水戸歴史に学ぶ会はgooblogからAmebablogへお引っ越しをしました。
これからの検索は以下の通りでお願いします。
アメブロ水戸歴史に学ぶ会
⇧検索すると「rekishinimanabuのブログ」が表示されるかと思います。
この引っ越しで分かったことは、同様の名称がずいぶんあるのだなぁ~ということです。
blogの背景は今までのにより近い薄いグリーンのさわやかなものを選びました。
今後とも水戸・歴史に学ぶ会をよろしくお願いいたします。
代表 齋藤郁子
水戸歴史に学ぶ会はgooblogからAmebablogへお引っ越しをしました。
これからの検索は以下の通りでお願いします。
アメブロ水戸歴史に学ぶ会
⇧検索すると「rekishinimanabuのブログ」が表示されるかと思います。
この引っ越しで分かったことは、同様の名称がずいぶんあるのだなぁ~ということです。
blogの背景は今までのにより近い薄いグリーンのさわやかなものを選びました。
今後とも水戸・歴史に学ぶ会をよろしくお願いいたします。
代表 齋藤郁子
齋藤郁子著『水戸藩を担った人々』
発行所:錦正社 四六判 204頁 定 価1,800円(税別)
水戸歴史に学ぶ会の代表であり、水戸史学研究会の理事でもある齋藤郁子氏が水戸藩にとって、貴重な本を出版しました。
水戸藩は、「尊王」を藩是として終始一貫され、明治維新の礎として、また魁として大きな役割を果たしたと称えられてきました。
しかし、幕末の水戸藩家臣団の主従関係は乱れ、領民たちも改革派か門閥派か、あるいは天狗派か諸生派かと大きく二派に分裂し、ついには幕府をも巻き込んだ壮絶な騒乱となってしまいました。その結果、有能な家臣の多くは命を落とし、果ては明治新政府において重用される人物は一人も出ることがなかったと酷評されてきました。その不名誉な評価を、挽回する機会を得ることが出来ました。
筆者は、家臣団全体を俯瞰し、家臣たちがそれぞれの立場に於いて、如何に藩政の発展に尽力してきたかに視点を置いています。
基となった「屋敷割図」は、本来横綴じの「屋敷帳」です。筆者は発想の転換をし、一枚の紙に平面化しました。
「水戸藩政を担った人々」では、この「屋敷割図」を辿りながら天狗派も諸生派もなく、ひたすら水戸藩のため、領民のためを思いながら日々藩政に尽くされた家臣たちの姿を紹介しています。今日まで続く天狗派、諸生派の感情的対立を昇華した内容であるといえます。
また、最後に附されている「日本の保母第一号」と称えられた豊田芙雄の「聞き取り書き」は、久しく私蔵されていたものを翻刻したものです。今後の芙雄女史研究者にとっては大変貴重な資料と言えます。
本書の内容は、以下のようです。
序 水戸史学会会長 宮田正彦
はじめに
第一章水戸徳川家の成り立ち
第二章藩主徳川頼・光圀父子
第三章水戸藩家臣団の構成
第四章水戸城下の構築
第五章水戸学の興り
第六章水戸城下「屋敷割圖」に藩士を追う
第七章水戸藩家臣団の抗争
おわりに
附 豊田芙雄聞き取り書き
本書が多くの方々に読まれ、水戸藩がより理解され、新たな視点から再認識されることを期待します。
令和7年4月6日(日)、当会の事務局長仲田昭一が、「満洲への憧れ ― 満洲鉄道と満洲国建国 ―」と題して講演しました。満洲はロシア南下防止の最前線であり、ここの安定化に如何に努めるかが日本の国策でした。日本、清国、ロシアの問題であったところへアメリカが食指を延ばしたことから、ますます重要な地域となった行きます。しかし、清国もアメリカも満洲地域の防衛や経営に何等の犠牲も投資もしていないことは確かです。開発に意欲的であった日本、国民も憧れを持っていたことも確かです。ただ、満洲民族、漢民族の地であった所、そこへ入る日本民族の配慮は十分であったのか、「五族協和」「王道楽土建設」実現に真摯に向き合っていたのか、等々再考しなければならないことであろうと思われます。
