水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

「水戸浪士十九烈士」の位牌について

2022-07-16 20:22:23 | 日記

本会の令和4年夏季講演会テーマ「幕末の動乱と水戸藩」の第2回は、7月10日(日)「『水戸浪士十九烈士』の位牌について」と題して飯村尋道氏が講演しました。飯村氏は、天狗党のうち榊原新左衛門一派(大発勢)に属して川越藩に幽閉され自害した常陸太田市出身の羽部廉が獄中で筆記した「水府儀士姓名録」(羽部道紀氏所蔵)を元に、また川越市喜多町の広済寺住職から提供された「十九烈士」の位牌を紹介しながら、臨場感あふれる熱弁を振るわれました。

19人の烈士の足跡や遺跡を丹念に精力的に辿っていく調査研究の姿勢は、生涯学問に励む者の模範でもあります。

100名を超える参加者は、講師の迫力に聴き入り、往時の様々な人間模様に思いを馳せながら、水戸藩の混迷を再考していました。

武 蔵 国 川 越 藩
川越藩は武蔵国の中央に位置し、武蔵国一の大藩で武蔵国を支配する重要拠点でした。また、江戸と新河岸川の船運や川越街道で結ばれ、江戸城防衛の枢要な地でもあり、江戸の北の守りとして発展しました。そのため、譜代・親藩が藩主を務める藩で、大老や老中も輩出しています。

幕末の藩主直侯(なおよし)は水戸烈公斉昭の八男で八郎麿(信山公)と称しました。
(信山公は、講師のふるさと大子の豪農旅澤家に、嘉永4年(1951)の秋に宿泊しています。また十四男の環山公(昭訓)も文久2年(1862)に旅澤家に宿泊しています。)
直侯の婿養子直克は、久留米藩主有馬頼徳の五男で、越前藩主松平春嶽が辞職した後に空席であった政治総裁職に就きます。攘夷派であったことから、水戸藩攘夷派の天狗勢ら殉難志士への温情があったと思われます。
その後に藩主となった松平周防守康英は前棚倉藩主の時に天狗勢の弾圧などの功績によって、8万石の棚倉藩から17万石の川越藩主に栄転となります。なんとも皮肉なことでした。

19 人 の 烈 士
幕府の鎮圧隊に投降した榊原一派1154人の内、20人が武州川越藩へ預けられ、うち19名が獄死しました。
藩主松平大和守直克が広済寺(曹洞宗)に遺骸を埋葬し、永代供養料として15両を寄附し、19柱の位牌を当寺に奉納しました。

19名は以下の通りです。
義山道勇信士 森嶋政治良(20歳) 義光明勇信士 石川新知衛門(23歳) 義清心勇信士 八文字吉治良(不詳) 義岳宗勇信士 飯嶌善七(不詳) 義學良勇信士 江橋五右衛門(55歳) 義法實勇信士 檜沢佐七(45歳) 義徳會勇信士 長嶌平治右衛門(22歳) 義祖參勇信士 出沢喜十良(34歳) 義窓照勇信士 雨沢孫四良(30歳) 義源庭勇信士 鈴木喜八良(不詳) 義蓮意勇信士 羽部廉藏(58歳) 義全秀勇信士 樫村雄之助(22歳) 義高忠勇信士 菊地忠右衛門(67歳) 義一來勇信士 園部謙輔(38歳) 義孝善勇信士 小田倉捨吉(19歳) 義眞傳勇信士 舩橋清七良(36歳) 義逹周勇信士 佐野治良九良(27歳) 義觀相勇信士 出沢孝三良(32歳) 義空通勇信士 嶋田儀一良(不詳)

烈 士 の 一 人「 羽 部 廉 藏」
廉藏の遺書「国難事實書」には、「国賊を幽冥の内に戮(ころ)し、烈公(斉昭)の御遺業を興起し、大炊頭(おおいのかみ)(宍戸藩主松平頼徳)様の御怨恨を慰め奉る」との思いをもって獄中で書いたものです。
廉藏は、「敵の飯は食えぬ」と絶食を貫き自害しました。

辞 世  みちにふる 雪ハ道にて消ゆるなり 君につかふる人もそのこと

     きなふけふ 明日香の川にあらねとも 淵は瀬になる あなりよのなか     「惟知集」(内田正人氏所蔵)

 

 

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