ただ生きるのではなく、よく生きる

自然の法則をとらえ、善(よ)く生きるために役に立つ情報を探して考えてみる

子どものしつけにおける日米の違い

2017-02-02 19:06:56 | 知恵の情報
昨秋、講演で訪れたボストン滞在中に、アメリカ人の家庭でのしつけを目にする
機会がありました。

一つ目の家庭では、夕食のあいだずっと2人の子たちが給仕役としてテープルの
後ろに控えていました。私が声に出して所望するより早く、手元には、すっと塩が
差し出されるという具合で、それは見事は給仕ぶりでした。そのおかげで夫婦は
テーブルから離れることもなく、客である私のペースにぴたりと合わせて食事をし、
存分に会話をたのしめるというわけです。

子どもたちは、こうして客を我が家に招くたびに、もてなしの気配りやマナー、客と
交わされる品を損なわない会話の実際を見て、人との接し方を学んでいくのです。

もう一軒のお宅には、4年制のカレッジを卒業して医学部への進学を間近に控えた
息子さんがいました。その進学費用を息子本人がローンを組んで支払うと聞いて
感心していると、アメリカでは、医学、法学、神学の大学、いわゆる日本で言う
大学院の授業料は本人負担が常識だと言います。まったく驚きました。

なにせ、私の日本の知人は、2人の息子の医学部の合格祝いに自動車を買い
与えたのですから。しかも、国立大学に合格した息子のほうには、
「授業料が安いから外車でもいいよ」
とまで言ったらしいのです。
「子どもをだめにするには、ほしいものをなんでも与えることだ」
という思想家ルソー(1712~78)の言に従えば、いまの日本の子どもたちの
行く末は押して知るべしです。
塾から毎夜疲れきって帰宅する子どもたちとは、当たり障りのないひと言ふた言
を交わすのがせいぜい。子どものご機嫌を損ねないようにと、おとなはいつも
びくびくしています。そんな自信なげな態度が、子どもの傍若無人ぶりに拍車を
かけます。精神的に成熟したおとなに育てるためには、ときには有無を言わさぬ
体当たりのしつけが欠かせないというのに、いったい、日本のおとなたちはどうした
ことでしょう。

─『生き方上手』日野原重明 いきいき株式会社より

■戦後のGHQなどの政策、その後のマスコミの米国のスタイルの誘導など、日本一億人
総白痴化と大家壮一氏が指摘したようになり、現代に至っているせいだろう・・・
日本人が修身といって教えていた、人としての精神を戦後なくしたからだろう。
民主主義といってもそのよい面だけでなく、相手の立場に立つことよりも、自分の意見
をいうことを正当化し、悪平等主義を主張する・・・共存共栄の精神を学び、今一度
明治から戦前までの修身について思いを深め、ひとり一人なにが大切か思い返して
みたい。