水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

岩上二郎と妙子夫人

2022-11-27 09:59:45 | 日記

令和4年11月20日(日)、ふれあいセンターごだいで「岩上二郎と妙子夫人」の講座を開催しました。
講師は、当会代表の齋藤郁子氏です。
夫妻ともにクリスチャンとして政治に向かい、常に「歴史を尊ぶこと」「弱者へのまなざしを忘れずに」の心を貫かれました。
代表的なものは、世に「岩上法」と言われる「公文書館」の成立養護支援施設「あすなろ」の創建があります。

岩上二郎  大正2(1913)年11月29日、瓜連町古徳に誕生

1「マイナスからの脱却」とは
幼児期のマイナス体験は自分を大きく飛躍させた。
幼少期にはアレルギー虚弱体質と生来の背丈の低さ、さらには左利きが積極的な意欲を欠かせていた。
右利きへの矯正に努めたが、それがかえってドモリ(ママ)となり、登校拒否へと進み、いじめられっ子となっていた。
それの転機は茨城中学校の剣道部に入部したことであった。
部活動に励んでいたある日「左利きを利用して右利きにすれば上達も早い」と剣道部教師から助言を受けた。発想の転換である。
これにより、だんだんと上達しそれが喜びとなり、自信となっていった。それに伴って成績も向上したのである。
自分の政治家としての諸政策は、このような幼児体験に基づく「マイナスからの脱却」が根底にあった。
主な政策とした「農地解放」「無電燈部落解消運動」「鹿島開発」「筑波研究学園都市建設」「米軍水戸射爆撃場返還運動」「田園都市構想」「霞ヶ浦用水事業計画」「重度心身障害者施設コロニーの建設」などはすべて〈「貧困からの解放」― つまり「マイナスからの脱却」〉を目指したものである。

2 ビックスラー
米国の宣教師。大正9年(1920)ころから塩田村長沢に伝道基地としての住居建設
大正11年(1922)年アンナ夫人共々移転居住、山方・塩田・小瀬方面への伝道開始。
伝道、社会事業、教育、衛生、婦人の啓蒙等に尽力。
米国を数回往復し、衣料品、粉末大豆を調達供与した。
母体の困窮、乳幼児の死亡の多さからヤギ・乳牛を日本へ。

岩上二郎はビックスラーについての思い出を以下のように語っている。
昭和24(1949)年、当時37歳であった私は、町長としての悩みをお話しし、信仰の世界に入ることによって、新しい道を求める決意をいたしました。
ようやく薄氷のはりつめはじめた11月29日の朝、先生にともなわれて、妻とともに久慈川のせせらぎの音を聞きながら洗礼を受け、それからすでに19年の歳月が流れ去りました。
(中略)私が瓜連町長時代、養老施設ナザレ園建設に際し議員の一部には、今どき珍しい構想、時期尚早と一蹴され、ついに菊池氏と相計り、精神的に貧困なその当時の日本人には一切御世話にならず、ビックスラー氏によく頼んでみようということになり、種々御指導をいただき、ついにゼロから、今では200名を超える茨城県下一の施設が誕生されたのも先生のご理解とご協力の賜と今もって感謝しております。『オー・デー・ビックスラー先生をしのぶ』「O・D・ビックスラー先生の思い出」より

3 茨城県史編纂(へんさん)事業と歴史館の創設 昭和38(1963)年から始まった県史編さん事業は徳川光圀の「大日本史編纂事業」にあった。
さまざまな史・資料を発掘・収集・整理・保存することがなくて真の歴史の評価はできないというのが基本的な考え方である。 

その事業で発掘・収集された史料を永遠に保存する作業からも、私たちは逃れることができない。
いや、むしろ保存に重大な責任があるというべきである。⇒「公文書館法」の制定に全力投入

発掘・収集・整理・保存に加え調査研究をし、その成果を展示・刊行して県民の共有財産とするためにこの歴史館が建設された。
この文書館的機能と博物館的機能をあわせもった施設を全国に先駆けて「歴史館」と命名したことも岩上二郎の新鮮な発想であったといえる。 

4 鹿島開発 主眼は、都市の過大化を防ぎ、地域格差を是正すること。
「大規模な臨海工業地帯を造成し、地域開発の一大拠点として、国民経済の発展に寄与するとともに、後進県茨城の飛躍を図ろうとする」茨城県の鹿島開発構想は、 全国総合開発計画の目的に合致していた。

<鹿島港にある記念碑文の一節>
この港づくりは、だれからの要請でもない。
この一帯の貧困からの解放をめざし、1400年前の鹿島文化の遺跡と、徳川幕政から明治初年にわたる掘割川の歴史との対話の中から、つかみとった自然への挑戦史であり、また、血の出るような農民の土地を生かそうとする「農工両全」の思想展開の動機付けでもある。 

