水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

鎌倉御家人八田知家と宍戸藩主松平頼徳を偲ぶ

2024-03-30 20:31:55 | 日記

3月27日(水)、前日の暴風雨は去って一面青空の快晴。好天に恵まれての移動教室は「鎌倉御家人八田知家と宍戸藩主松平頼徳を偲ぶ」。参加者は42名。八田氏から出た宍戸氏を含む宍戸家の墓所、天狗・諸生の争乱の悲劇の藩主頼徳公の供養碑を参拝する旅、歴史の継承の偉大さと歴史の非情さを認識し、今後の生き方、理不尽さへの対応などを考えた一日でした。

養福寺(天台宗)の宍戸藩主松平頼徳公の供養塔「精忠大節」を参拝
水戸藩内の天狗派、諸正派の抗争を調停するために、藩主慶篤の命を受けて水戸へ下向した頼徳公は、家老市川三左衛門らの入城拒否にあい、やむなく那珂湊に避難、やがて戦闘を展開するに至り、幕府追討軍とも抗戦となってしまいます。頼徳は、その責任を負って切腹させられました。市川らの難癖をつけた入城拒否は、藩主の命令に背いた謀反行為のなにものでもなく、水戸藩の主従関係は崩壊していたといえます。頼徳公の辞世「思ひきや 野田の案山子の竹の弓 引きも果たさで朽ち果てんとは」は、無念さを訴えています。

供養碑は廃藩後の明治5年、有志によって建立されました。
ただ、養福寺と宍戸松平家との関係は明らかでなく、なぜ養福寺に建立されたかも定かではないとされていますが、営々と供養を勤められていることに感謝しました。

 

唯心寺(浄土真宗)の開基は八田知家の3男唯心坊、宍戸氏の後裔に当たる宍戸御住職のご案内を受けました。
さらに総代であり郷土史家の南秀利様による宍戸氏および宍戸松平氏に関する明解なる歴史講話を拝聴しました。ご準備いただいた豊富な史料には感謝この上ないことでした。
親鸞の関係から北陸からの真宗門徒を受け入れて新田開発に努めた入百姓政策も進められました。
唯心寺も戦災に遭っていますが、東京から受け入れた学童疎開児童は難を逃れたそうです。
この寺からも深い歴史を実感させられました。

八田知家および宍戸家の墓
中世の時代を象徴する重量感のある大きな五輪塔に、鎌倉御家人の威風を感じました。
周辺に整理された累代宍戸家の五輪塔も、連綿と続いてきた武家の世界の気風が漂っていました。
宍戸家は、藤原氏の流れを受けた八田氏から分かれた家で、同流の小田氏と共に中世関東の雄者でした。
一派は、安芸広島の宍戸氏や関東の茂木氏などに広がり、今日でも健在を誇っています。

 

宍戸松平氏は、宍戸氏が支配した中世の宍戸城域に陣屋を置き、定府制で江戸に在住する藩主に代わって家老を中心とする家臣団に政治を担わせました。
この域内は周辺からすると微高地であり、周辺を囲った土塁はまちづくりのための都市計画により棄損されたが、その一部分の土塁と堀跡が残っていました。
北部の水戸線宍戸駅から城郭の中央を貫通する道路は、明治33年(1900)の明治天皇の軍事演習統監の際に新設されたものです。
本来の街道は城の西部を通っていて、表門は西域にありました。現在は、笠間市土師に移築されて茨城県指定文化財として保存されています
笠間市の文化財保護審議員を務める幾浦忠男様の案内説明を受けたことに感謝します。

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戊辰戦争 ― 秋田藩横手城代と庄内藩 ―

2024-03-25 13:52:55 | 日記

令和6年3月24日(日)、「幕末シリーズ」の最後として、当会事務局長仲田昭一が「戊辰戦争 ― 秋田藩横手城代と庄内藩 ―」と題して講演しました。

幕末戊辰戦争に際して、新政府軍に就くか、旧幕府軍に就くかで各藩とも混迷しました。中でも水戸藩は、天狗・諸生両派の対立が加わって異常な状況を呈していました。そのような中で、結城藩の光岡多治見敬齋は、用人の立場で恭順派として動き、大きな混乱もなく藩存続を果たしています。幕府の大老、老中を務めた土井利勝が藩主となった古河藩は、幕末には当然佐幕派でした。しかし、家老小杉監物の判断進言により藩論を勤王に導きました。奥羽越列藩同盟側にあった佐竹氏の秋田藩も、藩校明道館教授根本通明の指導によって勤王派・新政府軍側ヘ就き、庄内藩の降伏に当たっては、菅重秀が働いて平穏に済ませることが出来ました。

