。なお余談ですが、パソコン通信という言葉に時代を感じます(笑)。

この試合後は新潟がすごく協力的というか、東京に多大なる配慮をしてくれたのですね。
大分の延長が終了するまで待っていてくれたのはもちろん、その後の東京の歓喜の雄叫びや
まさしくこの画像に残された記念撮影などのセレモニーもさせてくれて。前述のとおり、
僕は新潟には行けなかったのですが、新潟の配慮を後に聞いた時には感謝の気持ちを覚えたものです。

もしもこのシーズンに昇格を逃していたとしても、おそらくそう遠くない時期にJ1昇格を
果たせていたとは思います。ただ、J1J2・2部制がスタートしたシーズン、つまりJリーグにおいて
大きな変革の年となった99年シーズンに、最初の昇格組となれたことはやはり大きかったのでしょう。
なお東京と一緒に最初の昇格組となったのは、ご存知のとおりフロンターレでした。

この頃の気持ち、初心を忘れることなく、今後さらに成長していきましょう。
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思い出のフットボール10 2000年のJノート

2009-06-12 12:13:50 | 思い出のフットボール
部屋をちょこっと整理していたところ、画像に示したノートが出てきました。これは
2000年のJリーグ開幕時に各スタジアムで配布されたもの。このノートは05年か06年シーズン頃までは
確か配布されていたはずで、ノートが配られなくなった時には残念だなと思った記憶があります。
僕はこの開幕ノートのデザインを、毎シーズン密かに楽しみにしていたものでした。
各クラブのホーム開幕戦にて配布されるわけですから、マイクラブの試合にコマメに足を運ぶ人なら
少なくとも2冊は入手できたはずなんですよね(笑)。

00年のノートはJ1・J2全27クラブ(当時)から1人ずつ注目すべき選手をピックアップし、
その選手の顔写真を配したというスタイル。確かにこれは印象に残りましたね。どの選手が
取り上げられたかについては、表紙裏に選手名が記されていました。「俺を見に来い。」と
いう言葉とともに。また表紙裏にはJ1の日程、裏表紙の裏にはナビスコおよびJ2の日程が
記されております。

今からもう9年も前のことですので、さすがに時代の流れを感じる部分はありますね。
なんといっても、2000年シーズンは東京がJ1に昇格したシーズンですから。その東京から
表紙を飾った選手は佐藤由紀彦氏。佐藤氏は前シーズンに山形から移籍、サイドを小気味良く
駆け上がるそのスタイルは多くのサポーターの心を掴み、アイドル的存在となっていましたよね。
ちなみに山形で彼を開花させたのが石崎信弘氏でした。

2000年ですからまだ味スタはオープン前であり、このシーズンの東京は主に国立でホームゲームを
行っていました。開幕節は鹿島が名古屋相手に国立でホームゲームを行い、2節に東京が
ホーム開幕戦を福岡と行ったのですが、鹿島が開幕でアントニオ猪木氏をゲストに招いたのに対し、
東京は猪木氏の物真似で売っていた春一番氏をゲストに招くというフザケタことをやっておりました(笑)。
このシーズン、東京は昇格組ながら開幕からいきなり3連勝、4節柏戦で敗戦を喫したものの、
5節は当時本当に強かった磐田相手になんと勝ってしまうという驚きを演じたものでした。

他クラブの選手を見れば、ガンバが稲本、鹿島が平瀬、横浜FMが中村、福岡が山下など
アトランタ世代の選手が目につきます。トルシエ氏が率いたアトランタ五輪はまさに
2000年のことでしたから。さらにいえば、遠藤保仁もこのノートに登場しています。
ただこの時の遠藤は、京都の選手としての登場でしたが。京都時代の遠藤については、
このエントリーにて若干記しております。

上のリンクはナビスコ京都戦について記したものですが、2000年シーズンのナビスコは
J1J227クラブが一同に参加しトーナメントのかたちで行われていました。1回戦はJ1対J2の
組み合わせで、このスタイルは面白かったんですけどね。まあ今のJ2の過密スケジュールに
ナビスコを入れることはさすがに無理ですが。

まだ味スタがオープンしていなかったことを記しましたが、日程表を見ると4月29日には
東京ホームの東京-京都戦が鴨池で行われております。この試合を僕は観戦に行っておらず、
どんな試合内容だったのかも全く覚えておりません。また5月6日にはフロンターレとの試合が
駒沢で行われています。リーグ戦を駒沢で開催していたのですね。この試合は確か、2-1で
東京勝利ではなかったでしょうか。あとなぜ川崎とせずフロンターレと表記したかというと、
2000年シーズンはヴェルデイもまだヴェルディ川崎だったためです(笑)。ちなみに表紙の
フロンターレの選手は寺田、ヴェルディは米山です。

このノートを見て、あれからもう9年の月日が流れたのだなという思いは持ちましたね。
なんせ味スタオープン前、Jクラブが全部で27クラブ、東京の監督は大熊清、この年に大活躍した
東京の選手がツゥットという時代ですから。懐かしさを感じます。そして10年20年後に
今のこの時間を振り返った時に、楽しかったなと思えるような今を過ごそうではあーりませんか。
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思い出のフットボール9 1993.05.15

