PCに取り込んでいた写真等を改めて見直していたところ、画像に記したようなデータが出てきました。
これは1999年のJ2・36節(最終節)後、J1昇格を決定づけた東京の選手およびスタッフが
喜びを表している姿。場所は新潟市陸上競技場ですね。
この画像は99年当時東京の胸スポンサーに入ってくれていたampmが、東京のJ1昇格を記念して
作成してくれたステッカーです。確かampmで500円か600円か以上の買い物を行った際、
おまけの景品としてつけてくれていたような気がします。なにぶん10年前のことですので、
記憶が定かではないですし、おまけの景品という表現も大概なものですけど(笑)。なお中段真ん中の
選手の胸にampmのロゴが窺えますが、この選手が若かりし頃のオク(奥原)ですね、おそらくは。
またオク(おそらくは)の前に座っている選手がコバ、コバの隣アディダスのロゴの上にいる選手が
カブですね。
この新潟での最終戦、僕はなぜか新潟には行けず、自宅で東京の試合をTV観戦しておりました。
東京は90分で勝利したのですが、東京と昇格を争っていた大分が延長に突入、そのまま
引き分けで終わってくれたなら東京の逆転昇格という状況となり、僕はパソコン通信の画面を
何度となくリロードしていたものでした。そしてついに大分の試合が大分1-1山形のままで終了、
東京が2位に滑り込み逆転昇格を決めたという画面を確認した時、僕は本当に絶叫いたしました。
「やったー」とね。なお余談ですが、パソコン通信という言葉に時代を感じます(笑)。
この試合後は新潟がすごく協力的というか、東京に多大なる配慮をしてくれたのですね。
大分の延長が終了するまで待っていてくれたのはもちろん、その後の東京の歓喜の雄叫びや
まさしくこの画像に残された記念撮影などのセレモニーもさせてくれて。前述のとおり、
僕は新潟には行けなかったのですが、新潟の配慮を後に聞いた時には感謝の気持ちを覚えたものです。
もしもこのシーズンに昇格を逃していたとしても、おそらくそう遠くない時期にJ1昇格を
果たせていたとは思います。ただ、J1J2・2部制がスタートしたシーズン、つまりJリーグにおいて
大きな変革の年となった99年シーズンに、最初の昇格組となれたことはやはり大きかったのでしょう。
なお東京と一緒に最初の昇格組となったのは、ご存知のとおりフロンターレでした。
この頃の気持ち、初心を忘れることなく、今後さらに成長していきましょう。
これは1999年のJ2・36節(最終節)後、J1昇格を決定づけた東京の選手およびスタッフが
喜びを表している姿。場所は新潟市陸上競技場ですね。
この画像は99年当時東京の胸スポンサーに入ってくれていたampmが、東京のJ1昇格を記念して
作成してくれたステッカーです。確かampmで500円か600円か以上の買い物を行った際、
おまけの景品としてつけてくれていたような気がします。なにぶん10年前のことですので、
記憶が定かではないですし、おまけの景品という表現も大概なものですけど(笑)。なお中段真ん中の
選手の胸にampmのロゴが窺えますが、この選手が若かりし頃のオク(奥原)ですね、おそらくは。
またオク(おそらくは)の前に座っている選手がコバ、コバの隣アディダスのロゴの上にいる選手が
カブですね。
この新潟での最終戦、僕はなぜか新潟には行けず、自宅で東京の試合をTV観戦しておりました。
東京は90分で勝利したのですが、東京と昇格を争っていた大分が延長に突入、そのまま
引き分けで終わってくれたなら東京の逆転昇格という状況となり、僕はパソコン通信の画面を
何度となくリロードしていたものでした。そしてついに大分の試合が大分1-1山形のままで終了、
東京が2位に滑り込み逆転昇格を決めたという画面を確認した時、僕は本当に絶叫いたしました。
「やったー」とね。なお余談ですが、パソコン通信という言葉に時代を感じます(笑)。
この試合後は新潟がすごく協力的というか、東京に多大なる配慮をしてくれたのですね。
大分の延長が終了するまで待っていてくれたのはもちろん、その後の東京の歓喜の雄叫びや
まさしくこの画像に残された記念撮影などのセレモニーもさせてくれて。前述のとおり、
僕は新潟には行けなかったのですが、新潟の配慮を後に聞いた時には感謝の気持ちを覚えたものです。
もしもこのシーズンに昇格を逃していたとしても、おそらくそう遠くない時期にJ1昇格を
果たせていたとは思います。ただ、J1J2・2部制がスタートしたシーズン、つまりJリーグにおいて
大きな変革の年となった99年シーズンに、最初の昇格組となれたことはやはり大きかったのでしょう。
なお東京と一緒に最初の昇格組となったのは、ご存知のとおりフロンターレでした。
この頃の気持ち、初心を忘れることなく、今後さらに成長していきましょう。