日本の政策を一方的に否定するだけでなく、世界的視野をも以て思考することの大切さを学びました。
〇 満洲の起こりと漢人の進出
明時代を経て清国を起こしたアイシンギョロ・ヌルハチ(愛新覚羅努爾哈赤)が自国を「滿珠(まんじゅ)」と称し、中世の金国を継承する意味から「後金」とも称し、民族名を「女真」から「滿)珠」と改めた。都は瀋陽(奉天)に置かれた。それがいつからか国名「満洲」、民族名「満洲」となったという。
古代は高句麗、渤海、中世は女真族、遼、金、元など建国。ヌルハチが建国の頃は、満洲の地は「満洲旗人の地」を保存するとして何人も入れない「封禁の地」であり、1644年、ヌルハチを継いだ復臨(順治帝)が、大陸の関内に入り北京を都として清国を設立しました。その後、漢人が移入し、 牧草地や山林を開拓 して一大耕作地へと変貌したのです。
〇 満洲の位置づけ
日本としては、ロシアの南下を防ぐことが重大な課題でした。そのために朝鮮の独立を必死に願ったのでした。日清戦争に勝利した結果、日本は清国から遼東半島を譲渡されましたが、ロシアの悪計、強要により清国へ返還しました。しかし、清国民族の拠点満州を護ることなくロシアに貸与。ロシアは遼東半島突端の旅順・大連を大商港、大軍港として開発地歩を固め、南満州鉄道を敷設して勢力を拡大しました。
これに危機感、脅威を感じたに日本は立ち上がり、日露戦争となります。この時、米国は着々と西進してアジアに迫っていました。シナ大陸、清国への利権獲得のチャンスを狙っていたのです。日露戦争には、ロシアの勢力に抗して日本への好意を示し、日本の勝利に貢献しました。満洲からロシア勢を後退させ、そこへの侵入を図っていたのです。日本は、清国から南満州鉄道の経営権を得ました。
〇 日米の満洲争奪問題
外相小村寿太郎とロシア外相ウィッテとが米国ポーツマスで交渉中の1905年8月、アメリカ鉄道王ハリマンが、令嬢を伴い日本訪問、南満州鉄道共同経営を提案します。日本単独では、到底鉄道の経営は困難であろうと。桂太郎首相は賛同しましたが、ハリマン及び米国の意図を見抜いていた外相小村寿太郎は厳しく首相に迫り、仮契約を破棄させました。
その後、米国国務長官ノックスが全満洲鉄道の中立化案を持って明治42(1909)年11月に来日しました。鉄道王・ハリマンは一企業家にすぎませんでしたが、ノックスは国務長官として満洲に介入してきたのです。 「中立化」とは聞こえはよいですが、要するに「ロシアと日本ばかりがうまい汁を吸うのは許せない」ということです。
これに対して、満洲に最も切実な利害を持つ日本とロシアは結束して反対。また、イギリス・フランスも日本とロシアの立場を優先すべきとして同意しなかったため、この提案は葬り去られました。
日本の大陸政策と門戸開放主義を中心にするアメリカ極東政策の公然たる対立は、ここに端を発したといえますし、日米東亜抗争史はこのときに始まったともいえます。ただし、この満洲の地の存在に関して、清国もアメリカも何等の苦闘もしておりません。財力と民族の血を賭けて奮闘したのは日本とロシアであったことは明記しておかなければなりません。
アメリカは、これ以外にも清国に働きかけて何とか利権を得たいと運動をしていましたが、それらはどれも失敗し、彼らのフラストレーションは募る一方だった。そして、その不満の矛先は、太平洋を隔てて隣り合う日本に向けられることになっていく。いわゆる「オレンジ計画」がそれでありました。
この時、日本が折れて、もしも共同経営が実現していたらそのごのたいりくもんだいはどうなっていたでしょうか?この複雑な国際関係の上での混迷、世界の激動を予想することができましょう。
〇 南満洲鉄道株式会社「満鉄」の役割