2008-05-15 01:33:27 | 思い出のフットボール
今年もこの日がやってきましたね。Jリーグが新たな世界に向けて、第一歩を踏み出した5月15日が。

今の僕にとって、Jのない生活はもはや考えられないものです。僕のような気持ちを持つ方も
多くいらっしゃることでしょう。Jが与えてくれたサッカーの楽しさや喜びは語りつくせない
ほどに大きなものです。また、地域とともに生きるという考え方に改めて気づかせてくれたことも。
そこで今日は、Jリーグの誕生日である93年5月15日の思い出を記してみることにしましょうか。

国立競技場でのヴェルディ川崎‐横浜マリノスの試合で幕を開けたJリーグ。この試合のチケットは
葉書申し込みによる抽選制で、僕も申し込んだものの予想通り落選。その落選通知葉書に確か
カズと井原の写真&サインがあって、当日はNHKで僕らのプレーを見てください、みたいなことが
書かれていた記憶があります。当日の昼間僕は新宿でちょっとした用事を済ませたのですが、
新宿南口LUMINE前あたりで、開幕戦を宣伝する号外が出ていたことに驚いたものでした。
この日の東京は間違いなく、Jリーグ開幕に浮かれていましたね。

NHK総合での生中継が始まる前から、ソワソワした気持ちを抑えきれなかった僕。中継が始まり、
キックオフが近づくにつれてさらに気持ちが高ぶっていきます。そして川淵三郎Jリーグ
初代チェアマンによる開会宣言。「スポーツを愛する多くのファンの皆様に支えられまして…」
という言葉は今聞いても素晴らしい。サッカーに限定することなく、スポーツを愛するとした
ところがね。

試合については僕が語るまでもないでしょう。誰もがこのゴールを記憶し、誰もがこのゴールしか
記憶していないマイヤーのJリーグ初ゴール。マリノス・エバートンの同点ゴール、そして
Jリーグ初代得点王のラモン・ディアスによる決勝ゴール。当時マリノスがヴェルディに連勝中
ということが盛んにいわれてましたが、そのジンクスどおりマリノスが2-1で勝利し、Jの歴史を
スタートさせたのでした。それにしても、今思えば、ラモン・ディアスがJでプレーして
くれていたんですよね。

初年度からJリーグに参加した10チームを改めて確認しておくと、鹿島、浦和、市原、V川崎、
横浜M、横浜F、清水、名古屋、G大阪、広島。15日の土曜はヴェルディ‐マリノスの1試合のみで、
翌16日の日曜に鹿島5-0名古屋、横浜F3-2清水、G大阪1-0浦和、広島2-1市原の4試合が
行われました。鹿島では06年W杯日本代表監督氏が大活躍、また万博では松下電器の流れを
汲むガンバの試合で停電が起きる(笑)、広島ではJリーグ日本人初ゴールを風間が記録など
数々の話題がありました。あ、三ツ沢のモネールダンスも忘れちゃいけませんね(笑)。

当時はまだコンビニでチケットを買えるなんて想像できない時代で、チケットぴあなりセゾン
なりの店頭で買うのが大多数だったと思います。まあ僕は初年度はチケットを手に入れられず、
ほとんど生観戦はしていないのですが。また当時はJの試合のダイジェストを何節かごとに
まとめた「J THE DIGEST」というビデオや、1試合まるまる収めたビデオも発売されて
いましたね。例えば、93年5月何日の何処‐何処の試合をノーカットで収録というビデオが。

今思うと全てが懐かしく感じます。あの頃は僕もまだ若かったな、なんて感慨に耽ったり
してね(笑)。

これからもJを存分に楽しみましょう。それにしても10チームで始まったJが15年後には
33クラブになっているとは、想像できませんでした。そしてさらに15年後、2023年には、
少なくとも全都道府県にJクラブが1つはあってほしいですね。

※このエントリーは、05年に思い出のJリーグのタイトルで記したエントリーのうちの1つです。
その経緯は思い出のフットボール8をご参照いただきたいですが、05年当時のエントリーに
一部加筆・修正を施した上で、改めて思い出のフットボールとしてエントリーしております。
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思い出のフットボール8 東京のJ初戦

2008-04-04 20:31:57 | 思い出のフットボール
僕は最近、思い出のフットボールというエントリーを記し始めました。エントリーを上げるに
あたり、過去の資料を再確認する中で様々な発見があり、楽しく記しているところです。

ところで僕は、2005年に思い出のJリーグというタイトルで3つのエントリーを記しておりました。
趣旨としては思い出のフットボールにマッチするものですし、埋もれさせてしまうのも
勿体ないと思い(僕自身思い出のJリーグのエントリーを忘れていましたからね(笑))、
一部加筆・修正したうえで、改めて思い出のフットボールのシリーズに加えることといたします。
その第一弾のエントリーは、東京のJリーグでの最初の試合について記します。
1999年3月14日のサガン鳥栖戦です。