5“水と緑のまごころ国体”
昭和49(1974)年10月20日に開幕された第29回国民体育大会、岩上二郎は何としても茨城県知事として主催し成功させたいとの強い希望を持っていました。
知事引退の花道としたいとの考えもあったといわれています。

この日は夜来の雨も上がり、さわやかな秋晴となりました。
岩上二郎は、笠松運動公園陸上競技場のスタンドを埋めた3万5千人の大観衆を前に詩吟で鍛えた鋭く通る声で宣言しました。

「歴史と伝統にはぐくまれたまごころの精神をこめて、230万県民の限りなき喜びと感激のうちに秋季大会の開会を宣言します!」

岩上妙子 大正7年(1918)1月24日茨城県平潟神官の家に生まれる(5人兄弟の末っ子)
昭和14年(1939)3月 帝国女子医専を卒業し 東京警察病院耳鼻科へ入局する
昭和15年(1940) 岩上二郎と結婚 東京目黒で新婚生活をスタートする
昭和16年(1941)3月末東京を引き上げ二郎の実家瓜連へ戻る 7月29日長男一宇(かずいえ)を出産する
昭和20年(1945)8月15日 終戦  9月戦争未亡人を覚悟して 医院の開業届を出す
諸和21年(1946)6月17日 夫二郎が復員する
昭和22年(1947)6月 二男 哲郎を出産する 11月 夫ともに受洗する
昭和23年(1948)12月長女素子を出産する
昭和27年(1952)瓜連町の教育委員や婦人会長となり地域に貢献する(2月二郎 米国へ留学する)
昭和28年(1953)二郎帰国する 土産は14金に小さな 小さなダイヤ入りの婚約と結婚を兼ねた指輪でした
昭和34年(1959)夫の知事選挙戦のため診療所を臨時休診する 9月末 診療所を後任医師に引き継ぐ
昭和35年(1960)2月9日初めて講演をする(谷田部町の婦人会)これをきっかけに方々から依頼が来るようになる
昭和38年(1963)家庭裁判所調停委員を歴任する
        お茶の水女子大学児童精神衛生研究生となる テーマは茨城県の懸案でもあった、乳児死亡率の高いこと、小中学校の長期欠席児童の多いこと、非行少年の増加だった。
昭和49年(1974)参議院議員となる 自民党から再三の要請に応じて決意‼
昭和52年(1977)  4月胃と胆のうを手術する 11月難病に罹る(順天堂大学病院に入院) 12月参議院議員を辞任する
昭和56年(1981)6月20日 『半ぱ人生』を著作する
昭和58年(1983)4月10日 俳句同人誌『かびれ』 第31回新人賞を受賞 9月6日 『続・半ぱ人生』を著作する
平成12年(2000)7月15日 歿 83歳


6 岩上夫妻の墓所
岩上二郎が歿した平成4(1992)年8月、岩上知事時代に副知事を務めた山本満男撰文の慰霊碑が那珂市古徳の岩上家墓所に建てられました。

  茨城県知事四期十六年、参議院議員三期十一年、高潔な政治家として活躍した。
  敬愛の哲学を説き農工両全の理念を掲げ知事として、鹿島開発、筑波研究学園都市建設、米軍水戸射爆場返還に心血を注ぎ、本県飛躍の礎を確立。
  また学校法人清真学園の創設等人材育成に努めた。
  歴史と文化を大切にし、参議院議員として、宿願の公文書館法の制定を実現。
  歴史家これを岩上法と称え、名誉な国際的表彰を受けた。
  また、暇あれば芸に游(あそ)び、特に剣道は七段範士に進んだが、平成元年八月十六日病没。享年七十六歳。

また、二郎墓碑には墓碑には座右の銘 「一粒の麦」が刻まれています。

一粒の麦:《新約聖書「ヨハネ伝」第12章、一粒の麦は地に落ちることによって無数の実を結ぶと説いたキリストの言葉から》
人を幸福にするためにみずからを犠牲にする人。

 

 

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文明開化のあけぼのを見た男たち

2022-11-08 23:17:44 | 日記

「博愛の政治家」を大テーマとした秋季講演会の第2回目を、11月6日(日)午前、那珂市ふれあいセンターごだいにて開催しました。

講師は谷口邦彦氏、演題は「文明開化のあけぼのを見た男たち」です。

今回の講演内容は、さまざまな福祉政策が求められる今日、日本における「福祉」や「博愛」の出発点はどこにあったのだろうかを尋ねることでした。谷口氏は、スイスのアンリー・ジュナンを原点として日本人では高松凌雲・佐野常民・渋沢栄一の3人を取り上げて福祉の精神と政策の発展を説きましたが、その中の三人の日本人が、なんとパリ万博に同行していたのです。「徳川昭武とパリ万博」がさらに広がりを見せた内容でした。

