水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

嗚呼、天狗党田中愿蔵隊の顛末

2021-10-20 09:45:28 | 日記

 秋期講座Ⅰの2回目の講演会「嗚呼、天狗党田中愿蔵隊の顛末」が10月17日(日)、那珂市ふれあいセンターごだいで開催されました。強く風にあおられる大雨の中、80名の来場者でした。

 水戸周辺の皆さまの「水戸天狗党」への関心の大きさと講師の飯村先生の田中愿蔵への誤解を解こうとする情熱の深さを、改めて実感させられました。
 飯村先生が題された「嗚呼」に込められた天狗党および愿蔵への思慕は格別なものがあるようです。参加者一同、映像と内容及び臨場感あふれる語りにすっかり
魅せられた90分でした。

以下に、講演の概要を示しておきます。

 田中愿蔵は側医師猿田玄碩の五男に生まれ、水戸藩の原忠寧の青莪塾に学び、藩医師田中通碩の養子となる。さらに弘道館や江戸の聖堂において安井息軒に学び、
秀才を以て19歳にして水戸藩の郷校時雍館の館長に抜擢される。

 文久3年(1863)、孝明天皇に攘夷の証として横浜港を閉じることを奏上するため将軍家茂が上洛する。それに随従する水戸藩主慶篤に従い、田中愿蔵も藤田
小四郎らと上京する。愿蔵は、攘夷運動の嵐の中で、「尊王攘夷」の決意を固めるが、この時、討幕論者の藤本鉄石(天誅組)らとの接触もあってか、単なる攘夷
ではなく「討幕」への決意も持ったようである。元治元年(1864)3月、藤田小四郎・田中愿蔵らが朝廷や前水戸藩主斉昭の意向に応えようと攘夷の旗をあげた。
藤田小四郎は、水戸藩の藩是である「尊王敬幕」で「討幕」ではない。二人の考えには、最初から大きな違いがあった。

 筑波勢は、資金集めなどで火付け・強盗的な行動があったと非難されるが、田中愿蔵隊はその下手人とされて
しまった。田中隊は、実際には行っていない。考えや行動が異なるとして藤田小四郎隊が愿蔵を除名し、行動へ
の非難を愿蔵隊に向けてしまったのである。

 別動隊となった田中愿蔵隊は、水戸藩諸生派・幕府軍に追われ、最後に八溝山中に逃れ、遂に棚倉藩に捕縛さ
れた。一行の面々は、八溝山の幾筋かの道を下って逃れたが、それぞれ最後は捕縛されてほとんどは処刑の身と
なった。

 愿蔵は、七日ほど獄中に入れられ尋問を受けたが、堂々とした態度・姿勢に村内にも惹かれる者も出てきた。
近くで接していた首切り人桜井半兵衛もその一人で、なかなか斬首に及ぶことができず、七度も逡巡しながら、
最後に愿蔵に促されてのことであった(21歳)。愿蔵処刑の場は、塙村下河原の刑場であり、首は水戸へ運ば
れ、胴体は近くの安楽寺に埋葬された。

  辞世は「古里の風のたよりをきかぬ間は わが身ひとりのやみぞかなしき」

 『東白川郡誌』は「愿蔵、死、処を得ず、名空しく没すと雖も、志、遥かに名顕はるる者に勝る」と称えている。

 慶応元年(1865)5月、桜井半兵衛によって「南無妙法蓮華経」の供養碑が建てられた(現在は塙町の道の駅「天領」の「傍らに移されている)。安楽寺の 墓所には、今でも、地元民は自分の家の墓参りの際には、線香や供花を残して添えて帰るとのことである。

 参加者の一人は「この田中愿蔵や藤田小四郎らの旗揚げの時点で、幕府はすでに外国との交流を持ち、留学生も派遣している。攘夷は何の為であったのか。討幕後はどうしようとしたのか。また、田中愿蔵が討幕を考えていたのなら、敬幕の藤田小四郎となぜ組んだのだろうかなど大きな疑問も残るが。」と話していました。

 

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根本徳子と矯風会活動

2021-10-10 21:32:31 | 日記
 水戸・歴史に学ぶ会では秋期講座Ⅰとして2回の講演会を予定しました。茨城県内の新型コロナ感染症も少し落ち着きを見せてきた10月3日
予定通り第1回目の講演会「根本徳子と矯風会活動」を開催しました。
 講師は、当会代表の齋藤郁子が務め、明治初期において女性の地位向上および矯風会発展に尽力した根本徳子の姿を紹介しました。

 参加者の一人は、「根本徳子が代議士根本正の夫人であったことを初めて知り驚いた」「女性の目から見た夫人の話が新鮮でした」との感想
を寄せてくださいました。

 以下に、講演要旨をまとめてあります。
 
〈徳子の学んだ桜井女学校〉
 「桜井女学校」は、明治9年(1876)に桜井ちかが日本人による日本の子のために築いた学校だった。明治14年(1881)8月、桜井ちかは夫と
ともに、北海道へ伝道のため旅立ち、9月になると、矢島楫子が校長代行となり、二人の女性宣教師が先生となり、その後を受けついだ。このとき、たくさん入学した生徒の中に14歳の小川とく(根本徳子)もいた。
 