今この試合を振り返ると驚くことが多いです。まずこの試合が行われた場所が、西が丘。ここから
して驚きです。1999年にはJリーグの開幕戦を西が丘で行っていたのだと。当時はJ2とはいえ。
またこの試合の観客数は3,685名でしたが、僕はこの数字を聞いて「今日凄く入ったよ!」と
言ってたんですよ。さらにこの年の西が丘での試合のメインスタンドはSOCIOのみの開放で、
一般のチケット購入客はバックのみでの観戦でした。そのような振り分けでも十分事足りる程度の
観客数だったということですな。今では考えられない話です。西が丘のメイン全てがSOCIOのみ
だったかは、ちょっと記憶が定かではないものの。

記念すべき東京のJ初試合のスタート11は、GK1堀池、DF12梅山、26小峯、3サンドロ、8藤山、
MF7浅利、15アウミール、14佐藤由、13加賀見、18岡元、FW11アマラオ。サブはGK22鈴木、
DF4山尾、6新條、MF24小林、FW17鏑木というメンバー構成。現在でも東京に属する選手は
すでにお気づきのとおり、藤山、浅利の両名のみです。また99年シーズンはまだ、12番を
選手がつけていたのですね。

試合内容についてはご記憶の方も多いでしょう。4分に岡元が相手をかわし、東京サポーター
が待ち受けるゴールに向かってボールを流し込みます。1-0東京先制。記念すべき東京の
J初ゴールはタローこと岡元によるものでした。その後も東京ペースで進み、前半は1-0で終了。

後半もさほど危ない場面もなかったと記憶しますが、東京もゴールを奪えないまま進みます。
しかし80分にキング・オブ・トーキョーがJリーグでの初ゴール。2-0となり勝負を決定づけます。
この頃はちょうど東京都知事選が告示されていたのですが、アマのJ初ゴールに対し
ゴール裏から「アマラオ都知事!」のコールが上がり、スタジアムは爆笑に包まれます(笑)。
その後は2-0のまま何事もなく試合を終わらせることに成功。東京にとってのJ初試合を快勝で
飾ることができたのでした。

3,685名を多いと感じていた時代から、平均観客数が25,000人前後というような状況に
なったわけですが、初心忘れるべからずという気はしますね。そしてこの頃はまだまだ、
ゴール裏も遊び心を発揮できていましたな。まあさすがに、今の味スタの規模で99年当時と
同じようなノリはもうできませんけど。また僕は99年からSOCIOになったのですが、
申し込み時期が遅れたためこの試合はSOCIOのシーズンチケットでの入場ではなく、
前売りチケットをローソンで購入しての入場でした。その前売り料金はBブロックという
エリア(バックスタンド側)で大人1、300円。

PS-残り2つのエントリーについては、しばらくお待ち下さい。おいおい上げていきます。
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思い出のフットボール7 市船の彼

2008-03-22 19:47:09 | 思い出のフットボール
僕が歴代のJ外国人の中で最高の存在だと思っているピクシーを監督に据えた今シーズンの名古屋。
最近の名古屋は若手を積極的に登用している印象がありますが、その中の一人であり
ここにきて大きな注目を集めているのが小川佳純選手。彼のプロフィールを確認したところ、
なんと彼は、超満員の国立で行われた国見-市船の選手権決勝で見事なロングシュートを
叩き込んだ、あの小川君なんですね。いやーこれは恥ずかしながら、全くノーチェックでした。

この試合は、選手権決勝が1月第2月曜の成人の日に固定されるようになって最初の年の決勝。
それまでの決勝は平日になることが多かったのですが、祝日開催となったことで観客数が
大幅に増加、この国見-市船の決勝はなんと51,986人もの大観衆を集めたのでした。
試合前の予想では国見有利の声が多かったと記憶しますが、市船の頑張りが試合を引き締め
両校のプレーを見詰める51,986人も、まさしく固唾を呑むような緊張感ある内容となっておりました。

そこで飛び出した彼のロングシュートは、本当に素晴らしいシュートで、僕は試合を観戦しながら
「この状況でこのゴールを決められる彼は、凄いモノを持っているんじゃないか」なんてことを
考えた記憶があります。当時の彼はJクラブには進まず、大学に進学することはすでに
情報として得ていましたが、いつかはJでプレーしてくれないかな、なんてこともおぼろげには
考えておりました。

ただ、明治大学に進学後の彼のプレーを継続してチェックできていたわけではなかった。
小川という選手が咋シーズン名古屋に加入したことは知っていたものの、名古屋の小川と
市船のあの小川君は、僕の中で結びついてはいませんでした。それだけに彼が市船の彼で
あることを知ったときは、嬉しくなりましたね。ああ、Jの舞台に来てくれたんだな、と。
ルーキ-イヤーの咋シーズンもそこそこの活躍をしていたようですが、ピクシー監督の下、
今シーズンはJ全体としても注目の存在となっていくのではないでしょうか。高校時代の彼の
見事なゴールに鮮烈な印象を受けた僕としては、大活躍に期待したいところです。東京戦以外での(笑)。

