水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

水戸烈公斉昭と農人形

2021-12-21 10:06:33 | 日記

 12月19日(日)の講座では、水戸藩の歴代藩主が「愛民専一」「君は民の父母なり」「民は国の元なり」の心で領民に対していたことが明らかにされました。
 その心が、特に農民への感謝の思いが、烈公斉昭によって「農人形」として形に表されたことは画期的でありました。世界に類のない発想です。烈公の柔軟な発想力に驚きます。

 烈公は、食事をする前には必ず農人形にご飯を供えてから食する習慣を、烈公自らはもちろん子女たちにも実行させたのでした。その農人形を烈公の子女たちの嫁ぎ先へ、あるいは養子先へとそれぞれ持たせて、この美風を他藩へも伝えていたのです。その代表的な例は、松姫明子が嫁いだ南部藩です。しかもその家臣から伝え聞いた新渡戸稲造が、自ら模型品を造り、国連事務次長となっては諸会議の土産物として世界に弘めていた事実には驚嘆しました。

 明治時代に、水戸高等女学校では「農人形祭」も行われていたのですね。

 私たちは、改めて食事のできることへの感謝の念を一段と高め、日本の農業の将来にも思いを馳せるなど貴重な講座となりました。

水戸烈公と農人形

 主な内容を挙げておきます。

 烈公斉昭のこころ

 ○ 領民に対して

      ちちに思ふひとつ報も有らぬ哉三十年民に恵まれし身の

         朝な夕な飯食ごとにわすれじな めぐまぬたみにめぐまるる身は

 ○ 恐ろしい飢饉への戒め

 自ら筆して領内に配布した。「専ら稼穡(かしょく)(農耕)に力め、飢饉を忘るる勿れ」

 ○ 烈公の第十八子鑾山(らんざん)昭武の母万里小路睦子(ちかこ)」(秋庭夫人)は、この美風を後世に伝えねばならないと「農人形の記」を残しています。

 

模型農人形の主なものを記します。

  • 昭武公(鑾山)の陶製のもの
  • 『田園都市』(内務省地方局有志編纂、第十三章「烈公の農人形」明治四十二年十二月発行)に紹介されたいわゆる素焼きのもの
  • 常陸太田の代々鋳物業者小泉源三郎が、明治四十一年(一九〇八)十一月二十日に昭武から許可を得て、原型に則り青銅にて鋳造したもの
  • 大正初め水戸公園梅細工元祖佐久間丑太郎の梅細工
  • 昭和八年四月二十三日除幕式の県庁前の農人形
  • 南部藩新渡戸稲造が制作したもの
  • 弘道館内の富岡桂山作の大型農人形
  • そのほか、現在も「水戸彫」とも俗称されている湖舟堂氏ら四人、また宇野広一氏の後継者も続けて制作にあたっています。

 

 水戸の土産物として「水戸の梅」・「吉原殿中」・「水戸の納豆」など食料品が名高く、工夫改良もされているが、「農人形」なども「報恩の念」の薄れた今日の土産品としては大いに価値のあるものと思えます。
 水戸郊外に「農人形最中」が販売されていることもうれしいことです。

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松戸・牛久方面 ―水戸藩ゆかりの地を訪ねて―

2021-12-20 08:31:37 | 日記

 12月5日(日)、穏やかな快晴の下、まだ散り残る紅葉を愛でながら、31名の参加者を得て開催しました。

 コースは次のとおりです。

 那珂市一乗院 🚌 松戸戸定邸 🚌 松戸本土寺 🚌 牛久小川芋銭記念館(雲魚邸) 住井すゑ記念館 🚌 一乗院

 

戸定邸

 徳川昭武公が明治16年(1883)に水戸藩11代藩主を退いてから、翌年に小梅邸に住む母親登美宮吉子を迎えてともに過ごしたいわば隠居所です。松戸の街並みを見下ろす高台にあり、遠くは富士山を望むことができたといわれます。純和風の建物と西洋風の芝生の庭をもつ邸宅で、佐倉の堀田邸、鹿児島の磯邸と並んで三大近代和風建築の一つです。

 ここには、最後の将軍となった兄徳川慶喜もしばしば訪ねて来ては、一家揃って幕末の混迷を回想していたかと想像してみました。アカマツなどの樹木も多く植えられ、葡萄状の小さな赤い実をつけた飯桐も印象的でした。

 

本土寺

 日蓮宗の寺院で本堂や三重塔など大伽藍がのこります。大きな楼門の先の盛りの紅葉をくぐり境内に出ます。本堂裏手に、徳川光圀公が伯父武田信吉の母親秋山夫人の墓石を修復して供養した思いを偲びながら、墓前に参拝しました。

 水戸藩の藩士や領民は、斉昭公の藩主就任をめぐっての抗争や斉昭公が幕府から処罰された弘化甲辰の変、また安政の大獄の際に、それへの抗議行動として大勢で江戸まで上りました(小金屯集)。その際、江戸入りを拒否されたり、待機させられた際の駐屯地となった寺院でも知られています。

 現在では、アジサイ寺やもみじ寺として知られ、また長い参道は一般の道路と共用する形となっています。

 

小川芋銭記念館「雲魚邸」

 子どものころから自然と絵が好きになり、貧しい生活の中でも、工面しながら絵を描き続け、芋を買えるくらいになればとの思いであったといわれます。芋銭は、それが画号となったといっています。

 住まいの雲魚邸は牛久沼を見下ろす高台にあります。当日の湖面に輝く夕日もきれいであった。屋敷内に「河童の碑」が建っています。当時は、河童は誰にでも信じられていた時代で、祖父母ともよく話をしたといっています。雲魚邸前の大きな松は、河童を縛り付けた「河童松」といわれています。

 やや世間を風刺しながら70年の生涯を閉じたのでした。

 なお、墓所は近くの得月院(無住)の本堂裏にあります。本堂脇の樹齢約500年の巨樹かやの木が迎えてくれます。

 

住井すゑ文学館

  旧宅を改修して書斎を再現して、開館間もない時期の訪問でした。旧宅を知る方々からは、あまりにきれいになりすぎたかなとの感想もありました。

 住井すゑの代表作は『橋のない川』です。全巻はとても読み切れませんでしたが、いわゆる部落民集落を取り上げて、身分制の廃止が過ぎてもなお解決しえない問題への対策を迫った小説です。相手は「本当に動物なのか」と手を握って確かめる女の子の場面は実に悲しいものでした。強く印象に残る場面です。

 不平等問題は今日でも深刻な問題となっています。一人ひとりの心の持ち方の覚悟が迫られているところです。

 それにしても、住井すゑはさすがです。左右両翼の書籍もよく読んでいたようでした。蔵書群からそれを感じました。

 帰路の車内は、当日のさまざまな話題で熱気あふれるものとなりました。

 当日の歩行数は約1万歩、皆さんよくがんばりました。お疲れさまでした。

 

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