水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

慈愛の郡奉行 小宮山楓軒

2022-10-18 19:00:38 | 日記

秋季講演会のテーマは「博愛の政治」です。10月16日(日)は本会事務局長仲田昭一氏が「慈愛の郡奉行小宮山楓軒」と題して講演しました。水戸藩は、治政の浸透を図って最大11組(郡)に区分けしましたが、その一つが「紅葉組(郡)」(現鉾田市・茨城町・小美玉市域を含む地域)です。郡奉行楓軒の人物像と施策から、領民への限りない慈愛の心を見ることができました。

1 楓軒の家系
  小宮山楓軒は、明和元年(1764)、水戸下市に誕生し、天保11年(1840)77歳で歿しました。墓は、水戸市の郊外酒門共有墓地にある。遠祖は、甲斐(山梨県)の武田勝頼に仕えた小宮山内膳であり、内膳は天正10年(1582)の天目山の戦いで勝頼に殉じて壮烈な最期を遂げた。楓軒は、父の東湖(昌徳)から「小宮山家に生まれた者は、内膳殿が天目山において殉じた心を心として忘れることがあってはならず、主君に誠を尽くすことを最善とせよ」と幼少の頃から教戒されていた。楓軒は、毎年正月には、武田信玄の画像を床に掲げて礼拝、先祖の受けた恩義を忘れないためにと。さらに「酒と囲碁は、人の害となるものである。特に年少の内は、血気盛んで思慮も熟さないから、これらから身を誤ることが多い。お前も40になるまではこの戒めを守れ」と教諭された。

 楓軒の孝養
 文化6年(1809)7月、母細金佐野が72歳で死去した。病気が次第に重くなり行くに従い、楓軒は昼夜枕辺に付き添い、様々と手を尽くして看病したが、日増しに気力薄くなり行く様に、嘆きの様たとえようもないほどであった。お付きの者共も神仏へ祈誓をかけ、或いは塩断ち、或いは17日の断食など、様々に神仏に祈ってはみたがその甲斐はなかった。余りのことに、母佐野から恩義を受けた者の中に、代わって自分の命を捧げようと願い出る者まで現れた。忝ないとは申すものの、楓軒は当然受けることはなかった。

楓軒は、母の遺骸を亡父の眠る藩の坂戸墓所(水戸市)へ一緒に埋葬しようとしたが、故障があって菩提所天界寺(水戸市細谷)へ埋葬せざるを得なかった。楓軒は、後々までこれを苦にしていた。

 このため、文化8年以降のことであろう、天界寺は紅葉陣屋(現鉾田町)からは遠方であり、しばしばの墓参は叶わないので生井沢村(現茨城町)薬王寺境内に遺髪を埋めて仮墓を造った。楓軒の孝養ぶりを窺うことができる。

3 郡奉行として
① 領民への慈愛
 楓軒は、寛政11年(1799)11月、南郡の中の南野合組14か村の郡奉行となり、翌年七月に紅葉村の役宅(陣屋)に移った。組名も、紅葉組と変わり、これより20年に亘って郡奉行を務めることになる。楓軒の郡奉行の姿勢について配下の郡吏であった西野孝平の「筆記」から一部を意訳して述べてみよう。

 任地の村々は、痩せ地も多く、また農民達も酒におぼれ、博打に励むなど勤労意欲に乏しく、かなりの貧しさであった。奉行は、このような農民の実態を調査するために、よく廻村をさ    れ教化に努められた。その際、極く困窮人達が、寒中に夜具もなく老母を凍えさせ、又は綿入れもなく袷を着ているのみの母親、その子に着せる物もない母の嘆きの様を見て、哀れに思われて忍びがたく、よくよく事情を糺された上で、藩へ申し上げ夜着・布団・綿入・子供には花絞りの綿入などを仕入れ、それらの母子等を呼び出して与えられた。

② 絵入寺西八箇条
  楓軒の農民教化法の一つに「絵入寺西八箇条」がある。文字の読めない農民達に対して、教えの内容に絵を入れることで容易に理解させようとしたのである。ここにも、楓軒の農民への愛情、風紀改良への強い意志とアイデアとを見ることができる。

「寺西」とは、幕府の代官寺西封元のことである。封元は、塙代官時代の寛政5年(1793)に次のような農民訓「寺西八箇条」その他を領内に配布し、農村の教化に努めた。これに絵を入れたのである。

ア 天はおそろし   地は大せつ   ウ 父母は大事   子ハふびんかあい   夫婦むつまじく   兄弟仲よく   職分を出精   諸人あいきょう

このほかに、クヌギの植林を奨励した。クヌギは生育が早く10年で薪となり、江戸へ出荷できた。博打や怠惰な生活を改めるために、徒歩での回村に努めた。陣屋には、土地にちなんだ楓樹を植えて育てあげた。

退任に際して、その心境を「天地の勢いは盛んで、様々なものを生み出す力に満ち満ちている。自分はこの20年間の在任中に何事を成し得たであろうか。わずかに陣屋前庭の一株の楓樹を育てたに過ぎない」と謙虚に詠んだ。

 離別を知った領民たちは総出で見送りに出た。水戸下市の屋敷修繕に当たっては、管下の領民が夜陰に紛れて材木や縄・釘などを置いていったという。

まとめ
領民の心を掌握し、勤労意欲を高めるには、各人の力を十分に発揮せしめると共に、領民の生活の保障・福祉・教育の向上に務めることである。楓軒は、当時の農村の実態を見て、まさに民心・民福に視点を置いて民政に務めた。その背景にあるものは、家の歴史を重んじ、両親をはじめ家族への孝養から来る領民への限りない慈愛の心であった。

コメント
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