水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

徳川家康と武田信吉

2023-07-20 22:52:31 | 日記

水戸・歴史に学ぶ会の講演会「徳川家康シリーズ」の第1回講演会を令和5年7月16日(日)、那珂市ふれあいセンターごだいで開催しました。
講師は、当会事務局長の仲田昭一です。

徳川家康は、豊臣秀吉から本拠地駿府から未開の東国江戸へと追われましたが、その意図を承知の上で受け入れ、辛抱強く都市づくりに励みました。やがて幕府を開いて今日の東京、関東の繁栄の基礎を築きました。家康がいなかったならば、戦国時代を終焉させて、平和な日本の250年はなかったかもしれません。どちらかというと、織田信長や豊臣秀吉よりは人気は落ちますが、家康は再評価される人物と思われます。

徳川家康は、江戸を中心として日本全国を盤石の体制に組み立てていきました。そのよう中でも、長く佐竹氏が支配した常陸の地、殊に「水戸」は重要視しました。それは、家康が水戸城主に次々と実子を当てたことに表れています。即ち、はじめに四天王の一人榊原康政を指名し、その後に五男の武田信吉、10男頼宣、11男頼房と続けていったことです。

今回は、あまり触れられていない武田信吉を紹介します。

1 常陸の武田氏と甲斐の武田氏
源義家の弟新羅三郎義光が常陸佐竹氏の祖となり、義光から出た義清・清光が甲斐へ流されて甲斐武田の祖となります。その子孫が武田信玄・勝頼です。

武田信玄の子勝頼は、天目山の戦いで織田信長・徳川家康の連合軍に敗れ、武田氏は滅亡します。しかし、名門武田氏の名跡が無くなることを惜しんだ2徳川家康は五男信吉に「武田姓」を継がせました。家康は、武田の家臣たちの最期をじっと観察していて、忠義心の篤さに感心していました。
そのため、武田信吉には甲斐武田氏の家来の内およそ170人も家臣として採用しています。その中には、芦澤、市川、朝比奈、望月など水戸藩譜代の重臣となる面々が揃っています。

 

2 徳川家康の深謀遠慮
徳川家康に仕えた旧来の家臣として、「四天王」を挙げておきます。
・井伊直政(彦根;京都の抑えと琵琶湖水運の支配)

・榊原康政(関東入部後の安定化;館林を重視して水戸を断る)
・酒井忠勝(信州松代 ⇒ 鶴岡:庄内に入る)
・本多忠勝(桑名) 「家康に過ぎたるものがふたつあり、唐の頭に本多平八」

江戸城の「溜間詰」大名>
家康以来の家臣、幕政を担う責任感と自負心。江戸を中心とした大名の配置に留意してみましょう

・彦根藩(井伊家   35万石)・桑名藩(松平家 11万石)・会津藩(松平家 23万石)・姫路藩(酒井家 15万石)・高松藩(松平家 12万石)・松山藩(松平家 15万石)・小浜藩(酒井家 10万石)・ 岡崎藩(本多家 5万石)・ 忍藩(松平家 10万石)・庄内藩(酒井家 14万石)     

<岡崎三奉行といわれる三人>
本多作左衛門重次、高力与左衛門清長、天野三郎兵衛康景
「仏の高力、鬼作左、彼此偏なしの天野三郎兵衛」と称されます。家康は、人を良く選び、適材適所で各自の力を発揮させました。 

3 家康の子どもたち
以下に、参考までに示しておきます。         

① 信康(自害)
② 秀康(秀吉の養子 ⇒ 下総結城氏 ⇒ 越前福井)
③ 秀忠(二代将軍:戦下手、関ヶ原合戦に遅れ。福島正則・黒田長政らの功績認めざるを得ず。人柄よく和の政治)― 家光(三代将軍)
④ 忠吉(武蔵忍 ⇒ 尾張清洲)
⑤ 信吉(小金 ⇒ 佐倉 ⇒ 水戸)
⑥ 忠輝(武蔵深谷・佐倉・川中島・越後高田・改易)
(⑦男・⑧男早世)
⑨ 義直(尾張)(素直ながら気弱な決断力不足)
⑩ 頼宣(下妻・水戸、紀州)(乱暴者、旺盛な戦闘能力、新規刀の試し切り止まず。剛の者)
頼房(下妻・水戸)(直情径行、気丈剛の者。家康が秀忠に忠告「頼房を離さず懐刀に仕え、外に出しては危ない。警戒せよ」と厳命