満鉄は、鉄道周辺の附属地の治安維持、管理運営に当たるために、日本政府からの多大な資本投入設けて、急ピッチで近代化、都市化を図った。それは、具体的に満洲の地で教育、衛生、学術といった「文事的施設」を駆使した統治であり、農産物、牧畜の振興であり、炭鉱開発、ホテル・百貨店・病院・図書館などを経営する一大総合商社的存在でもありました。満洲地域の人口は日本人17万人、シナ人など他民族を加えると40万人に上ったと言われています。大型ビルの乱立は、当時の勢いの大きさを示しています。鉄道も、大連とハルビンの間を疾走するアジア号に代表されるように隆盛を見ることができました。本土に比べて、生活水準も向上していました。日本人にとっても、米国・ロシアにとっても、満洲はまさに「憧れの地」であったのです。
こうして、この満洲を統治する上で日本は、領事館(外務省)、関東総督府(後に関東都特府)、満鉄の「三頭立て」の形をとったのですが、明治39年(1906)関東都督府陸軍部が鉄道と附属地を守備する目的で設立されました。その陸軍部が、満洲鉄道の周辺の治安維持のために大正8年(1919)に「関東軍」を誕生させたのです。 満鉄も、営利主義に向かい、満洲全体の統治に汗を流す雰囲気が薄れていきました。
〇 大正・昭和初期の満洲政策
1911年(明治44)に孫文は、革命を起こして南京に中華民国臨時政府設立し大総統に就任。翌12年2月に清国は滅亡。漢民族である孫文たちは「排満興漢」を旗印としました。これにより、孫文の府と奉天省を掌握した張作の対立となります。反日運動も激化していきました。しかも、支那大陸内では共産主義が勢力を拡大しつつあり、孫文の後を継いだ蒋介石政府と共産主義勢力および反共主義の張作霖と三つ巴の混迷となりました。結果して、張作霖軍は連戦連敗です。
昭和3年(1928)5月18日、日本政府は張作霖に北京から満洲への引き揚げ、満洲統治専念を勧告しました。しかし、関東軍の一部は、張作霖の撤退により、蒋介石の革命軍の影響が満洲に及ぶことを懸念し、張作霖を暗殺して満洲東北の直接支配を企みました。6月4日、関東軍が奉天へ引き揚げ途中の張作霖を爆殺してしまいます。張作霖の子学良は、当然のように反日の感情を激化させます。
このように日中関係の緊張が高まる中で、昭和6年(1931)9月18日、奉天郊外の柳条湖で線路の爆破事件が起こります。これが満州事変です。これを中国側の仕業だとして、関東軍は直ちに中国軍への攻撃を開始しました。関東軍の行動は、軍を指揮する統帥権をもつ昭和天皇、日本政府にも無断で起こされたのでした。
石原莞爾参謀らの関東軍はその後も軍事行動を続け、5か月ほどで満州全域を占領しました。
こうした既成事実が積み重ねられる中で、若槻礼次郎首相は「不拡大方針」を表明しましたが、やがて関東軍の行動は追認され、天皇や政府は軍の行動を抑制できなくなりました。
〇 満洲国建国と満洲国大学創設開設
昭和7年(1932)3月1日、日本は「満蒙は日本の生命線」との考えから、中国東北部(現在の河北・遼寧・吉林・黒龍江省と内蒙古自治区)に軍事力を背景に清朝廃帝溥儀を擁立して「満洲国」を建国しました。
満州国の理念は、 「五族協和」(日本、満洲、漢人、朝鮮、蒙古) を根本精神とする各民族の「共存共栄」を図り「王道楽土」を建設すること。この理想のもと、経済面でも教育文化面でも多くの資力を投じてその発展を期したのであり、ロシア南下の防波堤を期したことも確かでした。
しかし、五族の中では日本の力は群を抜いていました。国家は日本の傀儡的状況となり、理想の実現は非現実的であったともいえましょう。
また、満洲の社会事業の意義は、次の2点も考えられます。
・近代的な社会事業組織をつくろうとした
・大規模な医療社会事業施設をつくろうとした
