水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

弘道館記と徳川慶喜公

2022-06-23 16:25:30 | 日記

本会の令和4年夏季講演会は「幕末の動乱と水戸藩」のテーマで4回を計画しました。
第1回は6月19日(日)に本会代表の齋藤郁子が「弘道館記と徳川慶喜公」と題して講演しました。
幼少期に弘道館で学んだ水戸学の精神「尊王攘夷」を貫いて、大政奉還を実現させた最後の将軍徳川慶喜公の信念は自らの揮毫「誠」に示されていました。

100名近くの皆様にご参加いただきましたことに、幕末の水戸藩への関心の高さを実感させられました。

○ 最後の将軍徳川慶喜公略史
天保  8年(1837)、水戸第9代藩主徳川斉昭の7男として生まれる。幼名は七郎麻呂(七郎麿)。(生後7カ月で水戸へ。弘道館で教育をうける。)
弘化  4年(1847)9月 水戸より江戸へ出て一橋家相続(11歳)
文久  2年(1862)7月 一橋家再相続 将軍後見職の任(26歳)
元治元年(1864)3月25日 禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ず。(免後見職)、3月27日 藤田小四郎ら筑波山挙兵、6月16日 平岡円四郎暗殺さる
慶応元年(1865)2月  3日 天狗党352人敦賀で処刑される。
慶応 2年(1866) 8月  7日 禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮辞任、8月20日徳川将軍家相続、12月5日 第15代将軍就任 幕政改革に奮闘
慶応 3年(1867)  10月14日 大政奉還、12月  9日 王政復古の大号令、
12月13日 慶喜の辞官納地 幕閣ら反対:二条城で苦慮→大坂(会津松平容保・桑名松平定敬・老中板倉勝静らも)、12月23日 江戸城二の丸全焼
明治元年(1868)1月 1日「討薩の表」… 1月 2日 幕府側1万5千の軍勢で対応、1月 3日 鳥羽伏見の戦、6日 慶喜 大坂脱出、7日 徳川慶喜追討令、11日 夜半品川沖着  12日 江戸城着→上野寛永寺大慈院に入り謹慎、3月9日 西郷・山岡鉄舟駿府会談、4月11日 江戸開城、4月15日~7月19日まで水戸弘道館にて謹慎、7月23日 徳川家の駿府移封に伴い静岡着(諸生派も本圀寺勢も戻ってくる、大混乱が起こるであろう…避けるために大久保一翁・勝海舟・山岡鉄舟等同行) 清水宝台院にて謹慎 謹慎を継続
明治  2年(1869)5月18日 榎本武揚降伏し五稜郭の戦(箱田戦争)終結、9月28日 明治天皇、徳川慶喜の謹慎を解除
明治30年(1897)11月16日 東京へ移住、巣鴨の邸に入る
大正2年(1913)11月22日逝去(77歳)  11月30日 上野谷中墓地に埋葬

○ 弘道館記の意味するところ
弘道館は水戸9代藩主斉昭公が、天保12年(1841)に創立した藩校で、社会や政治の腐敗を正し、迫りくる外国勢力から独立自存を守るためには優れた人材の育成が必須であるとした構想の下に建てられたものです。
天保の改革(藩政改革)の一つでもあります。

「弘道館記」は、斉昭が自らの建学の主旨を藤田東湖に伝え、東湖はそれに自分の意見を織り交ぜて起草し、儒者佐藤一斎、会沢正志斎、青山雲龍らの意見を徴し、斉昭が裁定し、自ら筆したもので、碑文を鐫(ほ)った石工は、那珂湊の大内石了とその子石可です。