いずれも、混迷していた藩論を統一するために尽力した人物がいたのです。それに比して、水戸藩は家臣団が天狗派、門閥派と分裂して混迷殺戮を繰り返し、新時代を迎えることに貢献することはできませんでした。藩論の統一どころではなく、対立のまま藩は終焉を迎えました。時代を担う人材の育成を目的とした藩校弘道館の教育は生かさませんでした。

秋田藩の根本通明博士
根本通明は、安政5年3月(37歳)に藩校明徳館の教授となります。やがて「易義」を研究し、物事の流行・変化転変の中で、不易の存在を確認し、「革命」はあってはならないものと確信しました。これを日本に置き換えると、日本の天子は一系で皇統は永遠に変えるべきでないとの信念を懐くに至り、自身の「尊王」を表明しました。その結果は、一藩として尊王・勤王へ導くことになりました。

戊辰戦争と秋田藩
慶応4年4月29日には、新政府の鎮撫軍副総督沢為量が秋田へ入りました。
根本通明は、「われらがこの総督(官軍)に対抗することは不義ではないか」と疑問を呈します。
藩の重臣たちは、「君(藩)命は佐幕である、鎮撫軍に徹底抗戦すべし」と主張し、藩内は厳しく対立しました。

秋田藩では、新政府側に就くか、旧幕府方に就くかで大揺れの状況下で、新政府方派であった評定奉行鈴木吉左衛門が自刃します。このような混迷の中、新政府方勤王派が奮起し、藩内の対立は一層深まってしまいます。
根本通明は、藩主義堯に対して次のように教授しました。
「源平の時代から勤王の名家と称えられた佐竹歴代祖宗の遺志を継ぎ、例え家を失ない、子孫を絶つことになろうとも、皇室に対して弓を引き、賊名を被(こうむ)るような不名誉は断じてすべきではない。」
これを受けた藩主義堯は厳命します。「余、自ら命ずる。用人達が云っていることは、余の本心と全く関係ない。余は既に勤王と決めている。」と。

佐竹氏の支城である横手城主義效は、秋田藩主義堯とともにあった。横手城を死守することは、既に庄内藩や仙台藩など列藩同盟側討伐に決している主家・藩主に対し、謀叛を起こしたとの疑念を避けるためでした。
代わって子息戸村大学義得(よしあり)らは、「我々は先祖代々、先手として数百年来横手に居を構えてきた。それなのに、戦いもせず城を棄てるのは、先祖に対して申し訳がない」と、横手城死守の覚悟を決めます。父子分裂という戸村氏の非情を超えた苦渋の決断でした。
列藩同盟側の庄内藩・仙台藩らは横手城総攻撃に決しました。

庄内藩の横手城攻撃
激戦の末、戸村大学義得は猛然突進を試みようとしましたが、近侍の者たちが駆け付けて押し止め、無理に裏門より脱出せしめ、菩提所龍昌院の間道より落ち延びることとなりました。
同日深更、庄内藩一番隊長松平甚三郎が城内に入り、翌日城内を検視するに、死屍11体、何れも裸体にして首はありませんでした。
松平甚三郎曰く、「是れ忠義の士なり」と。これらを城北の龍昌院に葬り、僧徒10余人をして読経供養せしめ、墓標を建てて次のように記しました。

  表 佐竹家名臣戸村氏忠士之墓
  側 慶応四年八月十一日忠義戦死
  裏 奥羽の義軍埋葬礼拝して退く
    惜い哉、此の人々の姓名を弁ぜず
    若し之を知るものあらば 追記せんことを希う

庄内藩の降伏
庄内藩兵の秋田進撃は、角館攻撃以外失敗するところなく、連戦連勝に近いもので、機動力を生かし、新政府軍を翻弄し続け、最新式の武器を装備した西南諸藩の軍をも圧倒しました。
庄内藩の強さは、軍将松平甚三郎と酒井吉之亟の巧みな用兵にあったといえます。
さらに、庄内藩には側用人兼江戸留守居役にあった菅実秀(すげさねひで)がいたことです。実秀が最も恐れていたことは、藩論の不一致から起こる内部の分裂と抗争でした。