2003年1月13日に行われたこの国見-市船の決勝は、その後Jに進んだ選手が多く登場しています。
国見からは1関憲太郎(仙台)、5園田拓也(山形)、7松橋優(大分)、8中村北斗(福岡)、
9兵藤慎剛(横浜FM)、10柴崎晃誠(東京V)、11渡邉大剛(京都)、14平山相太(東京)などの
名前が見られます。またこの試合ではDFで出場していたようですが、15巻という名前もありました。
この巻は、今では小川のチームメイトとなっているあの巻佑樹ですね。

一方市船では2小宮山尊信(横浜FM)、5大久保裕樹(京都)、6青木良太(千葉)、10原一樹(清水)、
14鈴木修人(鹿島)、15カレン・ロバート(磐田)などの名前が見られます。そして忘れては
ならないのが、東京史上最高のイケメンの呼び声も高い(誰が言ってるのか分かりませんが(笑))
まっすうこと増嶋竜也も出場していること。この時のまっすうは13番をつけ、2年生ながら
最終ラインの一角を占めておりました。

それにしても、この試合に出場した22人のうち、僕の知る限りで実に17人の選手がその後
Jに進んでいるのですね。なんとハイレベルな戦いだったのでしょうか。Jへの選手供給源として、
この年代ではもはやJクラブのユースの方が主流となっていますが、それでも例えばJユース
サハラカップの決勝戦に進んだ両チームから計17人もの選手がその後Jへ進んだというのは
ちょっと想像しづらい。まあ高校年代から直接ではなく、大学を経由してという選手の方が、
小川をはじめこの時の両校には多かったわけで、Jユースからという比較をするにも
先を見なければならない面はありますが。

改めてこの時の両校の選手に感謝。そして、この選手たちを指導した指導者にも感謝を。
選手権決勝が成人の日に固定されて最初の試合がこの戦いだったことで、成人の日は
選手権決勝の日ということが一気に浸透したのではないでしょうか。それがその後、
野洲や盛岡商につながっていくわけですね。

さらにもう一つ言わせてもらえば、Jユースサハラカップにももう少し注目が寄せられれば。
大竹も咋シーズンの優勝チームの主力でしたし(笑)。
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思い出のフットボール6 江戸川にこの人もあの人も

2008-03-20 01:19:45 | 思い出のフットボール
思い出のフットボール5で、江戸川で東京がJ公式戦を行った話題について触れました。その最後に、
2000年のナビスコ京都戦についても若干記しましたが、ここでその思い出をまとめます。

この試合は2000年7月12日・水曜に行われました。前年の東京がJ2ながらベスト4に進出したことで、
この年のナビスコでは東京はシードチーム扱いとして、2回戦からの登場でした。その2回戦の
相手となったのが京都。ちなみにこの年のナビスコは、完全トーナメントのシステムで、
1回戦はJ1クラブ対J2クラブの対戦が行われていました。2000年当時のJ2は11クラブの参加で、
まだ日程に余裕があったというか、ナビスコを組み込める状況ではあったのですね。
このJ2クラブも参加してのナビスコ開催は、1999年に東京がベスト4まで進出した時と同じ状況。
ただ、ナビスコでベスト4まで進出したことで、過密日程となって東京が99年のJ2での戦いに
苦しんだことも事実でしたけど。

結果を先に記せば、1stLeg1-1の引き分けを経て迎えたこの試合、東京は京都に0-1の敗戦を喫し、
無念の2回戦敗退となったのでした。この試合が終わった瞬間、今でもはっきりと覚えていますが、
物凄く残念な気持ちに襲われたものでした。前年のベスト4というイメージを引きずって
いたことはもちろんありましたし、また冷静な視点でナビスコを捉えていた部分もあったのですね。
つまり、J1昇格初年度の東京が、リーグ戦を安定した成績で乗り切るのは無理だ。
しかしながらカップ戦ならば、勢いだけでイケテしまう面もあるんじゃないか、前年の東京のように、
というようなムシのいい期待というか。そのため、僕としてはむしろナビスコに凄く期待していた
ところがあったんですね、今思い返せば。

水曜の江戸川という条件ながら4,912名の観客を集めたこの試合、東京が優勢にゲームを
進めていた記憶はおぼろげにあります。ただ、前半を0-0で折り返した後の51分(時間は
僕の手元の時計によります)、京都10番のヘジスにゴールを奪われリードを許します。
その後も東京は攻めあがっていった記憶はありますが、結局ゴールを奪えぬまま0-1で
京都に逃げ切りを許し、無念の敗退という結末に。

この試合での京都サポーターの女性の姿も印象に残っています。その人は紫のシャツの背中に
お手製でサンガと記したマーキングを施し、選手に声援を送っていたのですが、試合後に
大喜びする彼女の姿を見て、僕は思いましたよ。「京都のこの勝利は彼女の勝利でもあるな、
ここまで喜べる彼女の」と。

