朝の寒気はこの冬一番の寒さとなりましたが、日中は雲一つない晴天に未だ散り残る紅葉を愛でながら、中山家はじめ長久保赤水、老舗たつご味噌、五浦の六角堂・天心邸など先人の息吹を体感した一日でした。
夏季の中山家の出身地である飯能市を訪ねた続きとして、地元の中山家関係を訪ねる旅でもありました。
松岡城下
この城は大塚氏によって築かれた城で、当初は龍子山城と呼ばれていました。
常陸松岡藩の藩庁であり、戸沢政盛の居城として知られています。
当初は山麓の居館と詰城という中世山城の構成でした。
慶長7年(1602)、小河城主となった戸沢正盛は松岡藩を立藩し、慶長11年(1606)に、多賀郡下手綱の竜子山城を改修し常陸・松岡城と改め本拠にします。
戸沢氏が新庄藩に転封されると水戸藩の所領となり、附家老の中山信吉の子信正が松岡城主となりました。
中山氏はその後、常陸太田に移りますが、中山信敬の代に再び松岡に戻っています。
現在城跡には土塁や水堀などの遺構が確認でき、役所の置かれていた三の丸跡には高萩市立松岡小学校があります。
また城下町も整備されており、江戸時代の武家屋敷門が数基残っています。
小学校内の郷土資料館では、佐川春久館長から中山家の歴史や長久保赤水の業績についての講話をいただきました。
歴史を大切にし、その保存活用にかける佐川館長の情熱に感動し、一行全員が「我がふるさと」は如何かとの思いを新たにしました。

中山家・家臣団の赤塚墓所
中山家の初代は飯能市智観寺に眠り、2代目信正は中山家の水戸下屋敷のあった谷中の保和園墓地に、三代目以降がこの赤塚墓地に眠っています。
墓地は山道の参道を進み、やや奥まった深山幽谷の数段上った高い位置にありました。
周辺には、家老松村家と植物学者松村仁三、酒出家・高橋家など家臣団が見守っています。
附家老の存在を再認識しました。

たつご味噌
幕末安政期の創業の老舗。工場見学の後、思いがけなく温かい「味噌汁」のサービス。これにも感激でした。

五浦六角堂・天心邸、「亜細亜は一なり」の碑
天心は、明治維新直前に開港地となっていた横浜の本町で生まれました。
福井藩士だった父は才能をかわれ、江戸藩邸詰めを命ぜられます。
その後、横浜で貿易商「石川屋」の支配人となります。
店には西洋人も出入りしていたことから、天心は幼少期より英語に親しんで育ちました。
天心が9歳の時に母が急逝すると、長延寺に預けられ漢学の知識を深めます。
また、英学校にも通い基礎英語を習得した時期でもありました。この事は後の活躍の基盤となりました。
12歳の時、父が東京で旅館を営むこととなったため、家族と上京し、14歳で東京開成学校(後の東京大学)へ入学します。
成績優秀なため給費生待遇でした。
大学を卒業し、文部省に入ります。
命をうけて、米国人フェノロサ(哲学者、東洋美術研究家)の通訳や翻訳など日本美術研究を手伝うようになります。
この経験から、天心は日本の古美術に魅かれ、保存の大切さを実感するようになります。
殊に法隆寺夢殿の秘仏、救世観音像の御開帳の感激は大きく、天心は「実に人生の最大事なり」と記しています。
👇天心が古美術を保存するための施設の必要性を訴えた「国立美術博物館に関する建議書」(下書き断片)を読んだもの

また、文部省の美術取調委員としてフェノロサとアメリカ経由でヨーロッパを巡り、翌年帰国します。
その後、東京美術学校(現東京藝術大学)幹事を命じられ、創設に努め、開校後の明治23年(1890)、校長に就任しました。天心が29歳の時でした。
年長の筆頭教授の橋本雅邦(がほう)は才気溢れた天心に従い終生支えました。
また、古美術調査が縁で帝国博物館の美術部長も兼任します。
やがて東京美術学校・日本美術院を創設し、横山大観や下村観山、菱田春草らを育てます。
師天心の「空気は描けないのか」の一言から、明瞭な輪郭をもたないなど理解の無い評論家からは悪意をもって呼ばれた「朦朧体」が生まれます。
大観と春草は、欧米外遊の際、発色の良い西洋絵具を持ち帰り、没線彩画描法を考案し弱点を克服しました。
ここに、日本画に近代化と革新をもたらしたのです。
その後、天心はインドを旅し、日本の伝統的な文化と生活を再認識します。
『東洋の理想』『茶の本』を著し、これらは英訳されて広く世界に紹介されました。
六角堂に示された仏教・儒教・日本融合の世界は、「亜細亜は一なり」のことばで代表されています。

この精神は今日でも新鮮に感じます。各民族の特色・宗教・歴史を認め合い、共存共栄の世界を是非とも実現したいものです。