〈学生として 先生として〉
 このころは、入学資格とか、先生の資格とかなどという特別なものはなく、午前中はとくをふくめた高等科の生徒が英語の授業をした。赤い帯に、       講 演 す る 齋 藤 郁 子 代 表
裾長の洋服、靴履きという当時もっともハイカラな装いで、下級生たちの憧れの対象にもなり、崇拝の種にもなった。
 女性宣教師は、桜井女学校ばかりでなく、各地の学校創立にも尽力した。学校を創るとなると、現地に赴き基礎を整えて帰京するという形態だった。
 明治21年(1888)4月に創立した高田女学校には、ミス・デビス、井上ちせ、小川とくの3人で赴き、開校前の仮校舎で教え、本開業までの準備を進めた。(開校式は5月19日)

 とくは先生の仕事や与えられた任務を果たしながらも、明治22年6月高等科を卒業した。
 その後もしばらくは先生を続けており、明治27年には、ヨーロッパから戻った豊田芙雄を助け、中学校に相当する女学校「翠芳舎」を創立し、裁縫と編み物を教えた。
 
〈慈善事業を楽しむ〉
 桜井女学校には「自助栄恩社」という本校の生徒だけが集まる会があった。毛糸編み、レース、などの手仕事をし、それを集めて何かの慈善事業に使った。クリスマス近くに開かれ
る会では、その手間代を渡され、その半分を事前箱に入れて他の半分を与えられた。
 みな、散歩のときでも談話のときでも手に編み物を持っていた。とくは実に働き者で皆も羨むほどだったという。
 
〈東京婦人矯風会の設立~日本キリスト教婦人嬌風会へ改称〉
 明治19年(1886)11月9日に桜井女学校の関係者4名が発起人となり、41名参加者の中婦人禁酒会の設立準備が開催され多数の賛同を得て設立された。同年12月6日、東京日本橋
教会で東京婦人矯風会として会員56名で発会式をあげ、初代会頭に矢島楫子が選出された。東京婦人矯風会は、明治20年に米国留学中の根本正を介して万国本部に設立を報告した。
 矯風会が発足して半年ほど経った頃、「この会は、世上の悪風を矯正して女権の拡張を望むとの主旨にて設立…」としながら、禁酒・禁煙、藝娼妓全廃論等々複数あるため、せっ
かくの会員の尽力が分散してしまい、損するところも多いとして、「藝娼妓全廃」を第1の目的とすることとなった。                                   若 き 日 の 徳 子
                                                                         
〈徳子にとっての婦人矯風会〉                                                                       
 明治23年9月に安藤太郎氏(禁酒会会長)夫妻を保証人として根本正と結婚する。根本正はアメリカ留学中から婦人禁酒会の事業に熱心で、アメリカの万国婦人禁酒会と東京の婦人
矯風会との仲介役として尽力した。
 根本正と結婚してからの徳子の矯風会への関わりは、多忙で留守がちな夫に代わって家を守り、子育てをしながらの活動となった。会の目的である廃娼・女性救済の思いを消すこと
なく、自分ができること、しなければならないこと、をはっきりと自覚し、できることの喜びを胸に活動を続けた。
明治26年(1863)4月3日、東京婦人嬌風会は全国組織となり、日本キリスト教婦人嬌風会と改称した。会頭矢島楫子のもと根本徳子は通信書記に就任した。
 
〈廃娼運動と女子慈愛館設立〉
 廃娼運動では、廃業した娼妓を引き受ける受け皿としての救済館が必須だった。
 婦人矯風会では、女性救済のための「慈愛館」を設立することとなり、国内外での募金活動が始まった。
 募金運動は生易しいものでは無かった。明治27年7月2日の会議で徳子は地主3名のうちの一人に選出され、地主が「土地所有者は矯風会である」という証文を入れて登記を済ませた。
 残金は潮田千勢子や矢島楫子が立て替えたがまだ足りなかった。
 この時徳子は、矯風会に月5円の寄附をしようと決心した。貸家を数件立てての家賃収入だとか、切手の売りさばき許可を取って販売手数料をそれに当てた。
 土地を手に入れたものの建物は未だだった。とにかく事業を始めようと各家庭で娼妓に売られかけた子供を預かって家事を見習わせたりしながら慈愛館の開館を待った。
 矢嶋楫子は矯風会の人たちとともに廃娼運動に取り組みながら、根源にある貧困を思わずにはいられなかった。貧しいがゆえに娼妓に売られ、学校へも通えない…。社会から貧困を
なくすことができないとしても、せめて…子供たちに教育を受けさせたなら、無知がゆえの転落を防げるのではと考え実行に移したのであった。
 
〈宮尾登美子 芸娼妓の世界〉
 宮尾登美子の実父の職業は〝女衒〟(妓供たちを遊廓、料理屋に周旋)だった。女性矯風会と反対の立場だ。これに関わる世界を描いた作品の一つに『岩伍覚え書』がある。その一文には「今は昔と違って県の議会にも廃娼運動を唱える議員なども現われ、学問のある連中はまるで流行り病いの囈言のように同じ事を唱えておりますが、私に云わせて貰えば、まず裏町の貧乏人が楽に暮せる世の中にしてからそう云う理想をぶって欲しいものであります。私とて芸妓娼妓が決していい職業だとは思っておりませんが、高知市の貧民窟と具さに関わりあった経験のある人間なら、この実状のなかで廃娼運動を唱えるのは、貧乏人は皆首を縊って死ね、と云うに等しい事がお判りで御座いましょう。」とある。矢嶋楫子の「根源にある貧困を思わずにはいられなかった。…」と同じ思いがあることに、私は当時の背景を思わずにはいられなかった。
 
 
 
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