横手城を落とした庄内藩の最後の様子として、慶応4年(明治元年)9月16日における庄内藩庁での重臣・軍事掛の二派の論を挙げておきます。
<抗戦派>
「朝廷に対し奉り、聊か犯せる罪無きに、江戸御守衛以来、薩・長の為に諱悪せられ、今又戦争連月、官軍に抵抗す。事、爰に至り、謝罪降伏するは、武門の深く恥じる所也。此上は庄内一円焦土となし、城を枕にして討ち死にせん。」
<恭順派>
「奥羽同盟して、事今日に至る。潔く討ち死にする、元より武夫の常なれども、如何せん君子御幼少の折柄、補導の任を尽さず、事の齟齬せしより此の場合に至る。一己の身を潔くせんと欲して、数代の君家を断滅するは、臣子の実に不忍所に有之、各一身を擲ち、社稷の血食を料らば、朝廷御宥免の恩命なしとせず。」

議論両端に分かれ紛々決せず。
この時、前藩主大殿酒井忠発の「今に至りて全く朝廷の綸旨に出でたることの分明せる上は、王師に抵抗するの道理なし」との言により降伏を決定しました。

庄内藩降伏に際し、西郷隆盛の寛大な姿勢に感銘して、後に『南洲翁遺訓』を刊行するのが菅重秀です。

水戸藩の混迷
慶応4年(1868)〈9,8「明治」改元〉、1月1日「鳥羽伏見の戦い」旧幕府は薩摩討伐を宣言しました。
1月6日 慶喜、開陽丸にて大坂を脱出します。京都守衛の任にあった本圀寺勢は、江戸へ、また水戸へ戻ります。
これにより、江戸邸の藩主慶篤および本圀寺勢尊攘派と水戸城門閥派が対立するという構図が出来てしまいます。

3月10日、門閥派の元家老尾崎為貴ら有志数百人大挙水戸城中へ進入し、市川三左衛門、朝比奈泰雄、佐藤図書らの籠る水戸城の奪還に成功します。
市川ら500余人は水戸を脱出し会津へ向かいました。3月21日藩主 慶篤は水戸城へ到着しますが、4月5日には逝去してしまいます(37歳)。
反市川勢の門閥派、本国寺勢などが、市川らの追討軍を編成、3月20日「市川勢追討隊」(第一次追討隊)が会津へ向け出発します。
これは、藩内抗争以外の何物でもありませんでした。

まとめ
水戸藩には、秋田藩の根本通明、庄内藩の菅実秀、結城藩の光岡敬齋、古河藩の小杉監物などのように藩論を統一へ導くのに大きな働きができる人物がいませんでした。水戸藩の学問は、どこに生きていたのか。弘道館で学んび、「義公の遺訓」を受け継いだ、徳川慶喜公の英断が日本の行く末を決定づけたことは確かです。ところが、そのようなときに、水戸藩が一致しこたえる状態がなかったのは残念でなりません。
水戸藩の家臣団は、武田氏、後北条氏、伏見以来の家康付家臣をはじめ山野辺氏、宇都宮氏、そして結城氏など優秀な武将などで形成されました。さらに、中期以降には藩内の民間からの秀才たちも登用され、水戸藩発展のために尽力しました。本来、「天狗」も「諸生」もなかったのです。「恩讐」を乗り超えてお互い力をあわせて発揮し、「天下の魁」を目指したいものです。

 

写真出典:根本通明博士(平泉澄著『天兵に敵なし』)、菅重秀(加藤省一郎著『臥牛菅實秀』)

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令和6年 4~6月期 講演会のお知らせ(終了しました!)