4 武田信吉
武田信吉は、天正11年(1583)に徳川家康の五男として遠州浜松に生まれました。幼名は萬千代、母は家康の側室「下山殿」通称「於都摩の方」です。武田信吉は、天正18年、家康の関東移封に伴い8歳で下総小金城主、3年後の11歳で下総佐倉城主、9年後の慶長7年(1602)に20歳で水戸城主(15万石)に封ぜられました。信吉は、水戸へ赴任しますが、初めは城下北の菅谷村の御殿へ入ったようです。その理由は定かではありませんが、高倉胤明はその著『田制考証』の中で、当時水戸城の二の丸造作がまだできていなかったのではないかと推測しています。
なぜ菅谷村かは、記録がありません。ただ、信吉入部以前に、関東郡代であった伊奈備前守忠次が菅谷村新田開発に当たっていたことと関係があるのではないかと推測する説もあります。この御殿は、信吉歿後は伊奈備前の陣屋となり、さらにその後に義公光圀が「御稗蔵」を建てたとされています。また、伊奈忠治の墓は菅谷村に隣接する後台村源長寺(今は廃寺)にありました。              

 

5 武田信吉の葬儀
武田信吉は、慶長9年9月11日に21歳で亡くなります。水戸での実績はほとんどありません。葬儀は、城下藤沢小路「善徳寺」で行われ、法名「浄鑑院殿栄誉善香崇厳大居士」からとった浄鑑院を建立しましたが、そこを徳川頼房が心光寺と改名して寛永19年(1642)に備前町へ移しました。その後延宝6年(1678)に徳川光圀が太田の瑞龍山へ改葬しましたが、よりよく供養をと貞享4年(1687)に額田村向山へ新寺地を決定し、元禄2年(1689)に伽藍が完成しました。そこで心光寺を移し、常照山浄鑑院心光寺と号しました。 その後の宝永6年(1709)に、瓜連常福寺の寺籍(水戸徳川家の位牌所)を3代藩主の徳川綱條が向山へ移し浄鑑院と合併しさせて「常照山浄鑑院常福寺」と号しました。瓜連の常福寺は、草地山蓮華院常福寺と称し、向山の隠居寺となりました。

 

6 浄鑑院常福寺と徳川光圀
徳川光圀は、浄鑑院の建立を祝って水戸家伝来の極小阿弥陀三尊像を寄進しています。この尊像、材質は榧、豪華な技巧を凝らした宮殿と蒔絵厨子、葵の紋が施された外厨子が附属しています。阿弥陀三尊の本体と足下の台座及び光背が鎌倉時代に製作され、その他の部分は江戸時代ですが、なぜ水戸家が所蔵していたかは不明です。
蒔絵厨子底には「此の弥陀・観音・勢至の三像は、我が家に伝来したもので、今浄鑑院に寄付する。以て、よく四衆を供養すべし。貞享四年十一月、水戸侯源光圀識す」との銘文が刻されています。

 

この浄鑑院について記しておきます。

  • 水戸徳川家の位牌所。歴代藩主が水戸へ帰国し、瑞龍山の墓所参拝の折には必ず立ち寄り参拝する。
  • 歴代藩主の年忌供養などが行われている。
  • 京都知恩院の直末寺であり、伽藍も知恩院に類似している。
  • 学問僧が置かれ修行寺でもあった。
  • 高山彦九郎や吉田松陰など、水戸訪問の他藩士たちも立ちより礼拝している。
  • 9代藩主烈公斉昭の社寺改革、梵鐘供出を拒み廃寺となるが、烈公処分後に復活した。しかし、天狗・諸生の騒乱により焼失した。その後、水戸城下郊外の緑岡に再建計画進行中に廃藩となり建設途中で頓挫した。