さて、ようやくこのエントリーの本題に入りますが(笑)、この試合の両チームのメンバーは、
今見返せば大変に味わい深いのです。以下に記します。

東京:GK20土肥、DF2内藤、3サンドロ、26小峯、8藤山、MF25迫井、16小池、13増田、24小林
FW9ツゥット、11アマラオ SUBGK1堀池、MF6浅野、23喜名、14佐藤、FW15神野
京都:GK21平井、DF7佐藤一樹、4大嶽、5エジーニョ・バイアーノ、3中村、MF9松川、14遠藤、2野口
26松井、FW10ヘジス、11三浦 SUBGK28上野、DF6佐藤尽、MF12朴智星、13熱田、FW18大島

まず東京は、土肥ちゃんの背番号がまだ20、当時の東京を本当に支えてくれた内藤先生、
この年にブレイクしたペルー小池、鹿島からシーズン途中に移籍してきた増田、このシーズンに
前線でよく頑張ってくれた神野といった名前がありますね。

一方の京都ですが、彼らの方が凄いメンバーですね(笑)。まず中村はヴェルディで長年活躍した
中村忠、松川は平塚で中心だった選手、三浦はもちろんキングカズですな。また98年に
フリューゲルスがあのようなことになり、そこから京都に移籍した選手が多いのも特徴で、
佐藤一、大嶽、佐藤尽などがそうですね。

そしてフリューゲルスから加わった選手といえば、遠藤と大島の両選手もその一員。
遠藤はもちろん遠藤保仁であり、大島はもちろん大島秀夫です。両者とも高卒新人として
98年にフリューゲルスに加入したものの、1年で所属クラブがあのようなことになってしまった
わけですが、揃って99年から京都でプレーしていたのですね。

加えて松井と朴がいる。意外に思うのは背番号が松井26、朴12という点。この頃は両者とも
期待の若手という位置づけだったと思いますが、片鱗はすでに覗かせていたような。
余談ながら僕は松井に早い時期から注目していて、頭角を表しつつあったことを秘かに
喜んでおりました。さすがに東京との試合で松井を応援はしなかったものの(笑)。

これだけの有名人が、江戸川でプレーしていたんですね。懐かしく、楽しい思い出です。
今、僕らが日常として見ている試合が、10年後には素敵な思い出となることを願います。
さし当たっては、今日のナビスコ清水戦がそうなってくれてもいいのですが(笑)
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思い出のフットボール5 99年江戸川での戦い

2008-03-01 03:38:11 | 思い出のフットボール
東京関連の思い出2つ目は、江戸川での試合に関する話題です。

江戸川での試合そのものは、東京ガス時代および99年のJ2時代にはさして珍しいものでは
ありません。ただ、J1クラブ相手の試合となると、話はちょっと違ってきます。ましてや、
代表選手を多く擁する横浜FM相手となればなおさら。僕が記すのは99年7月24日・土曜に
行われたナビスコカップ準々決勝2ndLegの横浜FM戦ですが、当時のFMには錚々たるメンバーが
揃っていました。川口、城、井原、中村。これらのスター選手との試合を、当時の東京は
江戸川で行ったのです。つまり、川口能活を、城彰二を、井原正巳を、そして中村俊輔の
プレーを江戸川で見ることが出来たのです。いやー、なんとも面白い話です。

99年といえば東京はJリーグに参入した最初の年で2部制がスタートした年でもあります。
当然当時の東京はJ2、それに対し横浜FMもFMとしての最初の年ですが、J1でも有数のスター軍団と
いう認識はもちろんなされていた。繰り返しますが、そのスター軍団を江戸川でプレーさせたの
ですから、これは楽しい1日でした(笑)。

この年のナビスコ準々決勝および準決勝はホーム&アウェイで行われ、7月20日に開催された
横浜国際(当時)での1stがなんと東京の3-0という激勝。それもキックオフ1分にカブのゴール、
3分にコバのゴール、32分にカブのこの日2点目と前半で3-0と大きくリード、そのまま
逃げ切ったという東京サポーターとしてはたまらない勝利でした。付け加えれば、通常は
後半に自分たちのサポーターが陣取るゴールサイドを目指して攻めあがることが多いですが、
この試合は確か前半に東京が東京サポーターに向かって攻めていくかたちだったはず。
つまり3ゴール全てを東京サポーターは目の前で見られたわけです。それにしても、カブの
2ゴールで勝利なんて、驚きますよね(笑)。

この3点のビハインドを背負って江戸川にFMが乗り込んでくる状況だったのですから、
さすがに選手もサポーターも目の色が変わっていました。それに対し、東京サポーターが
「J1必死だね」なんて声を上げてイナシてみたりして、あの頃はまだ東京サポーターの
コールにも遊びがありましたな。

99年の江戸川での試合の観客数ですが、僕のメモでは2670名、3183名、4605名といった
ところでした。最後の4605名は岡田武史監督率いる札幌との試合で、シーズン押し迫った時期の
開催ということもあり、かなりの観客数となりましたが、2千名、3千名台といった日もある
状況でした。

