水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

紫式部 -藤原摂関家と後三条天皇-

2024-04-18 09:34:57 | 日記

今回は、今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」にちなんで「紫式部 -藤原摂関家と後三条天皇 -」と題して、令和6年4月7日当会事務局長仲田昭一が講演しました。

平安時代は、藤原氏を中心とする貴族社会でした。国風文化が花開いたきらびやかな世界で平和を謳歌できた良き時代であると考えられます。
しかし、実際には律令時代は崩壊し、天皇政治はその本質を失い、貴族も関心は人事や恋愛、婚姻に流れがちでした。
それだけに、活力も薄れ、物の怪、怨霊におののき、末法の世と悲観され、安倍晴明に活躍の場を与えることにもなる、精神的には衰弱の時代でした。
そのような中で、藤原氏の権力を恐れず天皇親政を中興された後三条天皇や、不意に起こった女真族(刀伊)の入寇を撃退した藤原隆家の出現などは、やはり時代に輝きを発揮したことでした。
このような貴族社会を、縦横無尽に描いた上流文学者紫式部の存在は、日本文化史の上でも世界に誇れるものです。
現代の女性たちも、大いに力を発揮して世界のあり様に挑んでいきたいものです。もちろん、男子の奮起も問われているところです。

〇 紫式部と『源氏物語』
     紫式部とは、源氏物語に登場する理想的な女性「紫の上」、父藤原為家、弟基髙も式部丞に就いていたことから、自然と称された名前のようです。
  源氏物語は、近江の石山寺でも執筆されたようですが、当時は京都の女性たちから石山寺の「如意輪観音」を信仰する石山詣が盛んに行われていたことが関係しているといわれています。
  紫式部は、数多くの才子、佳人を登場させますが、みな境遇も違えば性格も異なります。それらが織りなす活躍は、すさまじいまでに倫理観を失った乱脈の世界でもあります。
  その世界を、式部は優れた美意識を交えながら非情なまでに描いていることに驚かされます。

     描かれたのは西暦1010年前後、今から約1000年前です。
  シェイクスピアの『ハムレット』著作は1600年前後であり、源氏物語から約600年後です。
  ドイツの文豪ゲーテの『イタリア紀行』著作は1820年前後、源氏物語から約800年後です。  

  『源氏物語』は紫式部が30歳頃の著作です。内容も「巻」の名称は桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫、末摘花、紅葉賀、花宴など優雅です。

  元東京帝国大学教授平泉澄博士はその著『續父祖の足跡』の中で、
    その登場人物の風貌、香気、性格、言語などを見事に書き分けて、さながらその人を見、その言葉を聞き、その心情を察するが如き感銘をうける。
    構想の雄大にして複雑なる、情景の艶麗にして繊細なる、他に比肩するもの無し。女性の著作として古今に独歩し世界に抜群するものなり
    まさに希代の天才といわなければならぬ。
  と激賞されています。

  『古事記伝』を著した本居宣長も、源氏物語を研究し「やまともろこし いにしえ今行く先にも たぐうべきふみはあらじとぞおぼゆる」と称賛しました。

〇 藤原道長の栄華
  藤原道長は、自分の娘彰子、研子、威子を皇后に立てて「一家にして三后を立つ、未だ曽て有らず」と評されました。
  そして、自らも「此の世をば我が世とぞ思う望月の欠けたる事も無しと思えば」と権勢を誇りました。
  反面、仏教界は横暴な存在となり、左大臣の道長が比叡山延暦寺に参詣する際、山法師らが石のつぶてを投げつけ「髪をとって引き落とせ」との罵詈雑言を吐くほどで、朝廷に対して強訴することなどもありました。

〇 後三条天皇
     天皇五ヶ年の 間、初めて万機を視たまい、俗淳素にかえり、人礼儀を知る、日域塗炭に及ばざるは、民今 にその賜を受くるの故のみ、和漢の才智、まことに古今に絶し、文武共に行われ、寛 猛相済う、太平の世、近くここに見る、(中略)宇治前相国(頼通)、天皇の崩御を聞いて、歎じて曰く「これ本朝不幸の甚だしきなり」と。(『後三条天皇記』)
     天皇は、藤原氏や大規模社寺の不正な寄進地系荘園の増大について整理を断交し世の中を正したのでした。

〇 藤原隆家と刀伊の入寇
  寛仁3年(1019)3月 刀伊(北朝鮮から満洲にかけて、沿海州の女真族)は、対馬・壱岐・筑前博多に来寇するも、大宰権帥藤原隆家らが力戦して撃退する。
  対馬の被殺害者200人以上、被捕縛者300人以上。壱岐の国司藤原理忠外140人被殺害、240人被捕縛。 筑前博多の被死害者180人、火被捕縛者700人、他牛馬多数殺害されるなどの大被害であった。

  藤原隆家は道長の兄道隆の4男、17歳で中納言、18歳で出雲権守左遷、36歳で出雲権守から中納言に復帰して当時41歳、この急襲を勇戦撃退する。
  これに対し、藤原氏の高官らは朝廷の命令が出る前の戦闘であったとして恩賞は不可と主張した。
  大納言藤原実資曰く「勅符の到否を云うべからず。大宰府、兵士を発し、忽然として追い返し、ならびに刀人を射取れり、猶賞あるべし。若し賞進なくんば、向後の事、進止なかるべきか」と。(『小右記』)
  苦労人藤原隆家、まさに「勇敢なり」「偉大なり」!!

 

  なお、藤原隆家の子孫である肥後熊本の菊池武房は、蒙古軍を撃退し建武の中興に貢献した足利氏全盛の時代に苦節を守った名家。

 

 紫式部は『名画に見る國史の歩み』より、藤原道長と藤原隆家はウィキペディアより

 

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