6 武田信吉の生母「於都摩」の墓

於都摩の方は武田信玄の家臣秋山越前守虎康の娘で家康に仕えました。 生母「於都摩」は天正19年10月6日に下総小金で病死し、下総平賀(松戸市)の本土寺に埋葬されました。しかし、墓は後に荒れて古松のみとなってしましますが、水戸藩2代藩主となった徳川光圀が、伯父武田信吉の母親のために夫人歿後93年目の貞享元年(1684)に改修し、新石碑(碑陰)を建立しています。

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南朝方の三城址を訪ねて

2023-07-02 09:09:42 | 日記

水戸・歴史に学ぶ会では、6月22日(木)に移動教室「南朝方の三城址を訪ねて」をテーマに小田城址、大宝城址(大宝八幡宮)、関城址、千妙寺(東睿山;天台宗)など北畠親房の足跡をめぐってきました。
この日はあいにくの雨天、しかも時に激しい降りとなりましたが、参加者43名とも少しもひるまず、三城攻めを敢行、目的を達成した後に、古刹千妙寺を参拝して心の安らぎを取り戻しました。
それにしても、参加者の皆さま方の歴史への熱い思いに接し、敬服の至りでした。さぞ、北畠親房、小田治久、下妻政泰、関宗祐たち南朝方の忠臣もその意を受納されたことと思います。

 

 

 

 

 

小田城址 雨雲たなびく紫峰筑波山を遠望し、背後に宝篋山を控えた平城。城跡は、7年間に亘った発掘調査や整備を終えて本郭(本丸)や堀、土塁などが見事に復元されていた。東条の浦に漂着し神宮寺城、阿波崎城を経て小田城に迎えられた北畠親房一行の喜びはいかなるものであったろうか。滞在はわずかに3年、その間後醍醐天皇の崩御の報を受けて、若き後村上天皇のために治国の要諦を示し、国民にはあるべき心構えを説いた『神皇正統記』を執筆。戦乱のさなかに筆を振い、また遠く陸奥との連携を図るためにもと、白河の結城親朝に援軍を促す書状を必死に送り続ける親房に思いを馳せた。

     

   大宝城址 この城よりは先に、宇佐八幡宮から勧請した大宝八幡宮が建てられていたようである。関城よりは堅固であったらしく、親房は興良親王を先にここへ送り、自分は関城に移った。長い参道の鳥居の両側や拝殿・本殿の裏手に深い堀と高い土塁の一部が残っていた。急に激しくなった降雨の中、下妻政泰の忠義を称えた平泉澄博士撰文の顕彰碑を、齋藤郁子代表が拝読した。まるで政泰の霊魂が乗り移ったような姿である。周りを囲んだ参加者が熱心に耳を傾ける。緊迫感が漂っていたシーンであった。ここでの、おいしいお団子の味も忘れられない。

       

関城址 北朝方に着いた結城氏が中心となって関宗祐を攻める。坑道を掘って本丸へ迫ろうとした跡が保存されていた。大宝城から続く広大な大宝沼に囲まれた平城である。土塁も堀も一部ではあるがよく残っている。舌状の先端部に本丸があり、そこに関宗祐父子とその敵方となって戦死した19歳の若き武将結城直朝が一緒に祀られていた。北畠親房は、ここで『神皇正統記』を修訂している。交戦の合間に、兵士たちが回し読みをしていた姿に驚き、確かなものにしなければとの思いからであった。水戸市郊外の六地蔵寺に残る写本の冒頭を読んで「神国」の誇りを訴えた親房の心境に迫った。

     

   

   

千妙寺 中世の領主多賀谷氏の庇護を受けた天台宗の古刹。徳川家康も100石の寺領を寄進して保護を加えた。周囲に塔頭を残していて、その雄大な規模を窺うことができた。寺宝も数多く、補修されたそれらは、新築なった宝物館に展示されている。見事な十六善神や如意輪観音、再建関連の書状、勅額「東睿山千妙寺」の扁額などを拝観でき、戦乱の雰囲気から一転して心の安らぎを覚えることができた。本堂の裏手には、地元の庄屋であり郷士でもあった飯田軍蔵の顕彰碑がある。水戸の成沢日新塾に学び、藤田小四郎とも入魂となって、やがて攘夷運動に挺身したが、鎮圧隊幕府軍に捕縛されて処刑された。

    

       

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