ところが、FM相手の試合の観客数は5208人。江戸川でこの数は、相当なものですよ。
実際、超満員だったという記憶がありますし。実を言うと僕は、この試合は東京サポーターのみで
江戸川が埋まるんじゃないか、ぐらいに思っておりました。そのため、バックスタンドアウェイ側を
埋めたFMサポーターを見て、警備スタッフと「マリノスもあんなに来るのか、驚いたな」
なんて会話を交わしたことを覚えています。まあ、アウェイサポーターがいないなんて
わけはないんですけどね。さすがにね(笑)。

試合についてはやはり、目の色を変えて臨んできたFM相手に対し、当時の東京がそれを
正面から受け止められるだけの力はなく、21分と53分の城のゴールで0-2とリードされます。
この状況なら追う側の意気が上がるのは当然で、東京は苦しい戦いを強いられます。

しかし、その雰囲気を変えたのが、この試合はコンディションの関係からサブでのスタートだった
由紀彦。ユキがカウンターで一気に抜け出そうとしたその瞬間、井原が体当たりでユキを止め、
このプレーで井原は66分一発レッド。つまり東京が1人多い状況を作り出したわけです。
この井原退場時の東京サポーターの盛り上がりは凄いものでした。「井原、井原、井原」と
井原のチャントを立ち上がって絶叫する人まで出る始末で。まあ、僕もその一人だったのですが(笑)。
井原ほどのビッグネームに苦しまぎれの体当たりをさせるようなプレーを東京の選手が見せたことも
嬉しかったしね。

試合は結局0-2のまま終了します。この試合に関しては完敗ですが、ただ1stのスコアを
考えてください。つまり2試合合計3-2で東京が準決勝進出を果たしたわけです。いやー、
これは本当に嬉しかったなぁ。目の前の試合で2点差の完封負けを喫して心の底から喜べたのは、
僕の東京観戦歴の中でもこの試合だけです(笑)。

今やもう、東京がれっきとした公式戦を江戸川で開催することは、さすがに考えられません。
ましてやFM相手ならなおさら。しかしJ2初年度はこんなことがあったのですね。今にして思えば、
まだまだ牧歌的な時代だったなという感慨は覚えます。また東京の公式戦の江戸川開催といえば、
翌2000年シーズンのナビスコ京都戦もそうでした。この京都戦のメモも見直したのですが、
東京・京都ともに驚くような選手の名前があるため、この試合の思い出も改めて記します。

最後に99年ナビスコFM戦の東京のメンバーを記しておきます。
GK22鈴木、DF26小峯、5古邊、4山尾、8藤山、MF7浅利、15アウミール、24小林、17鏑木
9和田、FW11アマラオ SUBGK21遠藤、DF12梅山、MF16小池、14佐藤由、18岡元
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思い出のフットボール4 磐田のアジア制覇

2008-02-22 00:42:45 | 思い出のフットボール
平塚、フリューゲルスに続き、今回は磐田のアジアの戦いについて記します。1999年の
ことだったでしょうか。

この頃の磐田はほぼ日本人のみで戦い、抜群の強さを示していた時期でした。この頃は
アジアクラブ選手権(当時)の開催時期が毎年変わるような状況だったのですが、この年は4月28日に
UAEのアルアインと準決勝を戦った後、中1日でイランのエステグラルとテヘランにおいて
対戦したんですね。もちろん、スタジアムは超満員状態。磐田は10万人とも、12万人とも
いわれるアウェー状況の中での試合に臨んだわけです。

超満員のテヘランでの試合といえば、ドイツW杯予選でのイラン代表‐日本代表の試合が
記憶に新しいですが、あの試合はかなりの数の日本人サポーターがスタジアムを埋めていた。
しかしこの試合での日本人というか磐田のサポーターは聞くところによると100人前後だった
といいます。またご存知の通りイランは女性のサッカー観戦が極めて難しく、せっかくテヘランまで
足を運びながら、試合を観戦できなかった女性サポーターもいるとかいないとか。
普段のJの試合とはまさしく、全く異質な条件下だったのですね。

なんともタフな戦いながら、試合は磐田が前半に2点をリード、後半のエステグラルの反撃を
1点に抑え、2-1と見事勝利を収めたのでした。磐田の2点はいずれも名波のFKからで、
鈴木と中山のゴールとなっています。

僕はこの試合のハイライト(おそらくフットボール・ムンディアルだったと思います)を
見ることができたのですが、試合前に中山がインタビューを受けていました。その頃の
Jクラブに対して、アジア各国が多少なりとも思っていたであろうことを、インタビュアーが
質問します。「この大会に勝ちたいと思っているのか」といった意味の質問を。それに対し、
中山は「もちろん勝ちたい。勝つために来ている」といった意味の言葉を返しておりました。
当時はまだ、クラブレベルでのアジアの戦いに対する注目度は それほど高くなかったですが、
きっぱりと勝ちたいと言い切った中山に対して、よく言ってくれたと思ったことを覚えています。
もちろん、その状況において「勝つ気ない」などと言うわけはないですが(笑)。