「建国大学」については、国内外の優秀な教授陣及び優秀な入学者で構成されました。志願者は定員 75名に1万人ほど、地方の中学でトップクラスの卒業生。将来は大陸経営に貢献する人材を育成する目的で、教育内容も高度で自由な指導法がとられていました。満洲への憧れの一つの要因でもありました。
一方で、昭和8年3月、関東軍は東部内モンゴル熱河に進撃し、4月5月には「万里の長城」を越えました。そして5月31日、塘沽停戦協定が締結され、河北省島北端キトー地区に非武装地帯設定し、中国軍は撤退しました。これにより、満洲事変の軍事行動はほぼ一段落したのです。
この時点で、大陸問題の解決に進めなかったか、なぜ万里の長城を越えてまでも進軍する必要があったのかとの思いが募ります。一方で、支那大陸内部に日中間での戦争継続を望む勢力が拡大しつつあったことも確かでありました。
〇 満洲を考える視点
・ 清国も米国も満洲を防衛し近代的経営にする為の何等の犠牲を払わず、何等の努力もしていない。
・ 露国は、ほとんど無人の荒野に鉄道を建設し、北清事変の際には数千人の犠牲者を出し、日露戦争では数十万人の死傷者を出した。赤い夕陽の満洲の丘にはロシアの若者の血が流されている。
・ 日本は、清国を含めたアジアを防衛するために20万人の死傷者と20億円の戦費を支払っている。
・ 満洲国の首都:新京(奉天)、満鉄および周辺都市の整備と発展、大学を中心とする教育機関の整備、衛生環境など社会・厚生事業の進展、大豆を中心とする農産物の生産強化など、満洲国の発展に、日本本土は財政的にも多大な貢献、寄与した。新しい理想国家の実現に邁進した。
・ 清国人、満洲人、および米国その他外国の日本に対する羨望、怨望は日本の傀儡的存在を強調。
・ 日本は、各民族の独立自存への配慮はできていたか。各民族の自尊心に寄り添っていたか。
・ 日本は、他の諸民族から尊敬される国家国民であったか。
令和7年3月25日(火)、3月2日(日)の講演会「田中正造をめぐる郷土の人々 ― 根本正と黒沢酉蔵 ―」を受けて、田中正造関係の遺跡を訪ねました。また、近隣野木町にある煉瓦窯も見学してきました。参加者39名。天気に恵まれ、有意義な移動教室となりました。
○佐野市郷土博物館内「田中正造記念室」
佐野市では、郷土の偉人を顕彰するために、博物館内に「田中正造記念室」を設けています。
館長の案内と直訴状や和歌をはじめとした当時を知る原資料を通して、正造が谷中村に住み込んで足尾鉱毒排出問題に立ち向かった必死な行動を実感しました。
また、田中正造が初めに北海道の苫小牧に就職して北の大地の苦労を体感し、東北地方の冷害調査などを経験したことが、その後の生き方を変え、明治天皇への直訴へと繋がっていったことを学びました。
○ 田中正造旧宅
正造の色紙「愛」が光りました。また、『田中正造全集』が揃って展示されており、編集に尽力した黒沢酉蔵の談話記事も展示紹介されていたことに感激しました。
生家前の夫妻の墓所には、全員揃って参拝しました。
多くの人に称えられ、分骨された墓が6か所もあるそうです。弱い者の味方となり、人生のすべてをかけた人物の証だと思います。
○ 渡良瀬遊水地:廃村谷中村
足尾銅山の鉱毒は、遊水地を設けて解決を図りました。立ち退きを迫られた谷中村の人たちの悲痛な叫び声が聞こえてくるようでした。
日本の高度成長時代の公害問題を思い出しました。いつの時代でも、文明の黎明期には想定外の問題が起きます。その問題を解決しながら人間は歩んできました。私たちが便利で快適な生活が出来るようになるまでには多くの犠牲があったことを忘れてはなりません。
遊水地は、現在は葦などの自然植物の繁茂に任せています。広大な面積で、3月初めに葦焼きが展開されます。目的は自然保護とも野鳥のためともいわれています。
今回は、その焼け跡全体を展望台に上って観察、しばし感慨に耽りました。
この鉱毒被害はその後の環境問題の教訓となっています。
○ 野木町煉瓦窯