はじめに、「博愛」とは「与える側」と「与えられる側」との間に道徳的優劣はなく、個人の道徳的良心が及ぼすサービスであることを認識しておきたいと思います。

 国際赤十字社生みの父「アンリ―・デュナン」
ジュナン(31歳)は、1859年から始まったイタリア統一戦争に出会って、敵味方の区別なく傷病者を救護する団体を作ろうと決意しました。それが国際赤十字団体となり、1867年のパリ万博に国際赤十字パヴィリオンが設けられ、啓蒙活動が始まったのです。 

反骨の医師「高松凌雲」
筑後国(福岡県)の庄屋の三男で緒方洪庵の適塾に入門、洪庵が江戸東下するや後を追い、横浜で医師ヘボン塾に入門しました。やがて一橋家軍制所付き医師となり、慶喜が将軍になるや奥詰医師となりました。パリ万博には昭武付医師として随行しますが、パリで一留学生として残留し勉学に励みます。そういった中、鳥羽伏見の戦いでの幕府方の敗戦を知り憤然として帰国の途に就きます。
凌雲はパリ万博で得た赤十字社の精神を実践すべく、旧幕府軍艦開陽丸で北上し、函館で病院を開設して敵味方の別なく治療にあたりました。これが、日本赤十字社の原点となりました。
その後、野に在って一町医者に徹し、貧民救済を目的とした同愛社を結成します。渋沢栄一はそれを支援しています。
徳川慶喜と昭武への恩義を終生忘れることなく、水戸家の家庭医師として昭武の家族の脈を取り続けました。 

日本赤十字社創立者「佐野常民」
佐賀藩の藩校弘道館に学び、大坂や江戸では緒方洪庵や伊東玄朴らに就いて蘭学を学びました。帰郷後は佐賀藩の海軍創設に尽力し、国産初の蒸気船「凌風丸」を完成させることになります。 緒方洪庵から、「医は仁なり」(身分の別なく平等に診る)との精神を学びます。
佐賀藩の命を受けてパリ万博に参加したことにより赤十字精神にふれて感動、人道主義の世界平等を実感しました。
西南戦争での悲惨な状況から、同じ元老院議官大給恒(おぎゅうゆずる)とともに国際赤十字社と同様の救護団体の創設に奔走します。根底には、「賊とされた西郷軍の兵士も亦天皇陛下の赤子である」との考えがありました。
熊本司令部の有栖川宮熾仁親王の裁可により、日本赤十字社の前身「博愛社」を創立します。明治20年(1887)に「日本赤十字社」と改称されました。

博愛社を支えた大実業家「渋沢栄一」
博愛社の創設者佐野常民から直接協力を依頼された渋沢は、その社員となりやがて常議員となり支援を強めます。
二人の出会いはパリ万博で、明治41年(1908)発行の日赤の機関誌には、渋沢が「パリに行った時、パリ市民に声を掛けられてチャリティバザーを初めて知った・・・・帰国後しばらくしてから慈善事業をするきっかけとなった」「人助けをするにも金が必要。金持ちは、その金で何をするかが大切だ」と説いています。
渋沢栄一は、「近代日本資本主義の父」と称されたように、莫大な資産を得たがそれらをみな公共事業や福祉政策に貢献していることは、今日の企業人も心してほしいところですね。

「水戸・歴史に学ぶ会」は訴えたい!
戦争はなぜ起こるのであろうか? ともに悲惨な結果は承知するところであるのに。
佐野常民が邦訳した「自由」は競争を生みます。「自由」は貧富の差を生み出します。その行き過ぎから「平等」が唱えられたのです。しかし、両者は相矛盾したものであり両者の対立が際立っていきます。
フランス革命では王政を倒し「自由」が叫ばれ、競争が激しくなりました。その行き過ぎから「平等」が唱えられたのです。その後、その対立を昇華する精神として「博愛」が求められました。フランス革命の「自由」「平等」「博愛」は同時に叫ばれたわけではありません。時勢の推移を冷静に見つめた結果の昇華なのです。
世界中に国家・民族・宗教の対立抗争が巻き上がり、混迷が生じています。皆がみな、今まで以上に、お互いの心の中に「博愛」を養うことが求められている時代ではないでしょうか。

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