またこの試合の入場時に、エステグラルの選手がイランの男性の特徴的な装束なのか、
頭に月桂冠的な、ハチマキのようでもあるものを巻いて登場、それが実に凛々しく
格好よかったことを覚えています。僕は知識がないのですが、あの巻き物はイランにおいて
伝統的かつ重要な装束なんじゃないか、なんてことを感じました。またあのような姿を
見ることができたのも、磐田がアジアの戦いを勝ち進んでくれたからだ、なんてことも思ったり。

当時の磐田のユニフォームスポンサーはネスレだったと思いますが、この試合でのスポンサーは
YAMAHAが入っていました。契約上の関係なのでしょうが、新鮮に映りましたね。磐田が
このユニフォームのレプリカをアジア優勝記念に発売したというような動きはあったのでしょうか。
かなり人気を博したと思うのですが。そのユニフォームを着て、中山がカップを掲げた写真を
添えておきます。

磐田はこの試合の5日後、5月5日には51,575人を集めた国立での鹿島戦で延長Vゴール勝ちを
収めています。この試合はJリーグの歴史に残る素晴らしい試合で、鹿島に先制を許しながら、
名波の見事な直接FKで84分に追いつき、俊哉のゴールデンゴールで勝利を得たのでした。
テヘランの超アウェー、鹿島相手のJリーグをわずか6日間のうちに乗り切ったという当時の磐田の
凄さに、改めて敬意を表します。また磐田相手の試合というと、この試合も忘れられない。
最終スコアこそ差がついたものの、これも素晴らしい試合でした。当時の東京としては。

それにしても、この時期の意味のよく分からない試合で、前田遼一が痛んでしまうとは…。
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思い出のフットボール3 フリューゲルスのアジア制覇

2008-02-20 02:15:49 | 思い出のフットボール
一つ下のエントリーで平塚のアジア制覇について記した際、フリューゲルスについても
若干触れました。そこで今回はフリューゲルスのアジア制覇についてエントリーします。

フリューゲルスは93-94年の天皇杯(J開幕後最初の天皇杯ですね)を制覇、その優勝で得た
ACWCも制覇し、アジアクラブ選手権王者とのアジアスーパーカップに進出したものでした。
相手はタイのタイ・ファーマーズ・バンク。僕が観戦したのは三ツ沢での2ndレグで、
平日の夜開催。Jの日程の合間を縫っての開催ですね。ちなみにこの時のフリューゲルスは
セザール・サンパイオ、ジーニョ、山口素弘、楢崎、三浦淳といった錚々たるメンバーが
顔を揃えておりました。

僕はアジアNo.1クラブ決定戦を日本で見られるということで、この試合についてはかなり
気合を入れており、三ツ沢のバック真ん中あたりの指定席を早い段階で購入しておりました。
そして試合当日、楽しみにしながら入場したところ、スタジアムはガラガラ状態(笑)。
観客数は5000人行くか行かないかぐらいだったのではないでしょうか。平塚のエントリーでも
同様のことを記しましたが、この頃はまだアジアのカップ戦が浸透していなかった状況。
これは他のアジア諸国も似たようなものだったでしょう。そこにうまくターゲットをあわせ
勝ち抜いてきたのが、当時のタイ・ファーマーズだったといえるのでしょう。失礼ながら、
今タイのクラブがACLを勝ち上がれるとはちょっと想像しがたいから。

三ツ沢での試合に話を戻しますが、タイでの1stレグは確かドローでした。ただそれはあくまで
慣れないタイでの戦いだったからで、三ツ沢なら楽勝だろうと僕は捉えておりました。
ところが、この試合は非常に緊迫した展開となり、フリューゲルスが勝利を収めたものの、
最後までどうなるか分からない内容でした。試合終了間際にボールがタッチを割って、
タイ・ファーマーズのスローインで再開される際、急いでボールを返そうとしたボールボーイに
「勝ってるんだから急がなくていい」という声が飛んだことを覚えています(笑)。それぐらい、
競った試合だったんですね。少なくともこの時のタイ・ファーマーズはスーパーカップに
出場するに値するチームでした。

試合終了後、喜んだ選手がウイニングランを行いましたが、サンパイオと山口が肩を組みながら
スタンドのサポーターからの祝福に応えていた場面を今でもはっきりと覚えています。
この2人のコンビは本当に良かったなぁ。そしてブラジル代表としてW杯に出場するほどの
選手であるサンパイオが、アジアでのタイトルをこんなに喜んでくれるということに
嬉しさを感じたのも覚えています。それはやはり彼が本当のプロだからではないでしょうか。
どんなものであれ、タイトルを獲得することの大変さとその価値を知っているのだという。

この勝利でフリューゲルスはこのシーズンのアジアNo,1クラブとなったわけですが、
当時それが大きな話題になったという記憶はありません。前述しましたが、アジアのカップ戦に
対しての認識がまだまだピンと来なかった時期ではありましたので、これはまあ仕方ないでしょう。
「Jリーグの合間に行われるアジアのよくわかんない試合」的な感覚が強かっただろうし。
ただフリューゲルスのその後を思うと、アジアチャンピオンという事実をもっと強く打ち出して
いても良かったか、という気はしなくもないですが…。