煉瓦造りの建屋は、渋沢栄一の尽力による深谷駅や東京駅などが有名でしたが、渡良瀬遊水池の対岸に位置する野木町にも煉瓦窯が在りました。
⇩ 観光案内書を参考にしました。
旧下野煉化製造会社煉瓦窯(通称、野木町煉瓦窯)はホフマン式の煉瓦窯で、明治23年(1890)から昭和46年(1971)までの間に多くの赤煉瓦を生産し、日本の近代化に貢献しました。この煉瓦窯には16の窯があり、1つの窯で1回に約1万4千本、全ての窯を連続して使用した場合には約22万本赤煉瓦を生産することが可能でした。また、この煉瓦窯は創業時から約130年経過した現在においても、ほぼ原型のままで存在しており、建造物として価値が高いものです。昭和54年(1979)に国の重要文化財に指定され、さらに平成19年(2007)には、「近代化産業遺産群」の一つに選定されました。
令和7年3月16日(日)、当会事務局長仲田昭一が「昭和100年への道、我、ロシア南下の盾たらん ― 中庭午吉の日露戦争従軍日記 ―」と題して講演しました。
江戸時代から明治時代にかけて南下を続けるロシアの脅威に対して、日本国民がどのように対応したか、盾の役割を果たして行ったかを、地元の中庭午吉(なかにわ うまきち)の日記に触れながら、また現在のウクライナへのロシアの侵略と併せ考えながらの講演であったことから、受講者の共感を呼ぶ内容でした。
当時の世界情勢は、英国をはじめ先進国がアジアへの侵略を進めていた歴史であることを認めることが大前提でなければなりません。清国や朝鮮、日本などの先人が、独立を如何にして保つかに死力を尽したことを、自分の事として学ぶ姿勢が求められたことと思います。
日本の独立保持、安定化には朝鮮の安定が必要でした。そのために朝鮮の自主独立を求めた日本の姿勢は、朝鮮からは是とされたのかどうか。是とされる可能性はあったのか、また是とされるには何が必要であったのか。現在にも与えられている大きな課題であることも再認識させられた講演でした。
1.当時の世界情勢への視点
① 地理上の発見とは、他民族への侵略の歴史である。
② 日本は朝鮮の安定化を実現して、南からの英国と北からのロシア勢力に対処しようとしたが、朝鮮との間に江華島事件などで強圧的施策が見られたことは遺憾である。朝鮮の認識としては、日本は東夷、朝鮮は儒教と礼儀・道義において日本よりは優位な国との認識も強く、一方では大陸の清国に従属する姿勢も持っていた。両者の相互理解は難しい状況にあった。
③ 朝鮮への主導権争いが日清戦争となった。日本としては初の対外的、国際戦争である。恐怖心はかなりのものがあったが、日本は軍制改革、軍人教化、兵器の近代化に成功ことなどにより勝利することができた。
④ 勝利した日本は、遼東半島を獲得した。これが、より大陸に進出する機会となったが、これが誤りの原点であるとの主張もある。しかし、領土の獲得が国際通念の時代であったことからは、単純に非難は不可であろう。
⑤「 日本が遼東半島を領有することは清国の独立を危うくする」との露国・仏国・独国の三国干渉は、はたして是認できたか。しかし、干渉を拒み続けた外相陸奥宗光は「武力的背景をもたない外交は無力である」と慨嘆した。3年後の明治31年(1898)、露国は清国から遼東半島を25年間租借する契約を結んだ。満州民族であった清国は、満洲民族発祥の地(先祖の地)を守護する意識・気概があったのかは、厳しく問われなければならない。
2.日露戦争<明治37年~明治38年>
遼東半島は勿論その周辺へのロシアの軍事力は強化されていった。日本は、それを許すことは出来なかった。否、ロシアが直接に日本の領土に迫るまでじっと耐えていればよかったのか。日本は国民挙ってその脅威に反応し、積極防衛に出ていった。遼東半島の旅順港近く、203高地周辺の戦場へ出兵した輜重兵中庭午吉であるが、戦闘の合間に日記を付けていた事実に驚く。