2024-03-19 09:57:58 | 日記

すっかりと春めいてきました。
皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか?
さて、水戸歴史に学ぶ会では、4月~6月までの講演会を下記の通りに開催します。
ご参加いただけましたら幸甚に存じます。

会 場:那珂市中央公民館 (那珂市福田)
   4月21日(日) 「弘化甲辰の国難」ー 藤田東湖と結城寅寿 ー

会 場:那珂市ふれあいセンターごだい
   4月 7日(日) 「紫式部」ー 藤原摂関家と後三条天皇 ー
   5月12日(日) 「水戸と会津Ⅰ」ー 水戸光圀と保科正之 ー
   6月 9日(日) 「水戸と会津Ⅱ」ー 市川三左衛門と松平容保 ー

毎回共通
 講 師:仲田昭一氏
 時 間:10時~11時30分
 参加費:各回毎 300円(資料代等)
 定 員 :100 名(申込み不要 ; 当日先着順)

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身命を賭して国事に奔走した水戸の先人たちを偲ぶ -桜田の一挙は現代人に何を問いかけるのか-

2024-03-19 08:43:47 | 日記

3月3日は旧暦ながら桜田門外の変の当日に当たります。
この日、桜田烈士のご子孫にあたる鯉渕義文氏が、「身命を賭して国事に奔走した水戸の先人たちを偲ぶ」― 桜田の一挙は現代人に何を問いかけるのか ―と題しての講演をしました。

平成20年、水戸を元気にと青年たちがに内閣府の「地方の元気再生事業」に応募しました。応募した事務局長を務める三上靖彦さん(当時49)は、「桜田門外の変は誇りを持って語れる歴史なのに、郷土教育でも敬遠して扱わない。地元だからこそ、もっと正面から取り上げていい」(朝日新聞DIGITAL2008年8月20日より)。として、桜田門外ノ変映画化支援の会を立ち上げられました。会では歴史講演会をはじめ、地域を元気にするための様々なプログラムが実施されました。鯉渕義文氏は支援の会のプログラムに参加しながら、自らも調査・研究を重ね、これを後世に伝えようという思いから『情念の炎』上・中・下と『志士たちの挽歌』の計4冊を著しています。

では、講演の内容をごく簡単ですがお伝えしたいと思います。

烈士たちは、国事に奔走し、身命を賭して、使命感を全うしようとしました。
今日の政治家はもちろん、我々国民も、その意義を考える必要があると思います。
国のことを他人事ととしては、社会改革は成らないのではないでしょうか。

● 変の狙いは大きく2つありました。
 一つは、水戸の志士たちは横暴な井伊大老を排除することにあり、もう一つは、薩摩藩では荒れている京都の朝廷守護をどうするかにありました。
 尊王攘夷思想を抱く彼らは、井伊直弼が日米修好通商条約を無勅許で調印したことを重くとらえ、井伊直弼の横暴な君側の奸を除くことに主眼を置いたのです。
 志士たちの残した「斬奸趣意書」からは、違勅調印譴責を口実に、将軍継嗣問題決定の延期を狙っていたことが見えてきました。

● 全体の計画立案者は、水戸藩小姓頭取の高橋多一郎と郡奉行金子孫二郎でした。
 要撃実行者は水戸脱藩烈士17名と薩摩藩士1名
 ※ 薩摩藩では藩主島津久光が勅命によって行動することを求めていたため、勅命がない以上、行動は許されないとの信念がありました。
   この藩内混迷から9名の殉難者を出しています。

● 義挙なのか? 暴挙・テロなのか?
 志士たちの残したものからわかってくることとは…?
 いくつか、挙げておきます。

・烈士の行動は「身を殺して以て仁を成す」(『論語』衛霊公第15)

・鯉渕要人の遺書から見えるもの
 現代の我々は結果的に大老暗殺が成功したという前提に立っているが、烈士たちが故郷を離れる時は、死ぬ覚悟で江戸に向かって行ったことを忘れてはならない。

・黒澤忠三郎の絶命詩
 「狂と呼び賊と呼ぶも他の評に任す、幾歳の妖雲一旦晴る、正に是桜田門外血は桜の如し」

・現場指揮官 関鉄之介の叫び
 「今のままでは駄目だ、人心を、世間を変えなければ日本は滅びる。先ずは志を持った我等水戸の同志が、その意思を天下に示そうではないか」

 

 この桜田門外の変後、幕府は急速に求心力を失い滅亡に向かったことは確かである。
 桜田烈士たちの行動は、王政復古の道を開いたといえる。
 社会変革の志をもってその意思を社会に示す。この150年前の先人たちの叫びが、鮮やかに現代に蘇ってくる。

 

 

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