それにしても、三ツ沢でアジア王者同士の激突が見られたとは、なんとも贅沢な話です。
三ツ沢に行くたびに専用スタジアムはいいなと思いますから。

PS-ジュビロのアジアクラブ選手権制覇についても、改めて記します。もちろん、テヘランで
試合を観戦したわけではないですけど(笑)。
コメント (2)
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思い出のフットボール2 平塚のアジア制覇

2008-02-19 00:12:15 | 思い出のフットボール
一つ下のエントリーで、ベルマーレ関連の話をと記しました。諸事情により路線変更しましたが、
ここでベルマーレ平塚の想い出について記すことにします。

ベルマーレはご承知のとおりJリーグ2年目の94年から、Jでの戦いをスタートさせました。
上がって最初のサントリーシリーズ(この名称も懐かしい)ではJとしての経験不足を露呈したものの、
ニコスシリーズでは生まれ変わったように躍進、ニコス2位の成績を残しました。そしてその勢いで
臨んだ天皇杯で見事にタイトルを獲得、その結果アジアのカップウィナー同士が戦っていく
アジア・カップ・ウィナーズ・カップの95年シーズンに出場することになったのでした。

今となってはもはや、ベルマーレがどのような推移を経て、ACWCを勝ち上がっていったのかは
覚えていません。そのため、いきなり準決勝の想い出からこのエントリーはスタートします(笑)。

準決勝がホーム&アウェイだったのか、それとも一発勝負だったのかさえ覚えていませんが(笑)、
準決勝は平塚で開催されました。僕も平日開催のこの試合を見に行くため、仕事を終えて
東京駅からの東海道線に乗り込み、一路平塚を目指します。ところが、なんということか、
東海道線で事故が発生、平塚駅に向かうはずの僕が乗車した電車が立ち往生します。

止まった直後は「とにかく早く復旧してくれ」の思いで一杯でしたが、ある程度の時間が経過しても
電車が動き出す気配がない。試合が始まってるよと気は焦るものの、ずっと止まっている
電車の中で、いつしかもう「今日は仕方ない」と諦めの境地に達しました。そりゃ悔しいし
腹も立ったけど、僕だけが災難を受けているわけでもないのでね。

僕が見れなかった準決勝を平塚は勝ち抜き、決勝進出。その決勝は準決勝からさほど間隔をおかずに
日本で開催されたのですが、スタジアムはなぜか三ツ沢でした。なぜ平塚でなかったのか、今でも
分かりません(笑)。もしかしたら、フリューゲルスが勝ち上がることを想定していたのかもしれません。

平塚の相手はイラクのアル・タラバ。細かな内容は覚えていませんが、2-1で平塚の勝利。
1-1で迎えた後半の押し詰まった時間に平塚が決勝ゴールを上げたのですが、その決勝ゴールを
決めた選手がルーキーだった中田英寿選手。この局面、この時間でルーキーが決勝ゴールを
決めてしまえることに、本当に驚いたものでした。この選手は凄いのかもしれないな、
なんてことを思ったような。まあ、実際に凄い選手だったんですけど(笑)。

当時はまだ、アジア各国のリーグ王者が戦うアジアクラブ選手権と、カップウィナーが戦う
ACWCがそれぞれに行われていました。その後両者は発展的統合を遂げ、今ではACLに統一された
わけですね。クラブ選手権の方はJクラブがなかなか勝てませんでしたが、ACWCについては
Jリーグスタート後に平塚のほか、フリューゲルスや清水も優勝しており、日本勢に相性のいい
大会だったと言っていいでしょう。フリューゲルスが制したACWCについては決勝がどんな内容だったか
記憶にないのですが、ACWCの勝者としてフリューゲルスがクラブ選手権の勝者と対戦した
アジアスーパーカップの三ツ沢での試合は観戦しましたので、日を改めてそちらの記憶も
エントリーすることにします。

平塚が優勝した三ツ沢での決勝は、4-5000人程度の入りだったと記憶しています。
当時はまだまだJのタイトルがアジアへの戦いに直結しているという意識は薄く、Jの試合の
合間を縫って行われる「よく分かんないアジアの試合」にさほど関心が寄せられていなかったのは
事実でした。僕としても、サッカーの試合が見られるから行ったというだけのことで。
ただ、Jの代表がアジアを制したことに、大きな喜びを感じたのは覚えていますね。

ACWCを制した95年当時の平塚は小島がいて、名塚がいて、名良橋がいて、テルがいて、野口がいて、
そしてベッチーニョがいた。そこにさらに中田ヒデが加わって。なんとも煌びやかなタレントを
抱えていたものでした。彼らがアジアのタイトルを手に入れたのは、決して偶然ではない。
今思えば、あの頃がベルマーレ平塚の絶頂期だったのでしょう。ただ最近の湘南はきちんとした
サッカーをやっていますし、湘南ベルマーレとして彼らがJ1の舞台に戻ってもおかしくはない。 
コメント (2)
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