また、藤田東湖が著した『弘道館記述義』は、弘道館設立の主旨を余すところなく記した名文です。

弘道館記は以下のように6つの質問と5つの眼目で構成されています。

<質問>
 1. 弘道とは何ぞ
   道は人が広めるものである。

 2. 道とは何ぞ
   人間としての守るべき道義道徳   

 3. 弘道の館は、何のためにして設けたるや
   良き人物を育てるため

 4. 武御雷神を祀る(鹿島神社)ものは何ぞ
   日本の国の成立に寄与された神であるから

 5. 孔子廟を営むものは何ぞ
   学問の神様であるから

 6. 斯の館を設けて、治教を統ぶるものは誰ぞ
   斯の館の館長は藩主徳川斉昭である

<眼目> 肝要なところ、要点であり主眼

 1.「神州の道を奉じ西土の教を資(と)り」      ※ 日本の教えを大切にするとともに外国の教えも採り入れる

 2.「忠孝二无(な)く、文武岐(わか)れず」     ※ 忠と孝とは根本において一つであることを知る

 3.「学問・事業その効を殊(こと)にぜず」        ※ 学んだことを実社会で実践する

 4.「神を敬い儒を崇び、偏党あるなく」        ※ 神道・儒教など広く学び一方に偏らない

 5.「衆思を集め群力を宣べ、以て国家無窮の恩に報いる」※それぞれの学問の力を発揮し国家の恩に報いる

なお、徳川家康を称えたところで「尊王攘夷」の四文字熟語が初めて用いられました。

揮毫の「誠」と冠帽印・脚部印の意味
「誠」には冠帽・脚部に刻した語句の意味が含まれているのであり、慶喜が弘道館で学んだ成果を示しています。

「時亮天功」:「天功」天子が民を治める事業。「亮」これを助けて明らかにする。征夷大将軍として天皇をお助けする。今その時であり、その任である。
「允文允武」:「允」まことに。文武の徳が至れる、行きわたる様を頌えた。家康創業の徳を慕い、その祖業を空しくしない事を期する。
「綱紀四方」:天下に道徳を明らかにし、秩序を正す。(『書経』)。

これらには、征夷大将軍としての使命と抱負を暗示し、その使命を貫く根本精神は「至誠」にあることを示しています。

大政奉還の真意(伊藤博文の問いに対して)
慶喜は大政奉還について、単に水戸家の家訓「尊王」を実践したまでのことであるとして次のように述べています
「余は何の見聞きたる事も候はず、唯庭訓を守りしに過ぎず、御承知の如く、水戸は義公践しただけであると、次のように述べてい以来尊王の大義に心を留めたれば、父なる人も同様の志にて、常々諭さるるやう、我等は三家・三卿の一として、公儀を輔翼すべきはいふにも及ばざる事ながら、此後朝廷と本家との間に何事の起りて、弓矢に及ぶやうの儀あらんも計り難し、斯かる際に、我等にありては、如何なる仕儀に至らんとも、朝廷に対し奉りて弓ひくことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめ忘るること勿れ、されど幼少の中には深き分別もなかりしが、齢二十に及びし時、小石川の邸に罷出でしに、父は容を改めて、今や時勢は変化常なし、此末如何に成り行くらん心もとなし、御身は丁年にも達したれば、よくよく父祖の遺訓を忘るべからずといはれき。此言常に心に銘したれば、唯それに従ひたるのみなりと」(『徳川慶喜公伝』)

明治8年(1875)4月4日 明治天皇の水戸徳川家小梅邸へ行幸の意味
明治天皇は、「今、人々は桜の花見を楽しんでいるところであるが、自分は水戸徳川家が代々守り伝えてきた尊王の心が明治維新を生み出す力となったことに感謝する」と、水戸徳川家の小梅邸に行幸された。

  明治天皇御製
    花ぐはし さくらはあれど このやどの
             よよのこころを 我はとひけり

 

まとめ
弘道館記の尊王攘夷精神が生かされた大日本帝國憲法は、明治22年2月11日公布されました。短期間で停止されたオスマン帝国憲法を除けば実質上のアジア初の近代憲法です。憲法は翌明治23年(1890)11月29日開会の第一回帝国議会をもって成立し、ここに日本の議会制立憲君主体制が確立されたのです。

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