『中庭午吉日記』(抄) 明治37年
6月 1日 雨天、出発7時半、実に道路悪しく山を越えるに困難なり。腰より下皆土だらけ、着地4時頃、夕方雨止む。着地安東県清人の家に宿舎す。本日よりパン一食づつなり。
6月19日 曇り、晴天 午前馬蹄鉄打替、午後休み、旧5月6日にして、5日の節句には屋根に支那、皆桃の枝を赤き布をつけさすなり。猶、ヨモギもさす、柏餅は麦粉の中に生のニラを入る、猶ブタも入れ置くなり。午後5時頃雨少々降り、一時間ばかりにて止む 夜中2・3時頃大雷あり。
6月23日 晴天、午前引馬 前宿舎の浦の山へ三縦列集合し、本国の本願寺坊主出張し説教しそれを聞く。午後1時武器検査あり。
6月24日 晴天、朝霧 午前引馬演習、午後休み、4時馬の検査あり
8月24日(乃木軍総攻撃の日) 朝6時ころ迄(砲音)激しく。朝より砲音も激しく、午前8時頃より時々の砲音になり、19日よりわが軍にてフウセンを2千5百メートル突き程上げ、フウセンの品はフクロキヌなり。フクロノ下に角の籠を下げ、其の内に一人参謀長にて佐官来たり敵陣を双眼鏡にて見、下へ電話にて通知す。またフウセンを針金の綱にて引きをるなり。
晴天、午前8時より宿舎地の前へ行き見物す。海には海軍旅順より東の海に2列を隊に固めおり。西の海にも右の通り旅順近辺は皆小山ばかりの処へ砲台あり。午後8時半出発にて砲台まで弾丸の空箱を受け取りに参りし時、小銃の音激しく致し、敵は時々ノロシを上げ、探海灯は照らさず、12時半宿舎地へ帰り。
29日 晴天、午前引馬、午後休み。夜の12時頃より激しき小銃音す。雨少々降り。
31日 晴天、曇り、午前引馬、休みは午後なり。5時馬屋番。
※ 日記の中に、引き馬、馬屋番など馬の記録がある。戦場への馬への視点を改めて認識させられた。茨城県内の主な軍馬供養碑は、那珂市常福寺、石岡市峰寺西光院、桜川市友部路傍、つくば市吉沼八幡神社、つくば市金村別雷神社などに見られる。常陸太田市若宮八幡神社には日清戦争戦歿者供養碑が建っている。
3.ポーツマス講和条約調印 明治38年(1905)9月5日
日本が、米国のセオドア・ルーズベルト大統領に仲介を要請。日本の小村寿太郎(外相)とロシアのウィッテ(前蔵相)が交渉。結果は
・日本の韓国(大韓帝国)に対する保護権を認める。
・日本に遼東半島南部の租借権を譲渡する。
・日本の南満州の鉄道の利権を認める。
・南樺太(北緯50度以南の樺太 = サハリン)を日本に割譲する。
・沿海州・カムチャッカ半島沿岸の漁業権を日本に譲渡する。
※ 賠償金取れずに条約反対暴動(日比谷焼討ち事件)
一方で、米国の大陸への野望が判明する。米国鉄道王ハリマンが来日し南満州鉄道の共同経営提案10月12日、桂太郎首相とハリマンの協定。米国の中国大陸進取の野望あり。小村外相は、この協定を破棄させた。
4.日露戦争以後
(1)影響
・ロシアの崩壊、ソ連の成立と中国大陸への共産党勢力の拡大
・アメリカの中国大陸への進出
・中央アジア民族の歓喜(黄色人の日本が白色民族の露国を破ってくれたと)
(2)福島県二本松出身、米国エール大学教授朝河貫一の警告
・日露戦争に勝利した日本への英米の圧力は増して来る。「米国の世界的強国」主義が清国の独立保全・機会均等の実現に寄与することを是認して、日本もそのように対応する必要がある。
・日本国民の愛国心は大切であるが、驕ることなく、公平なる態度・沈重の省慮を具備すること。国民の善良なる習慣を養成することに努力することが肝要である
(3)「戊申詔書」の発布
明治天皇は、明治41年(1908)「戊申詔書(ぼしんしようしよ)」を発布され、勝利に驕らず本来の日本人に目覚めて誠実勤労・質素倹約に日々努める国民に戻るよう善導された。これに感激した青年たちにより、全国各地に戊申青年会・同志会なるものが結成され、地域社会の気風改良の運動が展開された。